ピピピ……というけたたましい電子音に、小さな意識が浮き上がる。触覚を左右に揺らして、数度の瞬きの後、ガラス越しの景色に気が付いた。畳んでいた翅をゆるゆる広げながら、ぺたりと壁に触覚を付ける。昨夜、眠りに落ちる直前に見たのと寸分変わらぬ格好のフロイドが、もぞもぞと頭を動かして呻いている。今も鳴りやまないアラームに、遂に体を起こして「あーもう!」と叫ぶ。
「何で止めてくんねーの、ジェイド!?」
寝起きで普段以上にふらふらしながら、ジェイドのベッドへとずかずか近寄って、薄い布団を引っ掴んだ。
「おい、ジェイ――ド?」
はらりと持ち上がった毛布に、ぽっかりと口を開けてしまったフロイドが視線だけ向ける。数回、力なく瞬きをして、それからぱさりと毛布がその手を離れて落ちた。
「……え? なんで、まだ帰ってねーの? まさか、いや、でも……うっわ……やべー……」
混乱したような口調で独り言ち、焦った様子で頭を掻いている。それを見て、フロイドの心配どころを理解する。恐らく、アズールからの追及を憂鬱に思っているのだ。フロイドとしては、夜中になれば流石に戻ると踏んでいたが外れてしまって、責められることを想像している、といったところだろう。実際、ジェイドも妙な事にならなければ、とっくにベッドに潜り込んで眠っているつもりだったのだから、彼の想定は何も間違ってはいなかった。ただ、こんなイレギュラーが発生するとは、流石に想像していなかっただけである。
未だ虚しくも鳴り続けるアラームにも無視を決め込み、フロイドは再び自分のベッドに背中から倒れ込んだ。騒々しく起床を促す電子音の中、フロイドは二度寝に興じようとしている。それは、ジェイドにとっても少し衝撃的な状況だった。
まさかフロイドがここまで気に病むとは思わなかった。一晩帰らない事は確かに珍しいが、偶になら下山が長引いたなどの理由で朝に戻る事もあったのだし、楽観的に見ると踏んでいた。呆然とした彼の様子に胸が痛んで、どうにかして不在を告げられないかと頭を巡らせる。しかし、鳴りやまないアラームに思考が妨害される。せめてアラームくらいは止めてほしいと願いながら羽ばたいていると、三度のノックが合間を縫うようにして聴こえてきた。フロイドも気が付いたらしく、ぴくりと投げ出していた指先が動く。
「ジェイド、フロイド! 起きているんでしょう! アラームがうるさいと苦情が来ているんですが!」
「……あー……」
成程、確かにこの音量では廊下まで響きそうだ。アラームをどうにか切り裂くアズールの声に内心頷く。対するフロイドは、気だるげにのそりと体を起こし、膝立ちになって倒れるようにジェイドのベッドへ腕を伸ばした。そのまま頭は地面に落ちて、指先だけがスマホを探っている。手を出したくても今の自分には翅しかないので、せめてもの応援で翅をぱたぱた動かした。その指先が遂にスマホを探り当てるのと同時に、もう一度、ノックが響く。
「ジェイド! フロイド!」
「あー! 今止めるってえ!」
ばっとスマホを鷲掴みにした腕がベッドの下へ落ちる。視界から消えたところで、ずっと部屋を満たしていた騒音がぴたりと止んだ。そのまま暫しの無音が続き、扉の向こうから息を吐く音が聴こえた。のそりと起き上がったフロイドの頭がベッドの縁に沈んで、またゆっくりと起き上がった。彼が入口へ向かい始めたところで、ジェイドもそっとテラリウムから抜け出し、後を追う。
よれよれの寮服姿でフロイドが扉を開くのを、ずれたストールに埋もれながら聞く。
「おや、フロイド。珍しいですね。お前が先に出……ちょっと待て」
低くなったアズールの声で察して、すぐにストールから離れた。同時にするりとフロイドの首元から奪い去られたのが見えた。全く以て、この身体では危険が多いと改めて思う。自然界の蝶は如何にして生き延びているのか、元に戻ったら観察すると決める。
