かくして全身をずぶぬれにして帰寮した二人を、フロイドは大爆笑を交えて迎えてくれた。腹を抱えながらもラウンジまで二人を匿い、部活終わりの疲労感を見せずにばたばたとタオルを取りに出て行った。
放課後を過ぎて夜中のラウンジで、髪先からぽたぽた落ちていく雫を懐かしく思いながら眺める。暫く存在しなかった体の部位になんだか違和感を覚える。何度も手を握ったり開いたりして、ソファに座ったままで足も揺らす。顔を天井へ仰向けて、瞬きを繰り返す。それから、口を開いて、無意味な音節を発声する。そうして、漸く戻れたのだと実感した。
「ジェイド」
「はい」
名前を呼ばれると反射的に返答する。この当たり前の事に感慨を覚えながら、わざと目を逸らす事をせずに、真横に座るアズールを見据える。意図通り、声を掛けたはずの彼が狼狽えるように視線を彷徨わせた。少し俯かせた顔をジェイドの方へ向けながら、口を開いて、閉じての動作を繰り返す。それを見て、口元の運動はしていなかったと思い出し、真似て口を開閉する。すぐにその目は吊り上がって、遠慮がちに膝へ置かれていた手がジェイドの腕を掴んだ。
「何でしょう?」
また、何かを言おうと開いた口が閉じる。そして、はあ、と溜息に変わった。
「……今回の事は、もう何も聞きませんよ」
「おや、いいのですか? あんなにもご迷惑をお掛けしたのに」
「代わりに! 二度と、こんな事はするなよ。……いいな!?」
掴んだ腕が骨まで捩じ切れそうな力で握られる。たったこれだけで許されるのなら安い物だ。痛みをあえて受け入れながら、笑顔を作って頷いた。すると力は緩んで、戯れのような握力で握られるだけになる。それでも腕は離されなかった。ジェイドも、それを振り解く気は無かった。握られたのとは逆の手を、アズールの手に重ねる。皺の寄っていた眉間が驚いたように見開かれる。
一体、何の為に。何が怖くて。何を伝えたくて。忘れていたすべての事は、水に飛び込んだその瞬間に思い出した。それと同時に、開きかけた口を無理矢理閉じたのだ。
自らの投げた言葉で消えたジェイドに苦しむ姿を見たあの時から、とっくに溜飲は下りていた。もう謝ってほしいとも思わない。別に、聞き取れなかった言葉の続きが欲しいとも思わない。正直、アズールにどう思われていても構わない。ただ、この一週間がある事実だけで十分だった。
指を絡ませるように握って、心から微笑む。言葉で伝えたら、また余計な事を言ってしまいそうだ。黙って、その瞳をじっと見つめる。
――だって、僕は、貴方の言葉ひとつでこうも傷付いてしまうくらいに。
アズールのもう一方の手が、びしょ濡れになった頬に触れた。その手はやはり震えていて、顔を見れば今度こそ本当に泣きそうに歪んでいて、また心臓が痛んで目を閉じる。そっと頬を手へ擦り寄せれば、鼻を啜る音が聞こえた。
何を泣いているんですか、と揶揄って笑っても良かった。しかし、頬へ触れた体温が惜しかったから、何も言わずにただ手を握った。
「……お前、二度と変身薬は作るなよ。へたくそ」
その合間に、せっかくの気遣いを無駄にするような悪態が零れてきて、思わず目を開けた。海水か涙か分からない濡れた顔にジェイドも手で触れて、くすくす笑った。
口を開こうとしたところで、ラウンジの扉が開け放たれる。もちろん、そこにいたのはフロイドで、両手一杯に荷物を持っていた。何かと思って目を凝らすと、タオルに包まれてタコが覗いていた。ちらりと厨房へ視線を向けながら、小麦粉と卵の在庫を計算する。笑顔でタコを掲げた兄弟の赤い目元に、遂に視界がぶわりとぼやけた。
「ジェイドのたこ焼き、久しぶり~!」
「……仕方ないですね。僕も食べてやりますよ。ほら、ジェイド」
それに気付かないはずもない。アズールの手に起こされて、震える二本足で地面に立つ。頬を伝う液体の感触は何時振りだろうかと考えを巡らせたら、またアズールの手が頬に触れた。その手に自らの手を重ねて、ぎゅうと目を閉じ涙を振り落としてから、やっと口を開いた。
「後で一枚、便箋を下さいね。アズール」
◆◆
湾曲した長机に教科書とノートを広げたところで、隣席の席が引かれる。誰かと思い顔を上げて目を遣って、思わずぱちぱちと瞬きをした。
「おや、ジャミルさんじゃないですか。僕の隣に座るだなんて珍しい」
「元気そうで何よりだな」
予鈴にもまだ早い。綺麗にまとめられた髪が垂れるのを片手でいなしつつ、机に置いた鞄を開く。一体何を言い出すだろうかと警戒半分期待半分に笑顔を作れば、いつも通り迷惑そうに表情が歪む。
鞄からは同じく教科書とノートが現れるのみで、特に何かがあるわけでもない。不思議に思ったのが顔に出たようで、目が合うとにやりと口角が上がった。
