胡蝶の魚は夢を見る - 4/10

 

 はたと意識を取り戻したら、アズールの部屋に落ちていた。比喩ではなく、文字通り床の上に転がっていた。驚きつつも身を起こすと、そこには誰もいなかった。時計を見れば、始業時刻は過ぎていないが、彼の起床時間は過ぎていた。結局、昨日はどうしたのだったか。何故だか脳がうまく回らずに思い出せなかった。
 流石にアズールは扉を閉め忘れたりはしないようで、部屋の外には出られそうにない。少しずつ安定してきた飛翔でベッドまで上る。自分達のベッドより幾分か豪華な作りのスプリングに身を預け、ぼうっと天井を見上げる。こうしていると人間に戻ったみたいだ。しかし、両手両足を伸ばそうとした時、六本にまで増えてしまったそれがばらばらに動いて息を吐く。この本数まで増えるのなら、いっそのこと、もう二本だけ欲しかった。
 いつまでそうしていただろうか。時計の針以外に音も無く、水中に差し込む光で昼夜を判断するしかない環境では、時間の概念も緩やかに失われていく気がする。流石に動かずにいるのは性にも合わず、体を起こして宙に浮いてみた。そのままだらだらと部屋を彷徨う事にする。

 用事がある時、フロイドに付き合う時くらいしか入らない部屋は少し新鮮に感じた。全ての物が大きく映る視界であるのも手伝って、軽く冒険気分を味わう。まず机のそばを漂う。机上に並ぶ資料はジェイドも見覚えがある。本棚に並ぶ書籍は授業の内容と、受けた依頼に関連する物ばかりだ。面白味は特にない。アズールらしい、と笑いを零す。趣味の良いインテリアで飾られた部屋の中で、唯一生活感があるのはここだ。そして次に、壁に飾られたコイン。海で拾い集めたらしい、貴重な物だと楽し気に語っていた彼を思い出す。趣味までお金になる物だなんて、と笑った記憶を想起して、また笑いそうになる。きっと、この思い出が詰め込まれたコレクションは、いざとなっても売る事は躊躇するのだろうに。
 かちり。秒針が鳴る。きちんとアラームが切られた時計は、丁寧に時を刻み続けている。時間がなかなか進まない。何だか色々と気力がなくなり、再びぽとりと床に落ちた。もし今元に戻れたなら、アズールの部屋の真ん中で倒れている姿を発見される事になる。そして、驚いた顔で、もしくは焦った様子でジェイドの傍に駆け寄ってきたアズールに、こう言うことになるだろう。貴方の部屋があまりにも面白味が無くて、飽きてしまいました、と。
 有り得なくもない想像をしながら、溜息をつく。この身体はいつになったら戻るのだろう。何か条件が必要なのだとしたら、どうやって見つければ良いのだろうか。本を読む事も、誰かに尋ねる事も出来ないジェイドには難しい。しかし、実のところ、そこまで不自由を感じていなかったジェイドはその考えに対して悲観的にはならなかった。この身体も慣れてしまえば便利に扱えるようになるだろうとすら考えていた。きっと情報収集も、この体の方が便利だ。アズールもそう言うだろう。
 ふと、一生このままだったとしたら、という可能性について思考が巡る。段々と鈍ってきた頭の回転のことを思うと、それは危険な事のようにも思える。最初はジェイドとして生きられても、少しずつ意識が削られて、最後は本当に蝶に成ってしまったら。有り得ないとも言えない可能性だ。もしそうなってしまったら、フロイドを置いて行ってしまうのか、という点を真っ先に心配した。アズールだけで彼を制御し、面倒を見る光景が想像できない。周囲の人間も助けになってくれるとしても、そこに彼が気を許せるだろうか。
 ふわり、と無意識に体を浮かせていた。机の傍まで飛び寄って、インク壺に触れる。寝ぼけていたのか、僅かな隙間が開いている。今度は足の一本を差し込む。それから引き抜いた足先には十分なインクが付着していた。
 少し体を浮かせて、そこに置いてある紙を見下ろす。一番上にある紙は、確か重要な契約書だったはずと思い出し、重ねた二枚目に視線を動かす。そちらは学園長から受け取った資料のようだ。少しくらい汚しても問題ないだろうと判断して、ゆっくり降下する。足先をくっつけてから、ぴたりと動きを止めた。
 書きたい事は幾らでもある。フロイドの世話をしてほしいだとか、変身の解除薬を置いておいてほしいだとか。しかし、そんなものよりも、もっと伝えるべき事があった気がした。しかし、ジェイドはそれを思い出せなかった。少しずつ思考が鈍っている。それでも、アズールへ伝えなくてはならない言葉があった事だけは覚えていた。
 署名の最後にインクを擦りつけ、そっと離れる。また俯瞰で読んでみるが、それが伝わる文字になったかは判断が付かない。ぱたぱた翅を動かしながら、そのままベッドシーツに身体を埋めた。

