矮小な身体では、大きく藻掻きながら羽ばたいても、空気の抵抗に潰されそうになる。どうにか風をうまく使って、巻き上がる粉塵を掻き分け、騒めく木々の狭間を通り抜ける。柔らかい新緑の葉にぶつかりながら、必死で慣れない翅で前進を続ける。途中でかさりと硬い感触に薄弱な翅が痛みを訴え、傷つけた正体を見遣ると枯葉の一枚であった。なんと脆弱な体躯だろうか。愕然とした心持を飲み込んで、ひらひら葉のような肉体で風に乗った。
通り過ぎる木が揺れただけで本能的な恐怖心を覚える。草木に身を隠しながら様子を窺うと、普段は小さな小鳥がか弱く飛び立つ様が見えた。あの生き物より、今の自分は随分と小さく、脆かった。いつもの身体があったなら、はあ、と溜息を吐くところだ。細い触角を忙しく働かせて周囲を警戒し、静かになったところで再び飛び立った。
蝉の鳴き声がする。バッタが飛び跳ねている。細やかな山風が吹いている。そのどれもが興味深い大自然で、今現在は脅威だった。揺れる花の上に一度着地して、ぐうと鳴りそうな腹を満たすために蜜に細長くなった口を伸ばした。
慣れない甘味で味蕾を満たしながら、さて、これからどうすべきかと思考を回し始める。
山中の深いところ。そこにジェイドは居た。今朝、早くから寮を出て、すぐ外泊届を提出し、山へ足を運んだのだ。まだ高い日を見上げながら思い返す。教師のほかには誰にも会わずにここまで来たのだし、救助は望めないと思って良いだろう。
そもそも、救助が来たところで、誰が見つけられるというのだろうか。ふわ、ふわと軽く風に靡く翅を見ながら、そう思った。
――小鳥よりも小さな体で、枯葉よりも弱い体で、山の風に煽られながら藻掻く”蝶”を見て、誰が”ジェイド”だと思うだろうか?
花の芯から口を離して、花びらにしがみ付いていた足先も離す。同時に翅を動かして、飛ばされる前に風に乗る。そうして高度を上げていきながら、ふらつく軸をどうにか整える。ただでさえ飛行術すら不得手であるのに、全身で空を飛ぶ生き物に成ろうとは何ともついていない。少しでも軸を保っている内に、急いで下山を目指した。
段々と夜が近づいてきて、焦燥感に苛まれる。夜の山に何が現れるのかは重々に理解している故だった。暗くなっては目も見えない。薄れていく視界に、溺れる直前の人間を思い出しながらも、翅をばたつかせずにはいられない。これが人や人魚の身体なら、息を切らせているところだろう。気を抜けば風に殺されてしまいそうな薄い肉体を、冷たい空気の中で酷使を続ける。そして、遂にバランスを崩した。
ぽたり、と土の上に落ちたのは唐突だった。痛みも感じず、茫然と昏い空を見上げる。小さな星がひとつ、頭上に輝いている。あれは一番星か、と思い、半ば諦観に似た感慨を抱く。
人魚が山で死ぬなんて聞いた事がない。しかも、こんな矮小な生物になって、力尽きるだなんて滑稽にも程がある。そうは思っても、中々に脆弱な身体は動かなかった。ぴくりとしか動かない翅先を見詰めながら、自らの行動を悔いた。
夜空にはまだ明るい、夕の空に光が瞬く。願い星を想起して、なんとなく、流れもしない一番星を見上げ続けた。どうか、と願うような事は無いけれど、せめて二人に何か残しておきたい。
暫く視界を遮断して、じっと翅を休めてから、動きがマシになった翅をぱたぱたと振る。再び吹いたそよ風に軽く転がされた勢いで、ゆっくりと浮上する。それからは慎重に風に乗り続ける。
その時、がさり、と一際大きい足音がした。虫や小鳥などではない。血の気が引くのを感じ、ゆっくり草陰に隠れる。熊か狼だと思った。しかし、木々の合間から覗いたのは、随分と見慣れた頭だった。
「おーい、ジェイドー?」
運動着に身を包み、汚れても良いスニーカーを履いている。彼はのんびりと呼び掛けながら、ふらふら揺れて周囲を見回している。
