気が付いたら、また朝が訪れていた。いつの間にやら眠っていたらしい。こんな事は、幼い頃から辿っても数える程しかない。やはり今、持ち得た肉体の弱さから成るのだろうと思ったところで、自らの枕元に置かれた時計の文字盤が視界に入りぎょっとする。もうすぐ始業時刻だ。休日でもないのに、フロイドは相変わらず両腕を伸ばし切って呑気に寝息を立てている。
別に、同じクラスの寮長のように規則違反が好ましくないとまでの考えは持っていない。ただ破り続ける事が得策ではないと知っているだけだ。開いたままの瓶の口からもぞもぞと翅を抜き出して、窮屈に呼吸していた酸素を更新する。二年間で随分と見慣れた人間の体を持つ兄弟の方へふらふらと飛び近寄り、鼻先に止まる。そのまま棒に近い足でつついてみても、数歩歩いてみても、フロイドは穏やかな寝顔を浮かべている。健康的で良い事だが、このままサボってまた評点が下げられては良くない。鼻先から足を離して、飛ぶ。
部屋を見回し、何か解決策を探しながら、なぜアズールは起こしに来ないのかと理不尽な苛立ちを浮かべる。未だ、彼を許し切れていない心に溜息をつきたくなった。それを誤魔化す様に彷徨っていると、フロイドの机から今にも落ちてしまいそうになった教科書を見つけた。近寄ってみて、思わず繫々観察をしてしまう。なんとも素晴らしいバランス感覚だ。表面張力のように、ほんの僅かな衝撃で崩れそうな均衡であった。
フロイドの方を一度見遣って、ゆっくりと本の先へ足を乗せる。そして力一杯に無い体重を掛けて、翅を動かした。その微かな風が、ぎりぎりのバランスを壊したらしい。足を置いていた表紙がぐらつき、同時に宙を舞って椅子の背凭れに張り付き身を隠した。
教科書が落ちていくのを目で追う。それが地面に着陸した時、ばさり、とそれなりに大きな音が聞こえた。
「んえっ?」
気の抜ける声とともに、フロイドの目がぱちりと開く。いつも通りとも言えるが、眠たげな眼を瞬かせて、身を起こした。きょろきょろと周囲を不思議そうに見回したかと思うと、思い付いたようにベッドを立つ。そしてジェイドのベッドに乱雑に乗ったままの布団を掴み引き上げる。相変わらず空っぽのそこを見て、落胆した様子で肩を落とす。申し訳ない気持ちになりながら観察を続ける。不意に目が合った気がして、身体を更に背凭れにくっつける。また数度、瞬きをした目は、静かに床へ向く。それから、はあ、と疲れたような溜息を零した。
「なぁんだ……ジェイドかと思った……」
萎れた仕草で歩いてきて教科書を拾う。そのまま乱雑に置いて、一瞬固まる。どうしたのかと不安で見上げると、苦々しい表情を浮かべていた。フロイドは適当に投げた結果として再び机の端に戻っていた教科書を手に取り、机のラックに立てかけた。
珍しい事もあるものだ。彼の気紛れは本当に激しいが、戻ってきて部屋が綺麗であったためしはない。それに、ただの気紛れで済ませてしまうには難しいくらいにしょぼくれた背中は無視できなかった。
フロイドが制服に着替えているところで始業のチャイムが鳴ってしまった。これでは間に合わせる事を投げ出してしまう。折角起こす事はできても、言葉が伝えられない以上は説得も出来ないし、手が出せないのなら無理に押し出すのも不可能だ。諦めて、張り付けていた翅を開いて椅子に降り立ち、様子を見る。やはり彼の表情は心底面倒だと雄弁に告げていた。ボタンを留める手も、今にもだらりと落ちてしまいそうだった。しかし、ちらりと一瞬机の方に視線を遣ったかと思うと、息を吐いてボタンを再び留め始めた。
そこで、ふと思う。もしやフロイドは、自分のせいでジェイドが出て行ったのだと思っているのではないか、と。そんな事実は無いのだが、フロイドの世話に疲れた事も一因なのではないか、などと殊勝な考えを抱いてしまっているのかもしれない。そう考えると、彼の様子にも納得がいく。
本当に苦とした事はあまりない。ないとは言い切れないが、出て行ってしまいたいとその程度の事で思い付くくらい、共に過ごした時間が短い訳もない。今更なのだ。アズールに付き合って走り回るのと意味は同じだ。声が出せたなら、可哀想に萎んだ背中に、そう伝えてやりたかった。
やっと制服を着用して、フロイドは適当に鞄を掴んで部屋を飛び出す。あっ、と思った時には遅かった。机の上にルームキーが置きっぱなしだ。当然、扉が閉められる事もなく、彼が出て行った後の余韻できいきいと揺れていた。
もう少し、衝動的な行動を減らせばいいと周囲からは思われる事だろう。ジェイドとしては、それが消えては面白くないと思う。落ち着きを持って、ジェイドのようになったフロイドも、それはそれで自分を飽きさせない存在になるだろうとも思うけれど。