「お前、昨日別れてからそのまま寝たな」
「えー、うん。そうだけど?」
「だけど、じゃない! 皺になるだろう! ジェイドは何も言わなかったんですか? おい、ジェイド!」
「あ、えーっとぉ」
肩越しに部屋を覗き込もうとするアズールに、フロイドは気まずげに言い淀む。それを不審に見上げつつ、左右に振れて中を覗き込もうとするアズールを、同じ方向に動いて妨害している。それを数度繰り返すと、アズールの腕が動くフロイドの肩をがっしりと掴んだ。
「いってててて! 痛い!」
「お前が妙な真似をするからでしょう! 一体、部屋に何を隠しているんです?」
「だからぁ、その、ジェイドが」
「怪我したんですか」
「じゃなくてぇ……」
「では妙な魔法薬でも盛られましたか?」
「それでもないんだけどぉ……」
ちらちらと背後を気にしつつ、尚もフロイドは言い淀んでいる。その様子に、場違いにも笑いそうになる。正座をさせられるのが相当に嫌であるらしい。しかし肩に食い込む指を見ていると、不安になってきて笑いが収まる。声帯がある状態であれば、流石にやり過ぎでは、と提言している。その怒りを向けるのなら、相手はフロイドではなく僕だ、とも。
「いいから、見せろ!」
「あー、もー! 分かったってば!」
フロイドが身を捩ってその手をどうにか振り払い、一歩下がった。それから部屋へ招き入れるべく、壁に背中を付ける。それに合わせて、ジェイドも足元へと移動した。
無遠慮に部屋へ入ってくるなり、アズールはもぬけの殻のベッドに視線を向けて固まった。フロイドがピアスを弄りながら止まった背中をちらちらと見ている。これは不味い、と本能的に感じて、二人の死角を縫って作業机まで戻る。しん、と煩い程の静謐に身を竦ませながら、未完成のテラリウムの陰からそっとアズールの様子を窺った。しかし、見えた彼の表情は、存外に冷静なものだった。
「帰らなかったんですね、あいつは」
「……うん。オレ、朝までには帰ってくるって思ってたからぁ……」
「そうですね。普段は、そうしますからね」
彼の視線が静かにベッドから外れる。アズールの後頭部が見えた所で、さっさとテラリウムに体をねじ込んだ。眠りに就いた時と同じように翅を休める。布が落ちる音が聞こえて、少し目を開けると、ストールがフロイドのベッドに投げられた所だった。またフロイドは、と溜息混じりに考えた時、はたと気が付く。あのストールを持っていたのはアズールだ。
「もういいですよ。放課後まで戻らなければ、今度は僕が探しに行きます」
思わず無い耳を疑った。ぴくぴくと触覚が震える。今日の放課後と言えば、寮長会議が予定されていた筈だ。まさかアズールが予定を飛ばすなど、と愕然とした思いで揺れる銀髪を凝視する。
「あ、でも今日って寮長会議じゃなかったっけ? ジェイドが言ってたけど」
「ああ……いや、後で資料を貰えばいいんですよ。今回は大した話も無いですから」
「ふーん」
フロイドに話しておいてよかったと安堵したのも束の間、他でもないアズールの口から、私情での欠席が宣告されてしまった。そんな事で学園長の信用を落とすなんてらしくないにも程がある。今すぐに人間体に戻り、物申したい気分にもなる。
それでも、彼の馬鹿げた決断に対して、泣きたいような嬉しさを覚えてしまった。
二人が部屋を出るのを見送った後、さて、とテラリウムから抜け出した。このままでは、本当にアズールは寮長会議をサボって見つからないジェイドを探しに出かけてしまう。万が一、山へ登られてしまったら、山奥の方でジェイドのウェアや魔法薬の瓶が見つかって大事件にされる。それに、フロイドにも心配を掛けたままなのは快い事ではない。つまりジェイドは、自分の状態をどうにかして伝えようと画策していた。
