胡蝶の魚は夢を見る - 9/10

 

 今しがた必死に羽ばたいて通ってきた廊下を容易く駆け抜けて、中庭まで飛び出す。自由な二本の尾鰭が空中を蹴り飛ばしながら、周囲の散っていく小魚達の作った道を走り抜ける。木の周りを回って、太い枝にぶら下がって飛んでみたり、遊びを交えて進む頭上にしがみ付きながら背後を確認する。体育館に到達した時点で体力が切れていたアズールはどんどん遠くなっていく。メインストリートまで着いたところで、フロイドの踵がブレーキを掛けるように立って止まった。
「撒いたよぉ。次、どうする?」
 グレートセブンに囲まれた中心へ駆け込んできたかと思えば、頭上の蝶に向かって笑い掛けるフロイドの姿は普段以上の異質さだ。屯していた生徒すらも遠巻きにして校舎の方へと去っていく。そして本当に二人だけになったところで、フロイドの手がジェイドの方に伸びる。
「今は気分がいいから、めんどくせー二人にも付き合ったげるよ」
 ささくれだった指の先が翅を擽った。爪の間にはインクの黒が残っている。何気なく差し出された人差し指には、慣れない仕事の跡がありありと見えた。そこで気付いた。不便を感じなかったのは、自分だけだったのだ。この気紛れな指先が試行錯誤したからこそ、飛び回っていられた。すぐにでも泣き出したい気持ちをどうにか抑えて、労うように体をすり寄せた。
「いーよ。だってジェイド、明日はたこ焼き作ってくれるんでしょ? 今度は一緒に食べよーね」
 からりと晴れた青空に鴉が飛んだ。風に揺れた木が緑葉を散らす。二色の瞳に映った景色の中で、翠色の蝶は頷くように触覚を垂らした。その様は背景とあまりに不釣り合いで、フロイドも同じく感じたのだろう、くすくすと可笑しそうに笑った。
 揺らぐ指の背に乗って、翅を広げる。フロイドはひとつ頷いて、ジェイドの乗った手を目線より高く掲げる。風が吹いたのを合図にして、頼りない六本足を温かい肌から離した。弱い風にすら煽られてもたつく翅を力一杯羽ばたけば、流されながらも正面へ向けて進行した。すっかり飛ぶことに慣れたと思っていたが、しばらく室内で過ごしたせいで風に乗ればいいのか抗えばいいのか分からない。無理矢理に風を割いて前進を始めたところで、「あっ!」と大声が下方から投げられた。
「たこ焼き! 絶っ対、キノコだけは入れんなよ! あ、帰ってくるまでに全部捨てといていーい?」
 返事の代わりに翅を叩き付けるように動かすと、笑い混じりの不満げな声が聞こえる。反応しようとして足を動かしたら体勢が崩れる。しかし、足元から柔らかい突風が翅を浚って、ついでに進行を邪魔していた風向きも変化する。優しい風に背中を押され、明日渡す彼へのご褒美を考えた。

「フロイドッ!」
 その思考を切り崩すように怒号が響く。思わず踏み外しかけた足を風が押し上げて、前へ前へと押し出される。
「なに、アズール? 急に元気じゃん。その空の瓶どーしたの?」
「話を逸らすな。ジェイドをどこにやった? その頭の上か? まさかポケットの中じゃないだろうな?」
「んー……」
 二人の声は風の音で曖昧になったまま遠ざかる。そのまま門を上から通り抜けた。貴重な体験だと感心していると、そこで風が途切れた。代わりにそよ風ばかりが微かに体を揺らす。落ちかけた姿勢を整えて、ぱさりと翅を扇ぎ、体の向きを正面から横へと向けた。真っ直ぐに目的地を見据える。最初から、逃げ場所は決まっていた。
 進行方向を定め、全身で飛行し始めたその時、重々しく門を開ける音がした。驚いて近くの木に寄り、葉の中へ紛れる。がしゃん、と門が開き切った轟音と同時に駆ける足音がする。葉に体を寄せて見下ろすと、アズールが木の下を走り抜ける姿が見えた。先程までの疲労は消えている。いつの間に体力回復の魔法薬を服用したのだろうか。
 その背中が見えなくなるまで待つつもりで翅を畳んだ。しかし、前傾していた背中が不意に立ち止まった。まさか、と思いながら身を固くする。音も一切立てていない。当然姿も見られていない。気付かれる要素はどこにもない。
 くるり、と振り向いた。彼の銀髪が靡く。ばくばくと拍動する心臓は、何かを恐れるというよりも、まるで期待するようだった。じっと彼は正面を見詰めていたかと思うと、静かに道を引き返し始めた。その視線が、ゆっくりと上を向く。木の真下で立ち止まって、探すように視線が彷徨う。その目がジェイドのそばを捉えた瞬間に、意識の外で翅が大袈裟に上昇を促した。
「やっぱり、そこか!」
 木から飛び出したジェイドへマジカルペンが向けられる。そこから発された光は真っ直ぐな軌道でジェイドへ向かう。動きの悪い翅をばたつかせて、どうにか避けると、内心でひどく悪態を吐く。小さな虫相手に魔法を使うだなんて、貴方、どれだけ僕の事が。
 隠す気のない舌打ちを聞きながら、もう一度葉の間へと身体を滑り込ませて、そのまま合間の中を縫って目的地方面へと向かい始める。柔らかい新緑が翅をゆるく傷つけるが気にしていられない。何に急かされるのかも分からないが、このまま捕まってはいけない気がしている。完全に虫の脳になって全て忘れてしまう方がまずい事くらいは分かっている。

