シーツの上で目覚めた二度目の朝、覚醒するなり目前に文字が並んでいた。何事かと頭を回すが、やはり上手く働いていない。ただ読めないそれを眺めてしまう。
「あー……だる」
欠伸混じりに声がした。そちらを向けば、クローゼットの前でバサバサと服を投げ散らかしながら着替える兄弟の姿がある。それを視認し、やっと頭が動き出した。
近すぎる文字列から身体を離して、その正体を見つめる。白いシーツに紛れて、白い長方形が乗っていた。暫し眺めて、それが手紙である事に気が付いた。適当な裏紙に書いたものではなく、きちんと便箋を買って、丁寧に文字を認めた物だ。
しかし、そこまで分かったからと言って、その意味も理由も分からない。困って手紙の上を一周したところで、フロイドがジェイドの方に意識を向けた。
「あ、起きてるじゃん。それ読んであげたぁ?」
昨日よりも幾分かしっかりした歩みで、フロイドが低空飛行するジェイドと手紙を覗き込む。今の口ぶりからして、手紙の送り主がフロイドでない事は分かった。では一体誰の、と問うように身体を傾ければ、楽しげに笑ってフロイドも身体を傾けた。
「それねえ、アズールが書いたんだよ。昨日、すっげえ怒ってたから、ジェイドと文通してるって言ったら渡してーって」
シーツから付かず離れずで浮遊するジェイドに目線を合わせるように屈んだフロイドが、緩く目を細めて手紙を指差す。彼の長い指を追って、ジェイドも手紙に目を戻す。
「嫌かもしんねーけど、読んであげてよ。さっさと仲直りしてほしーし」
暗に鬱陶しい現状を訴え掛けるフロイドの笑顔に対し、誤魔化す様にくるりと飛んだ。しかし誤魔化されなかった片割れの手がジェイドの脆い翅を掴みそうになったので、焦って手紙の傍に降り、読む素振りを見せる。すると彼は手を引っ込めて、満足気に微笑む。
「じゃ、今日は待っててねえ。体力育成あるし、放課後は部活出るから」
ひらりと手を振って、上機嫌に部屋を出て行く兄弟の背中を見送って、脱力する。まさか一番近い彼の手に恐怖心を覚える日が来るとは、と自らの現状の危うさを今更ながら自覚する。ぱたりと転がった背中は、柔らかいシーツと固い紙の感触に包まれる。ちっとも沈まない二つの感触を直に感じながら、フロイドの言葉を反芻する。今、敷布団にしている物はアズールからの伝言であるらしい。その中身について考えを巡らせれば巡らせるほど、読む気力が失われていく。
思い出すのは、弱り切った彼の背中と、怒りに染まる冷えた瞳。動くのが憂欝になる。いっそのこと、このまま眠りに落ちてしまえば楽なのだろうが、フロイドの笑顔が邪魔をした。もし夜になって、手紙の上で眠るジェイドを見つけたら、今度こそ翅をむしられるかもしれない。有り得ないとも言い切れない想像にゾッとして、反射的に身体を浮かせた。
嫌々ながらも、そっと視線を紙へと動かしていく。どうせ文字は理解しにくいのだし、と思いながらも、何故だか読めてしまう予感がしてなかなか視線が滑らない。風一つない部屋の中では、シーツに乗っただけの紙も固定されたようにそこにあり続ける。飛んで行ってしまって読めませんでした、という言い訳は不可能だった。
意を決して、紙に乗ったインクへと目を遣った。そして、その見慣れた筆記に心臓が突き刺されるような思いをした。視界に入れたのは署名だけなのに、その名前にずきずきと頭が痛むようだ。読みたくない。目を逸らすのは簡単だった。しかし、一度視界に入った筆跡から興味を逸らすのは、不可能だった。
結論として、その手紙を最後まで読むことはできなかった。内容が気に入らなかったからではなく、あまりにも長文で、蝶に対して気遣いの無い迂遠な表現が多用されていたからだ。それでも、彼の言いたい事の外形はつかめていた。要するに、彼はジェイドに“謝りたい”のだ。ひどく簡潔にまとめられた十数行を解読しながら何度も読み返す。手紙ですら真っ直ぐに告げられない言葉に、湧き上がる愉快さと、同時に胸を割く様な切なさを覚える。どんな顔をして書いたのか、容易に思い浮かぶようで、想像出来なかった。
