鏡舎へと移り変わった視界に立ち止まる暇もなく、ぐらぐらと危うい体幹で高度を上下しながら校舎への廊下を飛ぶ。放課後の時間を謳歌する生徒の間を薄い身体を駆使して潜る。続いて鏡を通ったアズールは一瞬立ち止まり、ジェイドを視界に入れる前に爪先を廊下へ向けた。
「はあ、全く……!」
寮へと戻る眠たげな生徒達が、逆走を始めたアズールに胡乱な目を向ける。そうして彼の前方を飛ぶジェイドに気付き、足を止める。好奇心から伸びる手を逃れ、視線を避ける為にわざと高度を落とした。
足元を飛行する蝶に気が付く程、余裕のある者はいない。雑多に動く脚をするすると潜る。後ろからアズールがその波を掻き分けているのだろう、人間同士のぶつかる音と罵声が聞こえる。雑踏の最中ですら目立つ足音を感じながら、長い廊下を抜けていく。
次第に人波は薄くなり、静かな廊下が現れる。角をひらひらと曲がると、吹き抜けが見えた。かつり、かつりと響く余裕のない足音は遠ざかるどころか近付く一方だ。蝶の身では、ただ進むだけで振り切る事は難しい。一度目を閉じて、それから、ふっと吹き抜けへ身を乗り出した。
「あっ! くそ、待ちなさい! ジェイド!」
身体が廊下から躍り出て、唐突に離れた地面にぞくりと肌が粟立つような感覚がする。固まりそうになる翅をどうにか羽ばたいて、空中に留まった。ひらりと廊下を振り向けば、空を切った手を悔し気に握るアズールの姿があった。珍しく乱れた制服を直しもせずに、宙でふらつくジェイドを睨む。
その口が再び開く。しかし、そこから流れる言葉を聞く前に、階下へ向けて逃げ出した。
林檎の木の下で寝ころんでいた生徒が「蝶だ」と声を上げた。ベンチで姿勢を崩していた生徒もその声に顔を上げて、物珍し気な視線を寄越してくる。穏やかな中庭を飛び去りながら、やはり目立つらしい自らの現在の容姿について再考した。授業終わりの暇な生徒達を相手とする場合、格好の興味の的なのだろう。中庭へ隣接した廊下からも視線を投げかけられる。この調子では、下手に逃げていても騒がれて直ぐに見つかってしまう。ジェイドは植物園へと向けていた身体を反転させると、廊下の方へと戻った。
一階の廊下も随分と騒がしい。不思議に思っていると、「誰かが魔法薬を爆発させた」という噂が流れているのが聞こえた。迷惑なことだ、と壁際にくっついて廊下の先へ舞い進む。その横をバタバタと走り抜けていく運動着姿が目に入って、咄嗟にその肩へ足を引っ掛けた。
がさつに揺れる肩に振り回されながらもどうにか背中に貼りついた所で、ばたん、と扉を開け放つ音が響いた。背中の主は懸命に肺を動かしてぜえぜえと息を切らせている。
「すんません! 遅れました!」
びりびりと発声の振動が背中にまで伝わって、思わず運動着から足を離した。その声で、ふと彼がハーツラビュル寮で会った一年生である事に今更気が付いた。飴色の床に引かれた白い線を辿るように、エースの足元にボールが転がってくる。彼の正面方向を覗き見れば、丁度ジャミルが手を挙げるのが視界に入った。
「聞いてるよ。魔法薬学の補習だったんだって?」
「うっ。いやでも、あれはデュースが……」
もごもごと言い訳を述べつつボールを拾う。先程の噂はどうやらこの彼のものだったらしい。納得しながら頭上に向けて飛び立てば、見下ろした体育館のコート上に笑顔で飛び跳ねる兄弟の姿が映った。同時にエースも顔を上げて、「あれ」とその姿を認めた。
「フロイド先輩じゃん。最近めっちゃ機嫌悪かったのに、急に戻ってるし……」
「しかも今日は調子が良いぞ。一緒に組んだらどうだ?」
「えー……いや、遠慮しときます……」