「はぁ、はぁっ……お前が、どこに行きたいのか、分かりましたよ!」
 湿った風が吹いてきて、目的地を距離を悟る。木々の切れ目も近付いている。ぴたりと止まり、真横を走るアズールの背中が見えたタイミングで再び道へと飛び出す。背後から吹いてきた突風に乗って、大して羽ばたきもせずに、緑の中へと導かれるように直進した。汗を拭うアズールの頭上をすり抜けて、勢いよく次の森林へと飛び込んだ。
「あっ、くそ……本当、お前は蝶になっても厄介ですね……!」
 再び新緑の中を突き進もうと翅を動かしたところで、最初の日を思い出す。確かただの枯葉にすら翅を裂かれて満身創痍になったのではなかったか。暫し迷って、足音が近付いたのを聞き決心し、木から這い出す。一瞬触れた葉が硬くて、痛みを思い出し身震いする。いつまでもこの脆い身体でいたいわけでは決して無いのだ。だからこそ、またここへ戻ってきたのだから。
 姿を現したところで、アズールの手が届くわけでは無い。体勢だけ崩さないように、蛇行しながら進み始める。かさかさ葉を踏む音がして、それに続く様に呆れを呈した溜息も聞こえる。
「木の葉で怪我をしそうになったんでしょう。今の身体で山に登るのは危険すぎます。帰りますよ」
 そんな事は、分かっている。
「ジェイド」
 その声の甘さに泣きたくなる。今すぐにでも翻してその体温を感じたいのに、心臓を巣食う感情が邪魔をしている。別に、許せないほど怒っているわけじゃない。謝罪だって受け止めている。言い訳だって聞いている。ただ、知られたくないだけだ。
 振り向かずに前進を続けていれば、もう一度溜息が返されて、葉を踏む足音が再開した。