それはフロイドだった。普段は山になど絶対に登らない、と拒絶して逃げ回っている兄弟だった。その彼が、たった数時間居なかっただけのジェイドを探すためだけに山に登った。その事実に甚く感激して、本来であればすぐさま返事をして駆け寄り、見つけた成果を教えているところだが、今はそうもいかない。この姿では、ただの虫だと潰されてしまう可能性があった。
草葉の間から、慎重に這い出す。地面を歩くように近寄りながら、フロイドの背後を取る。面倒げに頭を揺らしている隙に、ゆるゆると宙へ舞って、その頭上に飛ぶ。想定外に高くなった高度を少しずつ落として、不安定な頭頂部へと、細い足先をくっつけた。
「いねーじゃん……入れ違った? はあ~……オレも帰ろ」
どうやらすれ違いで帰ったと勘違いをしたらしい。盛大な溜息と同時に急回転したフロイドの髪にしがみ付き、振り落とされそうになるのを耐える。その一瞬、ん、と疑問符混じりの声が上がる。同時にジェイドも動きを止め、潜める必要のない息を止める。フロイドの手が頭部まで伸びてきて焦ったが、その指先は軽く後頭部を掻いただけだった。ほっと息を吐いて、慣れた髪の感触に身体を落ち着ける。それから、規則的な揺れが訪れ、フロイドが下山を始めた事を知った。歩みと同時にふわふわした髪が身体に触れて、少し擽ったい。先程までの恐怖心も諦観もすっかり忘れ去り、今やその感覚を楽しんでいた。
揺れが平坦になった、と気が付いたのは、それから暫く経った後だった。軽く眠っていた頭が覚醒した時には、随分と明るい場所にいた。それが人工灯と分かると、咄嗟に身体を縮こまらせて、フロイドの乱れた髪に身を隠す。
「――は? いなかった?」
完全に視界がエメラルドグリーンに埋められたタイミングで、これまた慣れた声がした。どさり、と乗った頭の受けた振動から、VIPルームのソファに倒れ込んだのだと推測する。
「ちゃんと探したんだろうな?」
「さっきからそう言ってんじゃん。いつも居るキノコのとこもぉ、もっと奥の方まで! こんなに頑張ったんだから褒められても良くねぇ?」
「目的を達成していないのに褒めるわけないでしょう」
――フロイドはきちんと僕を見つけて連れ帰っても来ていますよ。
あからさまに不機嫌な二人と妙な空気に、胸中ではそう口を挟む。ごろごろ転がりもせずに、静かにソファに身体を倒す兄弟の動作に罪悪感が湧いてくる。自らの失態のせいで理不尽に叱られているのだから当然だ。慰めるように翅をほんの少しだけ揺らして髪を撫でる。もちろん、フロイドは気付かずに低く唸った。
「オレがホールもキッチンも回したし店も閉めたんだけど」
「ええ、そうでしたね。ありがとうございます。まあ、それもお前がジェイドを見つけられなかったせいなので自業自得、当たり前の事ですがね」
「は? なんで全部オレのせいになんの? つーか、元はと言えば昨日アズールが――いったぁ!」
フロイドの言に慌てて掴んでいた髪を精一杯の力で引っ張った。流石に痛みが通じたようで、フロイドは文句を切って悲鳴を上げる。その手が素早く伸びてくるだろうことは予想していたため、それよりも早く頭部から離れ、ソファの背に隠れる。そのまま伝って、ソファの下へと潜り込む。
「……急にどうしたんです? 僕への文句が聞こえた気がしたんですが?」
「本当の事じゃん! んな地味な魔法使って妨害するようなこと!?」
「はい? 魔法なんて使っていませんけど」
「でもオレ今、絶対髪の毛引っ張られた!」
「知りませんよ。罰でも当たったんじゃないですか?」
毎日のように掃除をしていても、やはり家具の下は埃っぽい。翅に纏わりつく塵を振り払いながら、二人の言い合いを聴く。噛み合わない会話を聞いていると、悪戯好きの妖精の気持ちが分かる気がした。今のジェイドは妖精でもなく、ただの虫であるが。
