異床同夢の夜明 - 1/5

 

 踏みしめた板張りの床が、ぐにゃりと歪んだ。もう何歩先までの動作を準備していた弓弦の右脚は、がくりと沈み込んだ地面に取られる。
 珍しくも先を歩く、赤色の尻尾が揺れているのを、急に潤んでしまった視界が捉える。ぐらぐらと前方へ傾いでいく。
 後ろから、咄嗟に掴んだような乱暴な手つきで引き留められる。まともでない頭の中でも植えついた常識が、その正体へお礼を言うよりも前に、全身が発火するくらいの熱で息が切れる。
 ぴたり、と揺れる尻尾が立ち止まる。古くなった靴の潰れた踵が、腐った木の上をきゅっと滑る。一歩後ろに下がった左足と、ゆっくり振り返る頼りない背中に、焼け付くような肺へ抗いたくて、動きの鈍い手を伸ばした。

 

 九夏三伏の早朝

 

「弓弦! し、しっかりしてよ」
 ぱし、と伸ばした手が確りと掴まれる。コーヒーにミルクを入れたような視界の中で、青い目がこちらを覗き込んでいた。気付けするように名前を呼んで、それから息を潜めた彼は、静かに呼吸をすると、座り込んでしまった弓弦を引っ張り上げた。屈伸した腕がぴりっと痛む。
「う……い、茨。ちょっと……待ってください」
「俺は待ってもいいけどさ、あいつらは待ってくんないってば!」
 急かす彼に縋りつく格好になりながら、ふらつき立ち上がる。がさりと地面を覆う葉が音を立てた。途端に、茨は握ったばかりの弓弦の手を強く引いて、暗い朝の森を走り始めた。
 急なことに弓弦は一瞬息を止める。ふだん不真面目な彼の真剣な様子に、疑問を飲み込んだままで、必死に感覚の薄い脚を動かした。

 薄暗い森の中には、見渡す限り何もない。乱立する新緑を付けた真夏の木々と、絶え間なく広がる鮮やかな落ち葉が全てだった。じりじりと物を焼くのにも似た喧しい鳴き声が、木々の隙間を縫って響いている。
 足を踏み出す度にぐるぐると回るような感覚。いつもなら手を引く役目は自分のものなのに、先を急ぐ小さな背を追いかける情景。まるで現実味のない状況を、それでも引っ張る手のひらの温度が夢ではないと伝えてくる。生温い風に吹かれて、ぱたりと汗が首筋を伝う。
 しばらく走って、ざわざわと木々が揺れるのに気が付く。薄暗がりに潜む何者かの気配に、大気の熱に反して冷たいものが背筋を転げ落ちていく。
 そうだ、逃げ出した自分たちは、まだ逃げ続けている最中だった。

 ぱき、ぱきと枝を踏みつけてしまいながら、ひたすらに掴まれる手をたどって、漸く明るいところが見えてくる。まだ遠い開けた場所から、のんびりと上ってきた太陽が、駆け寄る二人を淡く照らそうとしている。そこで、やっと茨が足を止めた。
 茨は潜めた呼吸のままで、肺から絞り出すように急ききる息を吐きだした。
「げ、限界」
 がくりと足が膝から曲がって、どさりと落ち葉の上に伸びる。倒れこんだ茨の額に浮かんだ汗が次から次へと流れていく。
 一瞬、離れて地面に吸い込まれていく手を追いかけて、握る。全身を包む真夏の温度の中でも、茨の体温はやけに温かく感じた。
 周囲から襲い掛かる気配がないことを確認して、弓弦も座り込む。全身が重たくて仕方がない。殴られた後に似た痛みが前頭葉を延々と襲っている。あまりの暑さに疲弊しているのだろうか。吐いた呼吸は、けほ、と苦しい咳に変わった。
「……大丈夫?」
「茨がそんな風に心配をするなんて。明日のお天気が心配ですね」
「あーあ、気遣ってやって損した! そのまま死んでいいですよー!」
 大の字になった茨が、握っていないほうの腕を振り上げて、ばさりと緑葉のベッドを打った。崩れた葉の欠片が舞い上がる。ぱらぱら、弓弦の頭上からも降り注ぐ気配がして顔を上げると、白んだ夏の空が林冠の隙から見えた。

