今年も残り一時間。つけっぱなしのテレビから聞こえてきたタレントの声で、微睡みかけた頭を持ち上げた。
「はい、あーん」
「…………」
途端、目の前に現れた橙色の物体に思考が止まる。じりじり焦げ付くような熱がカーペットから伝わっている。ぼやけた目を瞬きして、近くに置いていた眼鏡を掛ける。
矯正した視界の中、綺麗にすじを剥かれたひとつぶの蜜柑があった。それを摘まむ白い指が、ふらっと動く。ずれた蜜柑の向こう側に、しまった、と雄弁に語る紫の目が見えた。
「……間違えました」
「坊ちゃまとですか?」
「忘れて下さいまし」
暖房と寝不足でぼんやりしている。気まずそうに引っ込めたそれが、弓弦の口に放り込まれた。やけに美味しそうに思えて、二人で囲んだ机にどっさりと乗った蜜柑を一つ手に取った。適当に敷いたティッシュペーパーの上で、やわらかい皮を解体する。
「本当に、帰らなくてよかったんですか」
「そう言っているでしょうに。何度も聞かないでください」
「追い出されたんでしたっけ? すみません、寝ぼけていまして」
ぶちり、と破れる音がして、顔を上げる。弓弦の爪先が蜜柑の背中をえぐって、軽く果汁が飛んでいた。弓弦は不機嫌そうにそれを拭き取って睨む。
「気を遣われた、と言いなさい」
「ああはい、そうでしたね。いやはや光栄なことで……」
ボーン、とテレビの中で鐘が鳴った。ワイプに映る顔へ真っ先に視線が行って、残してきたわずかな仕事を思い出した。
「茨こそ、よかったのですか」
「なにが? 仕事がですか? 今日のために調整してきたので、あんたに心配されるまでもありませんよ」
「……そうですか。それなら、良かった」
ふふ、と小さく笑う。弓弦の指がするすると蜜柑の背中をはいでいく。綺麗に広がった皮の船には、白いすじばかり落ちていく。
がくん、と首が前傾する。眠気が耐えられないほどになってきた。眼鏡をはずして目を擦る。
「眠るならベッドに行きなさい、茨」
「分かってますよ」
落ち着けていた腰を上げる。カーペットの上を歩く足の裏が温かい。軽くふらつきながら、弓弦の隣に体をねじこんだ。
「ちょっと……」
「あ」
寝ぼけたふりをして口を開けてやる。ぱちぱちと目をしばたかせる弓弦の手首をゆるく掴んだら、得心した様子で、眉を下げた。
「…………もう」
綺麗に剥ぎ取られたあとの蜜柑が口の中に放り込まれる。やけに甘い一粒だった。弓弦は居心地悪げにすこし距離を開けてくる。
「ほら、ベッドに行きましょう。無理して起きていないで……」
差し伸べられた手を掴んで、開いた距離を詰める。わ、と珍しく戸惑った声を聴きながら、唇の横を啄んだ。甘酸っぱい、蜜柑の味がする。
「寝ぼけてるでしょう、あなた」
「寝ぼけてますよ。こちとら一週間まともに寝てないもんで」
「……来年の目標は自己管理、でございますね」
「はいはい」
小言を漏らす口を甘噛みする。びくりと動いた肩を掴んで、そのまま押す。意外なくらい簡単に倒れこんだ弓弦の短い髪が、カーペットの繊維に絡んだ。
オレンジ色になった爪先を撫でて、絡めた指をカーペットへ押し付ける。じっと茨を見つめていた弓弦の視線が、すっと逸らされた。
「……背中が、熱いのですが」
「ベッドのほうがいいですか?」
「…………」
「いてっ」
熱いつま先に蹴られた腿をかばうと、ボーン、とまた鐘が鳴る。脳がぐらぐら揺れている。弓弦の手が伸びてきて、頬に触れた。
「わたくし、明日も、いますから」
隈を撫でるように、彼の親指が目の下を通っていく。優しい声色と微笑みに脳が溶け落ちていく。
「……じゃあ、寝ます」