不要と称した相手に赦しを乞う彼の姿など、別に知りたくもないけれど。
たった十数行の手紙を飽きる程読み返して、彼の贈った言葉ひとつひとつを噛み砕き、やっと読み終える事にした。窓から差す光で、そろそろ昼を過ぎた辺りだと分かる。空腹を感じて机の方を見れば、きちんとゼリーが用意されていた。有難くそれを食しながら、手紙の返事を書く事を決める。文通をしていると言ったのなら、返事を期待して渡したはずである。それを無視したとなれば、案外繊細な彼はまた泣いてしまうかもしれない。泣いている姿を見た所で気が晴れたりもしない。どうせなら、暫く離れた現状を受け入れ、落ち着いた頃に戻って来るというのがベストだと思っている。
当たり前のように用意してある便箋に近寄りながら、アズールの部屋へ残してきた手紙を回想して、言葉を練る。“会いたくない”なんて直接的に書いてしまった事は、流石にまずかったなと後悔していた。長文を書けない都合上、どうしても言葉足らずになってしまう。それに、いざ伝えようと思うと、一体何をどう伝えたいのか分からなくなる。
幾らでも言葉を与え、受け取れる時には迷う事など無かった。不必要なくらいに言葉を注いで、その結果として傷付け合ったのが一週間前の話だ。しかし謝罪を受け入れるのも、述べるのも違う気がして、インクに濡れた足が止まったままになる。
――本当は、もう怒っていません。ただ戻れなくなったんです。そんな風に正直に書いたなら、彼はどうするだろうか。探しに来るのだろうか。咄嗟に要らないと告げた、友人ですらない関わりの僕を。
溢れ出した思考は、まるで噴水のようにとめどなく零れて止まらない。売り言葉に買い言葉だった事は今の小さな脳味噌でだって分かるのに、あの日のジェイドには分からなかった。自らの投げ付けた鉄球をそうとすら認めないままで、お互いに深く傷を負わせて、それが一方的だと思い込んだ。だから、蝶になってしまったのだ。人魚にも人間にも戻れなくなったのだ。
木の葉に似た肉体で、虫と同じ寿命になった。不便のない、むしろ便利な身体だと思っていた。戻る必要性をあまり感じていなかった。しかし、たった一枚の手紙を読んでから、ぐらぐらと足元が崩れる様な不安感に襲われた。一生このまま、互いに誤解を重ねたままで、何食わぬ顔で飛び回って生きるなど出来ない。
――だって、僕は。
手紙を綴って、そこで言葉が止まる。その先へ続く文字が途切れる。何を言いたかったのか、やはり分からなかった。
がたん。
背後で、何か木製の物が倒れる音がする。インクを引く足が、固まる。直感的に、それがフロイドではないと理解してしまった。気紛れで部活動をサボって戻ってきたのだと笑う彼の姿を期待する事すら許されない。ふわりと慣れた香りを感じた。
「…………ジェ、イド?」
がん。今度は蹴る音がする。倒れた何かを、そいつが蹴飛ばしたのだろう。固まった足を無理矢理に引き上げて、引き攣りそうな翅を動かし、浮遊した。ぽたぽたと床にインクが垂れる。
咄嗟に飛び上がった体が天井にぶつかる。遂にここまで上昇出来た、と感心する余裕はない。呆然と、空色の瞳がジェイドを見上げている。逃れるように天井の端へ寄っていく。アズールの目が、ゆっくりと机へ戻された。
翅を必死に動かして、高度を保ち続ける。その間にも、震える手が書きかけの手紙へと伸びていく。血の滲む指先が、インクで汚れた便箋を掴んだ。ゆるりと摘ままれて、見開いたままの瞳孔に晒されていく。その様を止める事も、咎める事も出来ないまま、ジェイドはただ見下ろし続ける。