 しばらく経っても、足音が付いてくる事に焦っていた。アズールの体力では、中腹へ辿り着く前に引き返すと踏んでいた。しかし、魔法薬の効果であろう体力はまだ尽きないらしい。
「こっちに何かあるんですか?」
 疲れるどころか、余裕を持って口を開いた。普段は付いてきたくないとすら言うくせに、何故こんな時ばかり。実際には出来ないので、胸中で溜息を何度もつく。どこかで撒けないだろうかと期待して横道に逸れた振りをしても、隠れた木の傍でじっと見上げてくるものだからどうしようもなかった。いくら目立つ容姿と言えども、擬態出来ている自信はある。彼の言うところの気配とやらで気付かれているのだとしたらお手上げだ。
「不満ですか」
 小さな鳥の声や木々の擦れる音が心地良く聴覚を包み込む。それに合わせるかのように、彼の声は柔らかく静かだ。
「フロイドの言う通り、蝶のお前から考えを読み取る事なんて出来ないので、これは想像ですけどね」
 さくりさくりと枯れた葉が壊れる音が小気味良い。最初はあんなにも翻弄されたそよ風が、今は海流のように思える。軽く流されながら、色々な懊悩から逃避する。
「そういえば先程、魔法薬学室を訪ねた時に思い出しましたよ。ジェイド、お前は一週間前、僕に過去の事を持ち出した悪態をつきましたね」
 流され過ぎて頭を葉にぶつけて止まる。言葉を聞き流すように適当に羽ばたいてみても、耳を塞げない今、続くと分かっているアズールの言葉から逃げる事は出来なかった。
「よくもまあ、二人して僕だけを悪者に仕立て上げたものですよ。確かに僕も大分、いや、かなり……でしたけど……」
 小鳥が傍の木に止まった。しかし、アズールを見るや飛び去って行った。足元に視線を向けると、飛び跳ねているバッタも彼の足を避けるように動いている。
「手紙でも謝ってくるどころか、お前……ああもう……僕がどんな気持ちで読んだか分かってるんでしょうね?」
 枝を踏んだらしく、ばきりと折れる音が穏やかな山の空気へひどく反響した。呑気に眠っていた毛虫が驚いたように引っ込んでいく。
「はあ……言葉が通じてるかどうかも分からない相手に言ったところで虚しいだけだな……」
 飽きずに喋り続けるアズールが物珍しくて、その穏やかな口調も普段は聞かないものだからとつい耳を傾けてしまっていた。疲れた様な呟きに、やっと止まるのかと息をつく。
 この言葉すら理解できなくなるのは寂しいものだ。だから早く帰って欲しい。伝わらないと知りながらも、兄弟にするように翅をぱたぱた動かして訴え掛ける。アズールはただその仕草を見て、目を細めた。
「ジェイド。お前がいない一週間は、本当に大変でしたよ。普段の仕事に加えて、フロイドの面倒も見なければならなくて」
 そよ風に紛れる様な囁き声は、それでいて風を掻き消すような凛とした響きを持っている。最初の日に見た、二人の姿を思い出す。二人で言い合って、すぐに仲直りして、笑い合っていたあの姿は“面倒”には見えなかった。
「お前が居なくても、フロイドは起きて授業に出る。ラウンジも滞りなく回る。でも、それだけだ」
 続く囁きは、まるでジェイドの心境を見透かしたようだった。ジェイドがいなくても平気だとでも言い出しそうな兄弟の、普通な様子を想起する。同時に、部屋に訪れては弱々しく縮こまっていたアズールの姿を連想した。
「お前が居ないと、フロイドは」
 ジェイドを見つけた瞬間の、輝いた瞳を思い出す。昨日、言葉を交わして嬉しそうに笑った声を思い出す。それから、つい先程交わした約束を思い出した。きっと彼は何も平気だったわけじゃない。ただ、それこそ、面倒な二人に付き合ってくれていたのだ。
「違う、僕は……」
 唇を噛んで、目の前の空色が伏せた。その瞼がそっと持ち上がった瞬間に、まずいと直感的に分かった。
「ねぇ、ジェイド。僕は、もうお前が虫だって構わないと思っているんです」
 静かな、穏やかな言葉が鼓膜を溶かすようだ。思わず止まった翅のせいで地面が近づいて、慌てて持ち直す。あわや捕まるかと危惧したが、彼の手は言葉と同じく緩やかに伸ばされるのみだった。
「僕の傍にいてくれるなら、どうだっていいんだ」
 甘やかに微笑む瞳が震える矮小な存在を見つめている。目前へ差し出された手のひらに乗る事も、逃げる事も出来ないまま、宙を彷徨う。
 ――ねえアズール。目の前の蝶は僕なんですよ。
 互いに理解しきった筈の事実を、失念しているとしか思えない。そうでなければ、今、自らに向けられている眼差しの理由が分からない。後退るように重心を背後へずらしたら、冷たい風が吹いてきた。ひたり、と翅に感じた潮の気配で、その意味を理解する。もう今更、振り向くまでもない。
 散らばった物に囲まれて、崖際に咲く花が揺れる。遠く高波が映る。目的地へ、到達してしまった。
 アズールの手が、ジェイドの下の方へ伸ばされる。屈んだ彼の膝は土に濡れる。それすら気にならないとでもいうのか、彼はただ一度動きを止めただけで、目的の物をその手に収めると、もう一度、ジェイドへ視線を合わせた。
「お前がいなくても、僕には八本の手足がある、ですって?」
 もう遠くなった記憶の中、ずっと深く突き刺さっていた罵声が、今度は優しく、静かに空気へ融けていく。アズールは息をつくように笑うと、握った小さな瓶を手のひらで転がした。ことり、と散らばったウェアの上に空の瓶が落ちて、投げ出されたジェイドのマジカルペンにぶつかって止まる。
「ふざけるな。お前達は僕の手足じゃない。そんな物で替えが利くわけがない。だって、僕は――」
 自らの投げた呪詛へ、吐き捨てるその柔らかい響きは、ゆっくりと海風に掻き消える。聞き返そうとして震わせたはずの声帯はどこにもなくて、つい翅を揺らして目の前の花に止まったら、ぽたりと雫が降ってきた。それは一滴、二滴、増える度に間隔が狭まって、最後はざぱりと全身を包む濁流となった。呼吸が出来なくて手足をばたつかせ、増えた足で花びらにしがみ付く。ぐしゃりと掴んだそれが潰れて、無い筈の目を見開いた。覚えのある眩暈と共に、世界がどんどん小さくなっていく。何が起きたか全て判った。それでも足掻きたくて崖の向こうへ飛び出そうと動いた手足は、それより重い手足に包まれた。
 一瞬の浮遊感の後、強い重力を感じながら落下する感覚に、変身が解けたのだと悟った。六本の足に包まれた一本の尾鰭は固定されて動かせない。二本の腕で捕まえられた同じ本数の腕も、震えてしまってほどけない。ただ正面から覗き込んでくる甘い空色に逆らうよう、目を閉じる事しか出来なかった。
 全身を打つ衝撃と同時に、高波が舞って、世界の音が水に沈んだ。

 

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