二人の間で交わされる会話は、それから少しずつ温度を取り戻していった。言い合いを続けている内にヒートアップしていくジェイドとは違い、フロイドは無用な悪態を吐く事が無い。だからこそ、最初は苛立ちを隠し切れていなかったアズールも、普段に近付いていく。
「まあ……そもそも、ジェイドがいないのはあいつ自身のせいですからね。八つ当たりをしてすみませんでした」
「いいよ。後でたこ焼き作ってくれんでしょ?」
「……分かりましたよ。慰労も込めて作ってやります。材料はあるんでしょうね」
「なかったら購買部行けばいーじゃん」
「はあ……無駄な出費だ……」
かたり、と椅子が床に触れる音がした。アズールが席を立ったのだろう。次いでソファの前で揺れていた足も地に着き、頭上のソファを揺るがした。制服と違って綺麗に整えられた靴を追いかけ、ソファの下から這い出した。踵に潰されないように舞いながら、扉が閉まる前にフロイドの足首に止まる。ちらりと見上げた二人の表情はうまく見えなかった。
ジェイドは再度、フロイドの頭頂部に身体を落ち着けていた。眼下に広がるのは、それは上手に球体を形作ったたこ焼きだ。ソースが明かりを反射してきらきら光って見える。触覚だけ伸ばして、フロイドの口に運ばれていくそれを眺める。ふわふわ漂ってくる湯気に混じる食欲をそそる香りに翅が動く。しかしながら、不思議な事に腹は空かなかった。美味しそうだとまでは感じるけれど、口にしたいとは思えない。身体の与える影響はこれほどまでに大きいのだと今更ながら気付き、面白く思う。そして、腹が空かなくて良かったとも思った。我慢できずに飛び出してしまったら、それこそ二人に潰されてしまう。フロイドの好物を横取りしようとは、たとえこの身体でなくとも、思いもしないけれど。
キッチンの奥から、やや疲れた様子のアズールが出てくる。片付けをしていたのだろう。エプロンを脱ぎながら、美味しそうに咀嚼を続けるフロイドの正面に座った。
「あ、アズール。これ美味しーよ。ひとつあげよっか?」
「それ僕が作ったんですよ。……カロリーオーバーになるので要りません」
「いーじゃん、いっこだけ」
「むぐっ!?」
器用に串刺したたこ焼きの一つを無理矢理アズールの口元に寄せる。勢いよく行ったからか、僅かな唇の隙間からでも突っ込む事に成功している。目を白黒させながら、自らの作ったたこ焼きを咀嚼し、じとりとフロイドを睨みつける。
「本当にやめてくれませんか?」
「美味しかったあ?」
「それは当然ですよ。この僕が作ったんですから。……そうじゃなくてですね!」
たった二人の空間であるのに、随分と賑やかな会話を聞きつつ微睡む。楽しげに言い合って、フロイドのペースに巻き込まれたと悪態を吐きながらも、穏やかな様子のアズールを見ていると、無い心臓がじくりと痛む心地がする。普段であれば、にこりと笑って誤魔化すところだが、今はその必要もない。表情もなければ、そもそも見られる事もない。存分に痛む胸に、無い表情を歪める。
時折、思う事があった。フロイドはいつもだらしないけれど、いざとなれば一人で脅威にも立ち向かえるポテンシャルを持っている。それこそ、ジェイドがいない時であれば、もしや”ちゃんとしている”のではないか。アズールも我儘でジェイドとフロイドを振り回すが――これに関しては二人揃って好きで手伝っているのだが――実のところ、二人に頼らずとも解決できる案件の方が多い。
だから、もしかしたら、自分がいない方が二人にとっては”良い事”なのではないか。
そんな風に考え付いてしまったのは、何も昨日や今日の事ではない。頼られる事は別に煩わしくもないし、楽しいのだからそれでいいと何度も結論付けていた。しかし、こうして自分のいない二人の楽し気な姿を目にすると、その考えは間違っているのではないかと思わされる。
