胡蝶の魚は夢を見る - 6/10

 

 白いシーツの上で目を覚ました。真っ先に思ったのは、元に戻れたという期待だった。しかし、すぐにそれは誤りだと知る。矮小な体躯で大きなベッドに蹲って、悠長にも眠りに就いていただけだ。ぱさぱさと皺だらけのシーツを翅で叩いていると、隣から布が動く気配がした。
「おはよ、ジェイド」
 触覚を向ければ、にっこりと満面の笑みを浮かべる兄弟がいた。面白い物を見つけた時や、楽しい事をしている時とはまた違う、柔らかい表情だ。それが安堵を示している事は直ぐに気付けた。
 たったの三日。フロイドが消えてしまったジェイドを探していた、離れた期間。この鋭い兄弟が蝶となったジェイドを悟って五日経つが、未だにその数日を引き摺っている。もしくは、まだ不安を抱えたままなのだろうか。彼にとって、これは唐突な出来事だったのだし、仕方のない事であるとも思う。いつでも隣で眠って、起きて、声を掛けていた習慣が消え去れば、いくら気分の移り変わりが激しいと言えども不安が巣食うのは当然と言える。
 元に戻った時には色々とお礼をしなければいけないと改めて思いつつ、翅を揺らして返事の代わりにする。優しく目を細めて「うん」と何か返事をして、のんびりした動きで彼は身体を起こした。しっかりと地面に足を付けてクローゼットまで歩く背中に、数日前までの不安定さは薄れている。眠たげに揺れるいつもの仕草だけだ。うつらうつらと頭を揺らしながら制服に着替えるフロイドを暫し眺めて、ジェイドもベッドから足を離す。浮遊感にも馴れ、障害の無い空間で飛び回る事にも慣れ切って、広いと思えていた二人部屋がすっかり狭く感じ始めてしまった。食事を求めてハーツラビュル寮へ足を運ぶ機会が多いのも原因かもしれないが、見知った部屋をぐるぐる回るのは随分と退屈だった。
 フロイドの頭上を飛び回るジェイドを見て、どう感じたのか、フロイドは柔く崩れた笑顔で手を伸ばす。耳慣れた笑い声につられてジェイドも高度を下げ、ぴたりと指先に乗る。
「飽きたんでしょ? いいよ、一緒に行こ」
 どうやらジェイドの行動の意味を正確過ぎるほど理解しているらしい。肯定を示すように羽ばたくと、それすらも判ったように笑顔を見せた。そして、やっとジェイドも安堵した。言葉が通じず、思考を誰も解さない状況は存外にストレスであった。ハーツラビュル寮で会った一年生の視線ですらも求めてしまう程度には、気付かぬ内に疲弊していた心が、良く知る体温でゆったりと溶けていく。

 程よく揺れるフロイドの肩に乗って、校舎を進む。視線の高さはほぼいつも通りで、兄弟の傍にいる事で感覚も普段とあまり変わらない。蝶になって感じた不便は今や無くなってしまった。気分次第とは言え、フロイドの受ける授業を受けられ、食事の心配もしなくていい。唯一、この肩の上で出来ないのは趣味に関する事だけだ。
 教室へ着くなり、フロイドは適当な席に着いてだらりと姿勢を崩す。普段であれば、おやおや、等と言って笑う所だが、生憎と今は声も表情も無い。静かにその肩から机の上へ移ると、低く喉を鳴らしたフロイドの手が真横に乗った。意図を探るべく視線をそちらへ向ければ、隣席の生徒から姿を隠してくれたらしい。どこまでも面倒な事を面倒そうにでも手を貸す兄弟の見慣れない姿に、冷え切っていた胸が温まる感覚がした。
 始業の鐘が鳴れば、ざわついていた教室も少しずつ鎮まっていく。先生が挨拶をして、教科書のページを指定する。動かないフロイドに視線を向けて、翅を動かして促すと、苦々しげに息を吐いてから素直に鞄を漁る。
 教科書を選別している兄弟の姿を後目に、黒板へ綴られていく文字を眺めた。一週間前までは当然に読んでいた文字。それが今は、遠い国の言語のように思える。人間と異なる眼だからか、理解するだけの知能が失われているのかは分からない。ただ、全身で書いたあの手紙が、意味を為した物になったのが不思議なほど、それは難解な記号だった。
 未だ発声された言葉が知覚出来るのは救いだった。それさえ分からなくなってしまったなら、その時は、もう人には戻れない。
 教科書とノートがどさりと机に乗せられて、ジェイドはそれを避けるように飛んでフロイドの肩に戻る。彼はついでに取り出したペットボトルの水を呷ると、教科書をぱらぱら適当に捲りながら欠伸をする。指定されたページが分からないのだろう。肩を離れ、開かれていたノートに着地する。教科書を捲る手が止まり、フロイドの目がそちらへ向いた。結露したペットボトルに足を触れて、濡れた足先をノートに滑らせる。数字の形は覚えている。静かな声で告げられたページ番号を記憶のままに綴れば、「あ」とフロイドが声を上げた。
 頭上で遊んでいた彼の手がやっとペンを握った。珍しく書き取りをするのかと思って眺めていると、その手はジェイドの真横にインクを乗せた。するすると引かれる線をじっと見つめる。それは何かの言葉だった。フロイドの文字は酷く見慣れていて、しかも短く簡素なものだったせいか、今のジェイドにも意味を解せた。
 “ありがと。”そう読み取って視線を上げると、にやりと楽し気に微笑むフロイドと目が合った。

