微睡みからゆったりと意識を戻したのは、水に反射する太陽光の刺激のせいだった。まず上半身を起こそうとして、ぱさり、と体の大部分が羽ばたいた事で現状を認識し直す。
どうやら、一週間が経過してもこの身体は戻っていないらしい。随分と馴染んできてしまった触覚を擡げ、部屋の様子を窺う。そこには誰も居らず、その上、投げ捨てられた服なども無かった。不思議に思っていると、ふわりと甘い香りが食欲を刺激した。思わず寝起きの身体でテラリウムから這い出す。ぱさりと机の上に落ちたところで、そこにゼリーが置いてある事に気が付いた。あまりにも空腹であった事を自覚し、少しの躊躇もなく口を差し込んだ。
蜜を吸う様にゼリーを貪りながら、この物体の出処を思考する。もちろん虫を飼う予定など無かったジェイドが用意した物ではないし、フロイドもそうだ。だからと言って、アズールがこれを用意したとも考えづらい。もしかしたら、あの兄弟は燃費の悪い自分のために蝶の食事をどこかで学んだのかもしれない。数日前の出来事を思い出し、そんな考えが浮かんだ。こっそり扉を開けておいてくれるだけでも有難く思っていたが、時間を測って行く必要がなくなるのはもっと有難かった。
すっかりカラカラになってしまったゼリーから口を引き抜いて、満腹の身体をその場に横たえる。そして、自らの行動に愕然とした。こんな本能だけで食物を疑いもせずに貪るなど有り得ない。今しがたの行動を恥じ、改めて焦燥を覚えた。
もしかしたら、この身体に精神が順応し始めているのだろうか。ぱた、と怯える様に翅が動く。もしそうなら、早く元に戻る手立てを見つけなければならない。再度、この状況に陥った経緯を想起する。
あの日は、ひどく馬鹿げた理由で朝っぱらから飛び出した。前の夜、非常に愚かしい喧嘩をして、いつもの事だと流せずに腹を立ててしまった。思い返しても下らない。直後に汗だくになりながら魔法薬を作った、衝動的にも程がある愚行に無い頭を抱えたくなる。どうして、こうも冷静でいられなかったのだろうか、と思う度に思考が立ち消える。いつから、こんなにも使えない脳味噌になっていたのだろう。
――お前なんていなくても。
たった一言、言葉の応酬のひとつで、告げられた。ただ、それだけだったのに。
不意に、小綺麗な室内が目に入る。それは当然、ジェイドが片付けたわけではない。アズールも部屋の中にまで干渉はしない。つまり、これはフロイドの成果。ぺたん、と触覚が机に落ちる。
彼はやはり一人でも平気なのだ。突き付けられる事実に安堵する反面、じくりと胸の奥が痛んだ。
ぼうっとしたまま時間が過ぎて、気が付けば差す光に橙色が混じり始めた。慣れた様子で小さな翅で羽ばたき、テラリウムの中へ戻る。それからキノコに寄りかかって癒しを得ていると、けたたましい怒声が廊下へ響き渡ったのが聞こえた。思わず身を起こして壁際にへばりつく。壁を殴るような音が聞こえて、それからばたばたと慌ただしい複数の足音が部屋の前を通り過ぎていった。
何事かと触覚を忙しく動かしながらも、声の正体は分かっていた。トン、トン、と床を鳴らす硬い音が廊下に響いている。それが部屋の前で一度止まって、少しの間を置き、扉が開いた。
先程までの音とは打って変わって、そっと刺激を恐れるように緩慢な所作で見慣れた銀髪が覗く。静謐を崩さない足音が部屋へと入ってくる。
「ジェイド」
廊下で寮生達へ怒声を飛ばしていたのと同じ声帯が、弱弱しい音色を紡ぐ。今はラウンジの時間であるのに、と疑問を抱く。一瞬、一つの可能性が過るが、有り得ないと打ち消した。彼も罪悪感で様子を見ているだけだろうと考え直す。
「……いない」
いつもは彼なりの威厳で満ちている筈の、寮長としての姿を持ったアズールが、ひどく小さく見える。俯き加減のままで、ゆっくりとジェイドの方へ近寄ってくる。ぴたりとテラリウムの正面で、彼は歩みを止めた。壁に張り付いたまま、そうっと触覚だけで彼を見上げる。
「何で、どこにも、いないんだ」
ぽたり。視界を一滴の透明な液体が通り過ぎた。その正体を測りかねて、翅を一歩前へ出す。
「うっ……ぐすっ……」
そして視界に映り込んだアズールの、絶え間なく雫を零す濡れた瞳に、軽すぎる体は傾いた。ぱさりと躍り出るようにして倒れ込み、痛みを逃がすべく翅を動かす。
「……ジェイド?」
唐突に視界が暗くなる。翅の動きを緩めて、触覚を擡げる。涙を流す空色の瞳と真正面から目が合って、全身が金縛りにあったように固まる。その手が、ゆっくりとジェイドの棲むテラリウムへと伸ばされる。そして、今度こそ、手がガラスにぺたりと触れた。
ガラスの向こうで触れる大きな手に包まれて、美しい瞳に見下ろされる。まるで、アズールに飼われているかのような心地を抱く。そしてふと、アズールであるのなら悪くない、と思った。
その馬鹿げた思考が正気へと戻る前に、彼の手が離れた。そして、は、と自嘲するような笑みを浮かべた。
「そんなわけ、ないか。人魚が虫になるなんて、そんな、馬鹿な話が……」
語尾は段々と小さくなって、また嗚咽が混じる。ジェイドはただ、目の前で零れる涙に戸惑うしかなかった。
震える腕が支えを無くし、遂にアズールの体が崩れ落ちる。机に辛うじて頭を乗せた状態で、しゃくり上げながら呻いている。
「ジェイド、ジェイド、僕に黙って、消えるなんて」
机に涙が染みていく。そういえば、まだ先日のインクも残っている。早く掃除をしないと落とせなくなってしまうな、などと他愛のない思考で目の前の光景をやり過ごそうとしたが上手くいかない。
「くそ、くそ! あんなこと、僕が思っているわけ、ないだろうが!」
ダン、と強く机が叩かれて、咄嗟に地面から足を離し衝撃から逃がれた。そのまま、滞空してガラスに体をくっつける。近付けば、その髪がひどく乱れている事や、指先の妙な怪我にも気が付いた。
「ああ……くそっ、僕が悪かったから……何でもしてやるから、だから……」
その怪我を抱え込むように手が握り拳を作った。そして、最初の日に見たたこ焼きを想起した。
いつの間に、彼はここまで追い込まれてしまっていたのだろう。今の矮小な脳では、いくら考えても、答えを出せそうになかった。
「早く、僕の所に帰ってきて……」
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