今の身体はキーよりも随分と軽い。持って追い掛ける事も、鍵を掛けてやる事も出来ない。どうせ鍵が開いていようと、侵入する輩などもいないのだからと納得をして、ジェイドはひらひらと木の葉のような体躯を、部屋と廊下を区切る僅かな隙へと滑らせた。
始業後の寮は閑静だ。病欠の者、もしくはサボリを働く者以外は全員出払っている。その静かな廊下を騒がしく走るフロイドの後を追って、吹いていない風に煽られるようにふらふら飛ぶ。いつまで経ってもこの体は慣れそうもない。フロイドが一足先に鏡を潜った。ジェイドも少しだけ躊躇って、それから鏡を通った。
視界が開けたと思うと、鏡舎に居た。自らの体躯と比較して巨大な鏡が並ぶ光景は壮観だった。新鮮な心持で飛び回りながら、校舎へ続く廊下へ消えていく背中を見送る。それから、少し回った視界を落ち着かせてから、来た時とは別の鏡へと頭を触れた。
空間が切り替わり、目の前には鮮烈な赤色と緑色が広がった。一面に広がる植物達に、心が浮つく。世界一杯に広がるような甘い香りに腹がぐうと鳴った気がした。
ジェイドが選んだ鏡は、ハーツラビュル寮へとつなぐ物だった。昨日は考える事項が多すぎて、食事についてすっかり失念していたのだが、流石に脳が回らなくなり気が付いた。一日目で判明した残念な事柄のひとつとして、普段の食事が出来ないことがあった。そして、花の蜜を喰らった記憶が鮮明にこびりついていた。蝶としての肉体を持つ以上、花を得る必要があるという思考にはすぐに辿り着く。オクタヴィネル寮には造花や切り花はあっても生花はない。唯一、生きた花を育てている、且つ大量にあるから減っていても気付かれにくい場所として思い浮かんだのがここだった。
以前に用で立ち入った際の記憶と相違なく、視界一面に赤い薔薇の花が広がっている。早速食事を始めようと近付き、足を伸ばす。しかし、べたりと何かが付いた。驚いて離れると、ぽたりと足先から赤い液体が伝い落ちた。そして思い出す。ここの薔薇はペンキや色変え魔法で”塗られている”。生きた花ではあっても、流石にペンキを口にしたくはない。がっかりしながら体を軽くゆすってペンキを振るい落とす。
思い立って、小道から外れて奥の方まで飛んでいく。道から見える場所にある薔薇は全て規則正しく塗られている。しかし、ひょいと裏側を覗いてみれば、なんと塗り忘れられた白い薔薇が咲いていた。ほっとして、今度こそ薔薇に足先を付ける。ふわりとした優しい香りに包まれる。内側から壊されるような空腹感に耐えかねて、齧り付くように蜜へ口を刺した。吸い上げれば、舌へ絡みつく甘味が広がる。ねっとりとした蜜は、今の小さな体を満たすのには充分だった。
満腹感を覚えて口を離す。先に付いた粉は払って、そしてまた飛び立とうとした時だった。がさがさ物音が聞こえたかと思うと、今しがたジェイドが通ってきた道から人影がひょっこり現れた。
「やっべー、さっさと見つけないと……!」
着崩れた制服を更に緩め、無造作に持っていた鞄を地面に放りながら、焦った様子で周囲を見回している。その顔に施されたハートのペイントには見覚えがあった。以前、試験前にアズールと契約をし、違反者として罰を課した者だ。それだけなら記憶に残りはしないが、その後、契約を砂に変えてしまったメンバーの一人だった。ジェイドとしてはさして恨みにも思ってはいないし、魔法の腕も未熟で害の薄そうな人間だったと記憶していた。だからそのままで翅を動かし、様子を窺う事に決める。
彼は膝を付いて草むらを漁っている。何か落とし物でもしたのだろうか。気になって少し身を乗り出した。その時うっかり花を掴んでいた足が外れて浮遊感を味わう。恐怖で息が詰まりかけたが翅を羽ばたかせて飛び上がり、事なきを得た。そのまま息を吐きながら漂っていると、探し物をしていた筈のエースが顔を上げてジェイドを見ていた。
「蝶々? うわ、キレー……ってか、なんかふらついてる? 怪我でもしてんの?」
すっかり探し物の手を止めてしまって、立ち上がりジェイドの方へと歩いてくる。「おーい」と蝶である自分に呼びかけながら手を伸ばしてくる姿に、好奇心は身を滅ぼしますよ、と言いたくなる。今の所、その言葉は自分にも帰ってくるため、思うだけにとどめておく。
最初は飛んで逃げてやろうと思った。しかし、じっと自分を視認してくる視線に、何となく、安堵した。その指先にゆっくりと降下してやったのも、警戒心を失くしたからではなく、それこそ単なる好奇心だった。見慣れない目に見下ろされる事への不快感は拭えないが、その先にある物が気になった。
「えっ、ホントに来た。すげー……お前、人間の言葉、分かんの?」
言いように少し苛立って、陸の言語はそう難しくもないのだと伝えようと翅を揺らす。当然、彼は分からずに「へー」と笑うだけだった。
「んー、怪我はなさそー……弱ってんのかな? こんな飛び方が下手な蝶々なんかいるわけないし」