 それから、座学の時間中、ずっと文字で言葉を交わしていた。それは普段通りの他愛ない物ばかりで、昨日見た鳥の事だとか、見たのに忘れた夢の事だとか、取り留めのない話題が真っ白だったノートに並んでいった。フロイドの引く線をじっと眺めながら、思う。こうして過ごしていけるのなら、元に戻る必要もないのかもしれない。キノコの世話が出来なくなるのは惜しいが、蝶であれば山に行くのも容易であるはずだ。これ以上の知能低下がないのなら、文字で言葉を交わし合って、寿命が訪れるまで変わらず過ごしていけるだろう。
 そこまで考えて、思考を止めた。この身体の寿命は、一体いつなのだろう。人魚としてのジェイドの寿命は、永遠にこの身体に閉じ込められるのならば、失われてしまうのか。
「……ジェイドー?」
 小さく抑えたフロイドの声が降ってくる。返事を止めたジェイドを訝しんでいるようだった。何でもないですよ、と言うように翅を揺らしながらも、一度浮かんだ疑問は消えなかった。
 もし、肉体通りの寿命を迎えたとしたら、何も後悔はなく行けるだろうか。答えは分かりきっていた。昨晩見た光景を思い出す。フロイドの傍で楽しく過ごしても尚、頭を占め続けるただ一つの問題に、ひっそりと息を吐いた。

 放課後を迎える鐘の音と共に、フロイドは教室を飛び出した。数日振りのはしゃぐ姿に生徒達が咄嗟に道を開いていく。その様子が海底の小魚のようでくすくすと笑いそうになる。しかし、その群れの間から真っ直ぐと見えた後ろ姿に、思わず翅が縮こまった。
「フロイド」
「あ、アズールじゃん。何か用ー?」
 あからさまにご機嫌なフロイドを怪訝に眇めた目が見据える。外観は平常通りでも、苛立ちも顕わな指先が腕を打つ様子に、フロイドもぱちくりと瞬きした。
「何を、ご機嫌に、飛び跳ねているんですか?」
 突然地を這うような声がして、乗っていた肩がびくりと跳ねた。同じように震える身体をぴたりと片割れの肩にくっつけて、様子の可笑しい幼馴染に視線を遣る。とん、とん、と規則的に腕を打つ指先が妙に恐ろしかった。フロイドも似た感想を抱いているらしく、笑顔を緩めて揺らしていた腕を下ろした。
「なんで怒ってんの? 昨日は泣いてて、今日は怒ってて、意味わかんね」
「……分からない?」
 忙しかった指先が止まる。冷え冷えとした声と共に、焦燥に塗れた瞳がぐるりと二人の方へ向いた。頭上からは「やべ」と声が零れてきた。
「何の問題解決もしていないのに、遊び惚けている奴が目の前にいて、正当な怒りを呈した僕に“分からない”ですか? それはそれは随分と平和な思考ですね! お前こそ……お前こそ、何も分かってないじゃないか!」
「あー! ごめんって! こんなとこでキレんなよ、もぉー!」
 ざわつく生徒に囲まれ、本気で困った様子の兄弟の肩に横たわる。場違いにも、怒りを撒く彼の腫れ切った目に、また安堵していた。
 ――まだ、僕のために泣いてくれる。そんな事を思った。

 

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