蝶になった直後に、魔法が使えない事は調査済みだった。ポルターガイストじみた存在の主張は出来ない。一番簡単な手としては、手紙を残す事だが、今のジェイドには文字を連ねる事はおろかペンを持つ事すら出来ない。だからと言って二人の前にいきなり姿を現したところで、いくら兄弟と言えども気付いてもらう事は不可能に近い。最悪、ジャミルに見つかって徹底的に排除される。それだけは避けたい。戻るまではオクタヴィネル寮の外へは出られないな、と苦笑する。
机の上を飛びながら、何か良い手はないかと無い脳と目を巡らせる。そして、フロイドの机の上に、開きっぱなしのインク壺が見えた。取り敢えずそちらへと飛んで行って、机上を飛び回る。その微かな風の流れで、一枚の紙がひらりと落ちてくる。裏返しの状態で落ちてきたせいで、何の紙か分からない。もし靴の注文書であれば怒られそうだが、背に腹は代えられない。決意を固めると、息を止めて、ゆっくり長い口をインクへ沈めた。
ペンは使えずとも、運良く細長い上に可動する身体の部位がある。インクに溺れそうになりつつ、ごく小さく呼吸をする。インクを付けた口先をそっと持ち上げて、紙の上まで持って行く。道中でぽたぽたとインクが染みを作るが致し方無い。元に戻ったら掃除をしようと考え、そして書き残す文言を考える。単純に蝶になったと書けばいいのだとは分かっている。しかし、今、アズールにだけは知られたくなかった。
どうして蝶になったのか。そう問われた時、誤魔化せる自信がない。
紙の端に口先を付ける。それから、インクで重くなった体をずり動かし、どうにか線を引く。体よりも大きな文字を書こうとしているせいで、ちゃんと書けているのかも分からない。それでも普段通りの感覚を意識して、全身で伝言を書き記した。
インクを壺へふるい落としてから、高い位置まで上昇し、手紙を俯瞰する。大分、普段の筆跡とは違って稚拙だが、読めない事も無い。そこで部屋の前を通る足音が聞こえて、咄嗟に時計の方を向く。想像以上に手紙を書くのが手間取ってしまったらしく、もう放課後も近かった。慌てて高度を下げ、テラリウムまで戻る。
薄くなった体を瓶に捻じ込み直したところで、扉が開いた。体を横たえて、なるべく目立たないように丸める。廊下から姿を覗かせたのは、フロイドではなくアズールだった。ノックが無かった事に驚いて、思わず声を上げそうになる。声帯が無くて良かった、と反射的に思った。
丁寧に扉を閉めると、彼は静かに部屋へ歩みを進める。二つのベッドの前で一度止まり、じっとベッドを見詰めたかと思えば、ふたつのシーツを掴んで引っ張り落とした。粗雑な行動にやや瞠目し、その余裕のない動作に無い眉を下げた。当然ながら、シーツはどさりと足元に落ちるだけで、アズールはそれを捲って確認し、息を吐いてベッドに戻した。
そしてすぐに方向転換をして、今度はクローゼットに近付いた。音も無く近付いたかと思えば、急な動きで取っ手を握り、勢いよく開いた。もちろん、そこにも二人分の服が掛かっているだけだ。しゃらしゃら音を鳴らしながら服の合間を探して、それからまた息を吐く。静かに戸を閉じて、今度はどうするのかと観察をしていると、ふらふらとジェイドの方へ近付いてきた。動揺しつつも、翅を動かさないよう努めてアズールを見上げる。彼はそのまま、ジェイドの机に手を付いて、憂欝に溜息を零した。
「くそ、どこに行った……? ジェイド……」
ぴくりと翅が動いてしまった。溢れたような弱い声色に思わず反応してしまった。すると、アズールの視線がするりと動いて、ジェイドの翅を捉えた。
「蝶? どうして、こんな所に……」
華奢な指が伸ばされるのが見えて体を縮める。しかし、その手は手前でぴたりと止まった。視線が机の上に縫い留められたかと思えば、ゆっくりと顔を逸らして、机から手が離れる。何事かと動向を窺えば、彼はフロイドの机へと向かっていた。そして、彼の行動の理由に思い至った。机上に零してしまったインクだ。