「アズールッ!」
 柔らかな眠りの中を漂っていると、けたたましい音を立てて扉が開けられた。部屋の主を呼びかける声で飛び起きる。犯人はもちろんフロイドだった。焦った様子で息を切らせている。
 ふと気が付けば、机の傍にはアズールが立っていた。緩慢な動作で首だけ扉側へ振り向かせて、無言でフロイドを見返す。
「ジェイドがいないって!」
「……知ってますが」
 何を突然、とでも言いたげな目でアズールは顔を机の方へと戻し溜息を吐いた。しかしフロイドも苛立ったように足を鳴らして、「そうじゃなくて!」と言い募る。
「実家! ジェイド、帰ってねーんだって!」
「……は」
「さっき電話して、ジェイドに繋いでって言ったんだよ。そしたら、寮にいるんじゃないのって言われたんだよ!」
 布団に埋もれたまま、思ったよりも早かったなと鈍い思考を回す。もう少ししたら、実は山に引きこもっています、とでも書き足すつもりだったのだが、それはどうやら難しくなってしまったようだ。机の上に書き記した拙い文字を見下ろし、蒼白に俯くアズールを見て、そう思う。そんな事を書こうものなら、授業を休んででも探しに来てしまいそうだ。
「どうしよ、アズール」
 今にも泣き出しそうなフロイドに、また心臓が痛む。もういっその事、フロイドにだけは真実を伝えてしまおうかとも思い始めた。そして触覚を上向けた所で、完全にフロイドと目が合った。
「待つしかないでしょう。探しに行ったって、どうせ帰って来ません」
 数度の瞬きの後、見開いた瞳孔で全て分かった。ぽこりと頭を出して、軽く翅を振る。途端に沈んでいた瞳が輝き始めた。すぐさま彼はアズールのベッドに飛び込んできた。
「……おい、フロイド」
 いつもより覇気のないアズールの小言を無視して、フロイドは布団に顔を突っ込む。そしてくぐもった声で、小さく「ジェイド」と呼び掛けてくる。ジェイドは動かず、ただ耳を傾ける。
「まだ怒ってんの」
 顔を横向かせ、鏡合わせの瞳がジェイドを見る。
「別に怒ってません」
 それが聞こえたらしく、アズールが返答する。それに反応し、フロイドも視線をそちらへ向ける。ぽかんと口を開けたまま、俯いたままのアズールを仰ぎ見る。
「じゃあ、後悔してる?」
 しん、とまた静寂が訪れる。アズールは何も言わず、顔を背ける。フロイドも答えを急かしたりはせずに、ただじっと彼の答えを待つ。少しの物音も立てられない状況になって、ジェイドも翅をぴたりとくっつけて止まった。
 カチカチと秒針が音を鳴らす。フロイドは欠伸をした。そのまま、突発的な動作で起き上がったかと思うと、ジェイドの方へ指を差し出した。意図に気が付き、指に乗る。それを確認したら、彼はベッドから降りて、扉へと真っ直ぐに向かった。
 ちらりとアズールの方を確認しながら、柔和な眉を少し吊り上げ、口を開いた。
「悪いと思ってんなら、ちゃんと言いなよ」
「……分かってる」
「分かってねーよ。それでいなくなってんじゃん。二度と戻って来なかったらって考えた事ねーの?」
 あまりに鋭い言葉にジェイドの方がひやりとした。アズールは肩を震わせて、その後は細く息を吐く音だけが聞こえた。フロイドも静かに視線を外すと、来た時と違い丁寧に扉を開けて、退室していった。

 

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