「ねえ、この後ってどうすんの?」
「この後?」
「あいつらから逃げきったらさあ、どこまで行こうかなって」
 はあ、と吐いた息は疲労していたが、弓弦を映した青色は爛々としていた。
「あなたは……どうしたいんですか?」
「えー、俺は……うーん、良く分かんないけど、まずは大金持ちになるでしょ」
「難しそうですね」
「うるさい。あんたこそ、どうしたいわけ? すぐお屋敷に帰るの?」
「……俺は……」
 頭の中が絡まって、一度開いた口を閉じた。
 すると急に、ぶわり、と風が吹いた。飛び上がった葉が頬に当たる感触が冷たい。驚いて顔を見合わせ、瞬きするまま背後を見る。
 解像度の低いテレビみたいな背景の中に、彼らが暗い影を落としていた。
「茨……!」
「ゆ、弓弦!?」
 咄嗟に引き寄せた茨は、肝心な時にぐらりと傾いた弓弦を支えようとして、一緒に地面に倒れこむ。派手に舞い上がった落ち葉の切れ目から、押し寄せてくる彼らの姿を見た。
 靄がかった姿は蜃気楼じみている。それでも、確かにそこにいる事を理解した。彼らの後ろには、二人で穴を開け壊した鉄柵が、遠くなったはずの施設が揺らいで見えた。
 寝食を共にしてきた彼らの影が近づいてくる。それを、何故だか酷く恐ろしく感じてしまった。スローモーションに見えるそれに向かって、さらに土を蹴って視界を塞ぐ。舞った土埃に彼らが目を庇い後退った。すぐに背中へ庇った茨のほうを振り向く。
「逃げなさ――」
「はやく!」
 離そうとした手を逆に引っ張り上げられて、再び、引きずられるように立ち上がる。何か言おうにも、茨は真っ直ぐに太陽を見据えている。それでも弓弦は手を離そうともがいて、また息が咳に変わった。
「待って、茨」
「こっち!」
 ぐいっと腕を引き寄せられて、転げるように森の出口にたどり着く。顕現した太陽が二人を照らし出すと、追いかけてきた彼らはどろりと溶けていった。

 森はざわめきを無くして、大人しくなった。逃げ切った。そう理解して脱力する。二人を包む麗らかな陽気は、真夏よりも熱かった。握られた茨の手も、同じくらいに熱い。全身が焼かれて、自らも手のひらから順番に溶けてしまいそうだった。
 大きく深呼吸をした茨は、ゆっくりと振り向いて、それから、涼しいアイスブルーが弓弦を映した。頭痛はひどくなっていた。
「……ねえ、」
 茨が静かに口を開く。なにか上擦った調子で言って、上気した頬を緩めた。それが弓弦には上手く聞き取れなくて、もう一度、と聞き返そうとしたところで、目の前の景色が紙屑のようにくしゃりと握り潰された。

 ◇

 どしん! と大きな音を立てて、一瞬宙に浮いた背中を思い切りぶつけた。痛みに呻いて目を覚ます。目の前には見慣れた煤塗れの天井があって、白いカーテンが天蓋のごとく安いベッドを取り囲んでいた。
「だ、大丈夫? 教官殿ー……?」
 頭がぼんやりとしていてうまく状況を飲み込めずにいると、カーテンが少し開いて、そこから青色の目が覗いた。床に仰向けになった弓弦を発見すると、その目は動揺に揺れて、警戒した野生動物みたいな動作で近寄ってくる。
 頭が回らずに黙ってそれを見守っていると、彼は口を曲げて、ポケットに突っ込んでいた手を出す。土で黒くなった爪が見える。そろりと掴まれた手を引っ張られて、そのまま慣性に任せ起き上がる。重い頭がぐらりと揺れて、そのまま真横の少し背の高いベッドに寄りかかった。熱さに自然と呼吸が上がっていく。
「し、死ぬの……?」
「死にませんけど……もっと嬉しそうに言えばいいのに」
「はあ? なに言ってんの、教官殿」
 茨が訝しげにそう言って、ぎゅう、と掴んだままの手に力が入る。僅かに隙間の空いたポケットには硝子片が仕舞われているくせに、心配しているような顔がちぐはぐに思えた。
 強く手を握られる感触で、朧げになりかけていた夢の光景を思い出す。薄暗い朝の森、手を引く茨の背中。頭は今もがんがんと痛んで、全身に熱が回っている。息を吸ったら、けほ、と咳が出る。顰め面の背後に見える窓の外には、夏の空が広がっていて、太陽は地上を真上から見下ろしていた。
 目が合うと、茨が「夏風邪だって」とぶっきらぼうに言う。夏風邪、と鸚鵡返しに繰り返して、動きにくい身体に納得をした。風邪を引くと妙な夢を見るものだ、と言っていたのは、去年の夏に熱を出した茨だった気がする。
 ベッドの横で軋みながら稼働する扇風機からは、ぬるい風が吹いている。それだけではとても足りなくて、そよ風でも少し冷たくなったベッドの柵に額を押し当てる。
「……あのさ」
「はい……? なんですか?」
「…………なんでもない」
 ちらと見遣った茨は黙って俯いている。その目は、ゆるく繋いだ手をじっと見ていた。
 ぼんやりと頭が回らずに聞き返さないままでいると、いつもの調子に戻った茨が「明日のトレーニングはなしにしてよ」とぼやきながら、弓弦の腕を肩に担いだ。不思議な心持ちで、その肩を借りながら、静かに近づいてくる眠気に抗う。
 ぽてりとベッドに落っことされてから、茨の手が額に触れる。夢の中と同じで、その手は温かかった。がさがさと音が聞こえたかと思うと、額に今度は冷たい温度が乗った。薄目を開けると、視界の端っこに氷嚢が見えた。
「なんで……」
「え、なんか違った? 熱って氷で冷やしたらいいんじゃないの? えーと……?」
 思わず零した言葉に慌てて、茨はカーテンの外に顔を出した。その拍子に、解けそうに緩んだ赤い尻尾が揺れた。急に鼻の奥まで痛くなって視界がぼやける。振り向いた茨の驚いた顔も、声すらも遠くなって、弓弦はまた意識を手放した。

 

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