微かに開いていた唇が、がり、と噛まれるのが見えた。血が滲んでいく彼の口元に動揺して、体幹がぐらついた。がくりと高度が落ちる。どうにか持ち直した所で、アズールの目に捉えられる。
「ジェイド」
どこか腑抜けた顔のまま、彼の手が伸びてくる。すり抜けようとして、いつの間にか疲れ切っていた翅が思うように動かずに机へぽとりと落ちた。鈍くなった翅を、手紙を摘まんでいた指先に掴まれた。体をひとまとめにされる感覚に、全身が悪寒で包まれた。しかし、解放された感覚と同時に視界が暗闇に閉じた。
「……夢を」
くぐもったアズールの声が聴こえてくる。全身を包む穏やかな体温で、アズールの手に包まれ、閉じられているのだと気付いた。
「夢を、見るんです。お前が居なくなった日の夢を、毎日。目が覚めるたびに、夢でよかったなんて思って、でもお前はどこにも居なくて、僕は……」
触れた肌が浮遊感を伝える。彼らしくなく、とても小さな声であるのに、微細な全身はそれだけで翻弄される。どうにか逃げ出そうと身を捩ると、擽ったげに息を吐く音がした。
「……ジェイド。ジェイド」
声が近くなって、掌越しに発声の衝撃が伝わった。虫籠にした手の甲へ額をくっつけているのだろう。その呼び声は、今まで聞いたどれより心を揺らす。何度も名前を呼ばれても、答える声が無い事を漸く惜しく思った。
「僕、は……僕は、お前に、ひどいことを言いました」
途切れ途切れに告げられる声と共に、ジェイドを包む両手も震えていた。かさりと翅で掌を擽る。それでも虫籠は崩れない。抉じ開けようと指の合間に頭を摺り寄せれば、息の詰まる音が聞こえた。
「お前の言葉が、頭に来て、それでも言ってはいけない事でした。僕はもう、お前に言われた悪態だって覚えていません。ただずっと、お前に言った言葉ばかりが浮かぶんだ」
ぎゅうと籠が小さくなる。窮屈になって、少しの恐怖心を以て翅をばたつかせると、曲げられた指先が宥めるように触れた。
「ジェイド、僕は――」
絶え間なく降る言葉に、小さな脳は処理を拒んでいる。触覚を擽る指の間から明かりが見えた。そこへ無理に身体を捻じ込ませれば、余りにも薄っぺらい身体はするりと抜け出した。すぐさま伸びてくる手を寸前で避けると、再び高度を上げた。
ふらつきながらも、素知らぬ顔で滞空する。人魚が蝶になるはずがないでしょう、と全身で訴え掛ければ、きょとんと開かれていたアズールの目が眇められる。それから、呆れたような溜息を大袈裟について、笑う。
「こんなに下手くそに飛ぶ蝶、見た事がありませんよ」
震えたままの手が伸ばされる。彼に与えられた言葉の全てを理解できたわけでは無いが、憂いは全て杞憂であった事を彼は告げた。言葉が真実である事は、引き攣る様な喉の音と下手な笑顔でよく伝わった。きっと彼の手へと戻れば、互いの言葉を許し合って、馬鹿な行動もそれだけで済むのだろうと分かる。
それでも、素直にそこへ降りる事は出来なかった。
高度を下げないままに正面へ邁進し、アズールの頭上を抜ける。
「えっ?」
呆けた声を背後に聞きながら、開け放しの扉の隙間に飛び込んだ。ひやりとした廊下の空気に触れて身が竦むが、そんな事を言っている場合ではない。左右を確認して、多少の寮生を認めながらも、海色の蝶は廊下の中心を突っ切って飛んでいく。通りすがる寮生達の視線を受けるのを感じながら、ただでさえ出ないスピードを全力で維持する。
バン、と扉が蹴り開けられる音がした。同時に正面から歩いてきていた寮生達の動きが止まる。
「待て、ジェイド! ……逃がすかっ!」
どよめく廊下を突き進みながら、迫る足音から逃れるべくわざとふらふらと蛇行した。足音が近付いて、背後から空を切る感覚がして避ける。要領は海中と同じだ。悔し気に舌打ちする音を聞きながら、ひらひらと木の葉の如く身体を揺らして、勢いよく鏡へ飛び込んだ。
コメントを残す