今の自分が人間以下である事は理解していても、彼の選ばない言葉に耐えかねて足を浮かせる。しかし彼は尚も興味深げにジェイドを眺めている。
「飛び方といい、カラーリングといい……すげー”あの人”っぽいんだよね。もしかして、フロイド先輩だったりします? なーんて……」
飛び立とうと動かしていた翅が彼の零した発言で狂う。らしくもなく、あからさまに動揺を見せてしまった。ふらついた身体を一度彼の手にぶつけて体勢を整え、今度こそ飛び立つ。何事かを大声で伝えてくる音が聴こえるが無視をして、満腹の身体に鞭を打ち、再び鏡舎へと戻った。
慣れた青い寮の廊下を飛びながら、やっと落ち着いてきた動悸を整える。すっかり油断をしていた。頭が回るとは思っていたが、あれほど勘が良いとは知らなかった。先程の彼の発言を反芻する。容姿と”下手な飛び方”だけで、自らと最も近しい存在に辿り着くとは。そして彼の言っていた、カラーリングという要素。思いつきもしなかったが、談話室の鏡に姿を映してみて、納得した。翅は自分達の髪色と同じ、エメラルドグリーンに、黒色で文様が描かれた美しい物だった。山で良く見かけるモンシロチョウと似た容姿だとばかり思い込んでいたジェイドには少し衝撃であった。こんなにも目を惹く容姿であるなら、テラリウムに潜んでいても二人が見つけてしまった訳だ。今後ももとに戻れるまではハーツラビュル寮にお世話になるつもりでいたが、どうやら時間を考える必要がありそうだ。
部屋の前まで戻ったところで、困った事になったと立往生した。風のせいか、誰か寮生が通りかかったのか、部屋の扉が閉まっていた。鍵は開いていても隙間が無ければ入れない。仕方なく踵を返して、談話室のソファにくっついた。フロイドが帰るまで、ここで待機するしかない。
暫くして、放課後を報せるチャイムが鳴った。うとうとしていた意識を起こし、ソファの下へ身を潜ませた。そのタイミングで、数人の話し声が聞こえ、足音が聞こえ始めた。
前を通り過ぎていく靴を数個見送ってから、ふと気が付いた。今日はフロイドの所属するバスケットボール部の活動日だった。ここで待っていても遅くなるばかりだ。さてどうしようか、と考えた所で、聞き慣れた足音が耳に入る。有象無象の足音を掻き消すような、良く響くその音に、ただでさえ小さな体を竦ませる。そして、思いついた。
丁寧に磨かれた黒の革靴が通った。それに合わせてジェイドもソファの下から這い出して、踵の辺りに張り付いた。振り落とされないようしがみ付きながら、少しだけ上に動き、足首にくっつこうとする。しかし丁度良い丈のスラックスは落ちてきて翅の邪魔をする。窮屈さに思わず手を離し、それから周囲を確認して、静かに上昇する。伸びた背筋を通り過ぎて、首筋より上、頭頂部に足を乗せる。そこでようやく落ち着いた。
兄弟に張り付いておくのもなかなかに大変であったが、我らが寮長はより難易度が高いようだ。忙しなく歩くテンポではあまり落ち着いていると振り落とされてしまいそうだった。柔らかくうねった銀髪に体を絡ませながら、どうにか良い位置を探す。そのうち、人の髪にくるまっている状況が可笑しくなって力が抜けた。しかし上手い事絡まっていたらしく、今なら眠っても平気であろう安定感を得ていた。
アズールの頭に乗る事を思いついたのは、昨日の彼の行動を思い出したせいだった。ジェイドを探しに部屋へやってきた姿を覚えていたから、今日も同じ行動を取る可能性があるのではないか、と思い立った。何だかんだと冷たい言動を取りつつも責任感のあるこの男は、これから数日も部屋を訪れる確信があった。
自分のせいでいなくなったのだから、その埋め合わせをするために。
全身を包む柔らかい香りに微睡んでいると、がちゃりと扉を開ける音がした。少しの振動の後で、今度は背後から同じ音が繰り返された。どうやら部屋に入ったらしい。しかし、部屋中に広がるコロンの香りでここがアズールの部屋だとすぐに分かった。予想が外れただろうか、と考えたところで、突然、体が浮いた。続いて重力に引き戻され叩き付けられる。何事かと思い触覚を出す。アズールの視点よりも随分と低い位置にいた。
それから、近くに見えた彼の膝で、アズールが膝を抱え座り込んでいるのだと知った。
膝小僧に額を押し付けながら、時折「くそ」と悪態を零す。それは、蛸壺に引きこもっていた幼い彼の姿を想起させた。スラックスを握り締める爪先は白くなっている。こんなにも罪悪感に苛まれる彼の姿をジェイドはしらなかった。
「ジェイド……」
ぼそりと最後、諦めるように呟かれた名前に、心臓が跳ねるような気分がした。ぎりぎり歯を食いしばる音も聞こえて、その姿はとても痛ましくて、心の底から『ざまあみろ』と思った。
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