その返答が分かっていたのか、口角を上げて息を吐いたジャミルが足元に転がってきたボールを拾う。片手で持ったかと思えば、指先に乗せて回し始める。エースもにやりと笑ってから、同じようにボールを一回転した。不意にフロイドの視線がそちらへ向いて、そのタイミングでブザーが体育館中に反響した。試合が終わったようだった。コートから汗だくの部員達がぞろぞろと二人のいる方へ歩いてくる。同時にコート外で休憩していた部員達が立ち上がって、入れ替わるように白線の内へ入っていく。二人もボールを置いて彼らに続こうとしたところで、満面の笑みを浮かべたフロイドに遮られた。
「うわ、超ゴキゲンっすね」
「今のなにー? 指一本でボール回してたやつ。オレもやりたい」
「悪いが、今から俺達は試合に……」
「いーじゃん、ちょっとくらい。教えてよー」
「分かった分かった、後で教えてやるから」
「えー、やだ。今がいい」
ジャミルが下ろそうとしたボールを押さえつけるように持ちながら、フロイドはぷくりと頬を膨らませた。確かに、後回しにしたら興味を失ってしまうだろうし、出来れば今がいいだろう。しかしタイミングも相手も悪かったな、と苦笑する。フロイドの機嫌はそれでも良いままだが、代わりにジャミルの機嫌が降下していくのが見て取れた。
こうして、見知った輪の外で楽しげに過ごすフロイドを見るのは嫌いではなかった。そもそも天気屋の兄弟は、世界を広げて尾鰭を伸ばした方がきっと良い。帰ってきた時、外の世界で見た事、聞いた事を語る笑顔も好きだった。
――それなのに今は、少しだけ胸が痛い。
否定された言葉が飽きずにいつまでも突き刺さる脆い心臓に自嘲する。本気で言ったわけじゃないと否定されたばかりであるのに、何時まで経っても破片が抜けない。まして、必要ないと言ったのはフロイドではないと頭では分かっているのに、ずきりと心臓が痛む。脆弱な肉体を得て、精神までも脆くなってしまったのかもしれない。今、いなくても大丈夫だなんて言われたら、二度と彼の前に姿を現せる自信がない。
無意味な思考に耽っていると、不意にフロイドの笑顔が上を向いた。にこりと笑んだ目元のまま、鏡合わせの双眸が滞空する蝶を捉える。その手は今しがたまで押さえつけていたボールからあっさりと離れて、両手を上げてぶんぶんと振り回す。
「ジェイドー! こんなとこで何してんのぉ?」
「……は? ジェイド?」
上からの圧力を失ったボールがジャミルの手を零れ落ちて、とん、と跳ねて音を立てる。怪訝げな声を上げて、フロイドの目線を追いかけたジャミルの目がジェイドを捉え、ゆっくりと見開かれていく。隣で一緒に顔を上げたエースもジェイドを見つけると、「あっ」と大袈裟に声を出す。
「あの蝶、こないだ寮で見かけた――」
その時、再び体育館の出入り口が、どん、と重々しい音を響かせた。びくりと肩を跳ねさせながらエースが振り向くと、金属音を鳴らして揺れる扉の向こう側に、ぼさぼさの銀髪頭が見えた。ネクタイは解けかけていて、ブレザーもずるりと肩からずれた。三人がぽかんと彼を見る。ジェイドも思わず呆けて動きを止めた。肩を上下させながら、蹴り開けたらしい脚を一歩差し出して、ゆっくりと顔を上げた。斜めになった銀のフレーム越しに据わった瞳が見えると同時に、金縛りのように止まっていた翅をばさりと動かした。
「ふ、ふふ……見つけましたよ、ジェイド……!」
「あー……」
既に満身創痍のアズールが体育館へ足を踏み入れる。フロイドは納得したように彼とジェイドを見比べて、にこりと笑う。ビーッ、と再びブザーが鳴り響いて、ジャミルが大きく溜息を吐いた。後日何かしらの請求が為されても断れないかもしれない。
「あれ、ジェイド先輩の方だったんすね、へー……」
エースはジェイドを見上げながら、自己の行動を振り返ってか顔をさっと青くした。もし今表情が作れたなら、そんな彼へ向けてフロイドと同じく満面の笑みを向けていたところだ。探し物は見つかりましたか、とでも付け加えながら。