人は誰しも、一人では生きてはいけない。だけれども、いつまでもずっと三人でいる事は、とても難しい事であるのも理解している。最後までずっと、同じ目標を抱いて進むなんて不可能だ。今でさえ、こうしてバラバラの趣味趣向を抱いて生きているのだ。
ぱた、と翅が動く。鱗粉の散らない体で良かったと思う。もしたこ焼きに降り掛かってしまおうものなら、アズールに怒りで叩き飛ばされてしまっただろう。そんな下らない考えで悲観を薄めながら、律儀に手を合わせるフロイドの髪に微細な全身を埋めた。
ぱたりと扉を閉じる音がしたら、すぐさましがみ付いていた足を離す。予想通りに今しがたまでくっついていた柔い髪の持ち主は、大股で自らのベッドまで近付いて、そのままダイブした。制服に皺が出来てしまうと憂慮しつつ、壁を伝うようにこっそりと彼の死角へ移動する。少しの間、そこからじっとフロイドの動向を見守っていたが、すぐに寝息が聴こえてきてほっとする。
今日一日だけでも随分と慣れた上昇をし、ゆっくりと音も立てずに、眠りに就いた兄弟の上へ滞空する。心地良さげに動く背中を見下ろしていると、随分と安堵した。山の中で張り詰めていた意識が、彼に触れてから和らいだことを思い出す。もしも声が出せたなら、今すぐお礼を言いたかった。恐らく返事は「うん」でも「いいよ」でもなく、「馬鹿じゃねーの」辺りだろうけれど。
そんな事を想像しながら、忙しく翅を動かしていると、眠気に似た気だるさに襲われ始めた。蝶も眠るのだなと場違いな感想を抱いて、それから寝床に困った。流石にベッドで眠るわけにはいかない。いつ、天気屋のフロイドがこちらへ移るか分からないのだ。それならば、と部屋を見回して、壁の棚に目を付けた。
ふよふよ漂って、壁際に寄る。風の無い室内では随分と楽だ。もしかして飛行術も無風であれば上手くやれるのかもしれない。ぺたり、頼りない両脚をガラスの表面に置く。小さな瓶の中には、ジェイドの大好きな景色が閉じ込められている。部屋に飾っておいた、自作のテラリウムだ。きょろきょろと瓶の間を見回し、そしてがっかりと無い肩を落とす。全てしっかりと蓋がされている。これを開けるのは、今のジェイドには不可能だった。
もう一度、部屋を見回す。そして、あっと声を上げようとした。声帯が無いので実際には無音であったが。視線を遣った机の上には、昨日まで作業をしていた、製作途中のテラリウムがある。それは当然、密閉作業を終えていないため、蓋も少し開いている。喜々としてそちらへ移動する。
近くで見ると、人間の瞳で観ていた時よりも美しく思えた。大きさ故に迫力がある事もそうだが、やはり虫であるが故の感覚も働いているのかもしれない。吸い寄せられるようにして瓶の中へ体を滑り込ませる。昨晩、植えたばかりの苔に乗る。試しに植えていた小ぶりの茸に頭を預けて、微かな呼吸をする。
ここにいれば安全だという確信があった。フロイドはもちろん、アズールもテラリウムには余り触らない。ジェイドが大切にしていると分かっているからだろう。そして他の者は、そもそも部屋に立ち入らない。蝶々が瓶詰めされていようと、誰も疑問に思わない。フロイド辺りは顔を顰めて、また変な事してる、くらいは言うかもしれない。
うとうと舟を漕ぎつつ、部屋の中へ視線を戻す。寮服のままでベッドに倒れ込んだフロイドは、口を開けてゆっくりと呼吸をしている。もしも、この変身が明日には戻るのなら、まずあれを整えてあげなくては、などと考えた。
――本当は、僕がいなくても大丈夫だと言って欲しいのだけれど。
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