アズールがインクで汚れた紙を手に取る。ずれた眼鏡を正しもせず、じっと拙い文字を追いかけている。段々と崩れていく表情にひやひやしながら、視線をそらさずに見つめ続ける。視線が下方まで降りたと認識できたところで、アズールが紙を手離した。ひら、と紙が机の上へと舞い戻る。その動きは、まるで今のジェイドのようだった。
「……くそっ!」
ひとつ舌打ちを残して、アズールは足早に部屋を出て行った。ばたん、と閉じられる扉の音が静かすぎる部屋に余韻を残す。じいんと無い鼓膜が痺れるような感触に目を閉じ、それから緊張しきっていた翅をばさりと広げた。
暫くして、再び扉が開かれた。視線を上げれば、今度こそフロイドの姿が見えた。ほっとして見詰めていると、むすりとした様子の彼は真っ直ぐに自らの机へと向かい、インクで汚れた紙を手に取った。アズールと同じように黙って拙い文字を解読している。そして読み終えると、アズールと違いしっかりと紙を机に戻して、重しを乗せた。流石はフロイド、と思いつつ、厄介な事をしてくれると苦々しくも思う。それをされたら、書き直しても外から入ってきたとは考えられなくなってしまう。最後には修正するつもりで手紙に乗せた嘘をどう処理すべきかと頭を悩ませる。
ふと、立ち止まっていたフロイドがジェイドの方を向いた。その視線は机の上にある。彼もインク染みに気が付いたのだろう。気付かれやしないかと内心怯えつつ、先程と同じように動きを止める。緩やかに歩いてきたフロイドは、アズールと逆方向にインクを追いかける。その視線がテラリウムの縁へ向いた所で、ノックが響いた。
迫っていたフロイドの視線が外れて全身が脱力する。面倒そうに扉へと向かう背中を見送りつつ、キノコの傘で口先に付いたままのインクを拭った。
「あ。アズール。見つかった?」
「いえ。……あれは読みましたか?」
「今読んでたとこ」
遠く聴こえる会話に耳を澄ませる。急いで出て行ったと思ったが、どうやらフロイドへ報告していたらしい。潜めた声で二人は話を続けている。
「あの手紙……どう思います?」
「すっげえ字が下手」
「ええ……」
「でも、あの文面は絶対ジェイドだよ」
「僕もそう思います。あんな事を書けるのはあいつだけです」
想定通りに会話が進んでいる。一先ずは成功した。翅を動かしながら、収まりの良い場所を探る。
「……どーすんの? アズール」
「どうもこうもありませんよ。”実家に戻る”と言う以上、僕には干渉のしようがない。お前こそ、どうするんです?」
「別にどうもしねーけど。だってオレ、関係ねーもん。二人の問題じゃん」
フロイドの言葉を最後に、会話が途切れる。一緒に叱られている気分になって触覚が項垂れる。フロイドに対しては昨日からずっと申し訳ない気持ちで一杯だ。苔に埋もれながら目を瞑る。
少しして、「では」と覇気のない声が聞こえ、続いて扉が閉まる音がした。トン、と踵を打って歩く足音がする。それを聞いていると、視界に陰が差した。目を開けたら、真上からフロイドがテラリウムの中を見下ろしていた。その目を見詰めて、羽ばたく。フロイドは眉を下げて、普段なら絶対に触れないはずのテラリウムに手を添えた。
「……ジェイドぉ」
びくり、と触覚が動く。動かしていた翅も固まる。しかし、泣き出しそうに歪んだ瞳孔を見ると、別の驚きで固まってしまった。
「早く戻ってきてよ。じゃないと、アズールが……」
ガラスの壁に添えられていた手がずるりと落ちる。フロイドは暫し俯き、それからふらふらとベッドへ向かい、顔面から倒れ込んだ。そっちは僕のベッドですよ、とは声帯が在っても言えないくらいに疲れた様子で、気付かれたかもしれないと恐れていた傲慢さを反省した。
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