静かに真下まで歩み寄ってきたアズールの崩れた髪型に視線が動く。部屋の中でならともかく、外でこうも崩れた彼を見たのは初めてに近い。どこか感慨深い心持で見下ろしたら、それに勘付いたのか彼の眉間に皺が寄る。ぐい、と眼鏡を押し上げて、息切れする口が開いた。
「どこまで逃げても無駄ですよ。お前の気配は目立ちます」
気配で追うなんて聞いた事がない。珍しい冗談だと思い笑うと、うっかり高度が落ちた。すぐさま伸びてきた腕は既の所で避ける。また空を切った手をぎりぎりと握り、悔しげに息を吐き出した。相変わらず、体力だけは不足している。あまりにへろへろと腕が伸ばされるものだから、揶揄う気持ちで近付いた。すると今度は、捕える腕は膝に置かれたままで、静かな空色だけがジェイドを捕えた。思わずぴたりと宙で留まった。
「……そんなに嫌ですか? 確かに、今回の事はただ謝って済む問題ではないでしょう。でも、話す機会を作る事すらも難しいですか」
バスケットボールが板張りの地面を叩く音が響いている。部員の掛け声と、審判のコールが喧しく広がる空間の中、静かなアズールの発声だけがこの場を支配していた。真摯な視線を受けて、ゆっくり真正面から空色の瞳と対峙した。こんなにも全身を貫く視線は初めてだと笑いたくなる。しかし、今声帯があったら、鳴るのは笑声ではなく引き攣った喉声だろう。
「ジェイド……!」
いつも温度の低い瞳が泣きそうに歪んだ。そう気付いたら驚いて、また心臓が刺される感覚がする。恐る恐る、といった様子で近付いてくる手から逃れられずに、享受して滞空した。
切り傷の残る指先が翅に触れた、その瞬間に、引き結ばれていた彼の口角が静かに持ち上がった。それを認めると同時に、咄嗟にぶわりと舞い上がる。直前に触れた二本の指が翅を摘まみかけていた事を知って焦燥感に翅をぱたぱたと動かした。
「くそっ、もう少しだったのに!」
歯噛みした悪態と共に、すっかり涙ぐんだ目元も普段通りの涼し気な色に変わる。危うく見慣れた筈の彼の演技に騙されかけた事実に無い背筋がひやりとする。観察眼も精神も、何もかもが虫の肉体につられて弱くなっている。これ以上、ここにいては駄目だと本能が告げる。このままでは儚い壁を崩されて、暴かれる。
何を隠した壁なのか、一体何を暴かれるのが怖いのか。薄れてきた自我の中で、渦巻く疑問に答える術を持たないまま、ジェイドは薄っぺらな体を翻して急降下した。
細い触覚がエメラルドグリーンの髪に引っ付いて身を寄せれば、くつくつと笑う振動が伝わる。兄弟の頭にくっ付いていた数日は、一切誰にも気付かれなかった。それはきっと同化していたせいなのだろうと今更に思い至って、だからこそジェイドはここを逃げ場所へと選択したのだ。
ほとんど無意味に小さな身体を擦り寄せれば、笑いに揺れていた頭が緩慢に頷く。
「いいよぉ、ジェイド。どこ行くの?」
「えっ、言ってること分かるんすか!?」
「んー、何となく。ずっと一緒に居るんだし、フツーに分かる……」
不自然に言葉が途切れた。触覚を擡げてみると、フロイドの目線がアズールの方へ向いているのがわかった。
「……あ、ごめーん。アズールには分かんないんだったあ」
「は?」
制服を整える手が、ぐしゃりと自らの肩口を握り締めた。ぴきりと浮かぶ青筋に、どこまでも機嫌の良いフロイドはケラケラと笑う。また咎めるように髪を掴んだところで、止める。わざわざ機嫌を落とす必要はない。
一頻り笑ったら、ふうと息をついて、そして突然に走り出した。あまりに急な動作に、真横を駆け抜けられたアズールも反応が遅れる。一拍置いて振り向いて、はっとしたように彼もまた走り出した。
その後ろで手を振るエースと疲れた顔でしっしと手を振るジャミルに見送られ、今しがたの胸の痛みを馬鹿らしく思った。
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