「迷惑代を請求しようと思ってね。君とジェイドの、どちらに請求すればいいんだ?」
「……なるほど」
抜け目がない。感心してぴくりと眉が動くのを自覚した。愉快気に笑っているジャミルに言い返す事も、先日の事を思えば八つ当たりになりかねない。大人しく非情な笑顔を受け止め、空の手のひらを見せる。
「僕が受け付けましょう。寮生の起こした問題は、寮長である僕の責任ですからね」
「それは良かった。ジェイドと話していたら、”気配で分かる”お前が飛んできそうで怖かったんだ」
「は」
ぴしりと全身の筋肉が硬直する。ジャミルの嫌味な笑顔が深まって、無理をする表情筋が痛む。教室へ入ってきた生徒が物珍しげに二人を見る事すらも羞恥を煽る。声を荒げそうになるのを咳払いで誤魔化して、もう一度、営業用のスマイルを作り直した。
「あんなものは方便ですよ。気配で分かるはずないじゃありませんか」
「へえ、じゃあどうして見つける事が出来たんだ? 体育館なんて、お前達は普段来ないじゃないか」
「思考を読んだだけですよ。あいつならフロイドを頼っていくと踏み、それが見事的中したというわけです。ジェイドはいつも困ったらフロイドを盾にして、隠れられそうな場所があれば無暗に動くよりも留まろうとするんです。意外と分かりやすい奴で、助かりましたよ」
腹の奥から上ってくる擽ったい感触を誤魔化すために、必要以上に口が回る。こんなに喋っては動揺が透ける。それくらいは分かっていても、熱を溜め続ける脳はうるさいくらいに言葉を押し出した。目の前にいるのは蝶でも何でもなく、間違いなく弱味を見せるべきではない相手なのに。やっと言葉を止めてから、ひどく後悔した。そろりと目線を向けた先には、真顔で口を真一文字に結んだジャミルがいた。
「アズール、お前、気持ち悪いな……」
「何とでも言って下さい」
彼の正直な罵倒は存外に突き刺さらなかった。肝心の人物からの評価を知っているからだろう。閉じた鞄に手を乗せて、意識せずとも口元がにやついた。判読出来ない手紙も、美しい文字で綴られた手紙も、暫くは傍に置いておくつもりだった。隣から「うわ」と小声で呟かれ、同時に席を立たれた音がして、はっとする。
今更だと知りつつ表情を取り繕ってジャミルの方を向く。
「それで、お詫びは何がいいですか? カリムさんの評点のかさ増しなどはどうでしょう?」
「いや、もういい。要らない。やっぱりお前達に関わるのは止めだ」
そう吐き捨てて、ジャミルは一つ席を空けて座った。つれませんね、などと言いながらも内心有難く思う。これ以上話していたらボロが出そうだ。聡い彼の事だから、もうとっくに悟られているかもしれないが。
予鈴が鳴って、本日の範囲を確認する為に机に居直る。ノートを開き、ペンを持ったところで、噛み過ぎてボロボロになった爪が視界に入って苦笑いする。欠けて鋭くなった切っ先で切れた人差し指をなぞって息をつく。初めて触れた涙の感触が、未だ残って熱を灯している。
それに気付かない振りをして、まっさらな紙の上にペンを滑らせた。
落ち着いた教鞭が響く中、ふと窓の外を見る。微かに陰った青空の下を、箒に乗った生徒達が不安定に飛んでいる。その中に見慣れた頭を見つけて口元が緩む。高く安定して飛んだリドルが着地して、彼に何かアドバイスをする。珍しくやる気の見える表情で頷くと、意気揚々と箒に跨って、魔力を込めていく。ぶわりと風が吹いて、その身体が舞い上がった。
浮遊するその姿に、美しいあの蝶を思い出す。恐怖に似た悪寒が過り、身を乗り出した。すると、少し下を滞空していた二色の瞳がアズールを捉え、僅かに見開く。それから、がくりと姿勢を崩した。咄嗟に手を伸ばして、腕が宙を彷徨う。落下しながらアズールを見上げる見慣れた顔が、見た事の無いほど嬉しげに微笑んだ。
窓から身を乗り出したまま、バルガスの魔法に受け止められるジェイドを見下ろす。アズール達の教室にまで届く叱咤を聞きながら、風に吹かれる顔がどんどん熱が溜まるのを感じた。
――だって僕は、ただの数日お前がいないだけで、こんなにも息苦しい。
あの時口にした自らの言葉を反芻して、その意味を今更に自覚して、泣きたくなった。ジャミルに首根っこを掴まれ席に引き戻されても、何も言えずに机に俯く。
放課後になったら、何が何でも口にしてやる。これは手紙なんかで伝えきれるものじゃない。それで喧嘩になってしまっても、今度は何としてでも引き留める。貸しが増えたぞと呟くジャミルの言葉に頷きながら、静かにそう決意する。
目を逸らした窓の外で、ひらりと蝶が飛んだ気がした。
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