また鐘が鳴る。ふわりと香った柑橘に誘惑されるように、いつもと違う弓弦の笑顔に吸い込まれるように、睡魔を押しのけてキスをした。
◇
腕の中で身じろいだ感触がして、深く落っこちていた意識がゆっくり起きる。離れていく体温を抱き寄せたところで、ぼんやりしていた頭が少しクリアになる。
乱れた藍色の猫毛が鼻先に触れて、振り向いた顔が見える。ぼやけた中でも、その困ったような表情は理解できた。
「おはようございます……ええと、朝食を作りたいのですが」
「……もうすこし、寝てればいいじゃないですか」
「そういうわけには……」
とん、とゆるく手の甲を叩く。寝起きの緩んだ顔も声色も焦りを滲ませている。頭上に見えるデジタル時計の盤に映る時間は、まだ早い。
不満を呈する茨の目に、弓弦は小さく息をついた。それが聞こえて、茨は重い体を起こした。
抱きしめていた腕を離して、横たわったままの弓弦を見下ろして、その体の横へ両手を置く。弓弦もまだ寝ぼけているのか、鈍い動きで見上げてくる。絡む毛布を適当に払って、軽く捲れた弓弦のシャツに手を差し入れる。
「う、わ」
触れた腹が熱いくらいの温度を伝えてくる。弓弦には手の温度が冷たく感じたのだろう、驚いたように腹筋がはねた。その形をなぞって、へその上へ指を這わせる。
「ま、待ちなさい、茨」
なめらかな肌の感触を追いかけながら、ようやく動いた弓弦の手を握って、緩く開いた唇を噛む。もう蜜柑の味はせずに、薄いミントの香りが広がる。
「ん、ちょっと……」
一瞬だけ握り返された手は、すぐ振り払う動きに変わった。それをどうにかシーツに押し付ける。シャツに突っ込んだ腕ごと持ち上げると、晒された腹に口づける。
「ひっ、……茨!」
「いっ!?」
ど、と鳩尾に重い衝撃が走った。思わず尻餅をついて、痛みに蹲る。完全に醒めた脳で感じる情けなさやら何やらを誤魔化すよう睨んだ弓弦は、口を曲げて衣服を整えていた。
「全くもう。朝から……まだ寝ぼけているんでしょうし、もう少し寝ていなさい」
「あんたも寝ぼけてたくせに……」
「はい? 妙な言いがかりはやめてくださいまし」
てきぱきと着替え始めた弓弦を、ベッドに転がったままで恨めしげに睨む。弓弦は居心地悪げに振り向いて、溜息を零した。
「なんですか。さっきから」
「……いーえ、別に? あんたが明日もいると言ってた気がしてたんですが、そうやってさっさと帰りたがっているのを見れば、どうやらあれは夢だったようで」
「え?」
シャツのボタンを留めていた、細長い指がぴたりと止まった。見上げると、薄い瞼を持ち上げて、大きくなった紫の瞳が茨を映していた。
今更、視界の霞みに気が付いて、ベッドサイドに置いていた眼鏡を手に取る。適当に拭いて掛けたところで、弓弦と改めて目を合わせた。
「特に、急いでいるつもりはなかったのですが……」
「お屋敷で身に付いた癖ってやつですか」
「いえ……ただ、折角のお正月ですから。一緒にお雑煮を食べて、それからゆっくり過ごしたいな、と」
慈しむように細められた目が、腑抜けた顔の茨を見た。それから、くすりと笑う。
「お互い、明日からはまた忙しいですけれど。今日は時間がありますからね」
「あー……」
からからの喉から押し出した声に滲んだ喜色に、余計にささくれ立つ。ぼさぼさの髪をかき乱して、深く息を吐きだした。
「分かりましたよ。あんたに付き合ってあげますから、そのあとは俺に付き合ってくださいよ」
「ふふ、ええ。もちろん」
ぐしゃぐしゃにしたシーツを軽く整えながら、馬鹿みたいに温かい優しい空気に、また大きくため息をついた。
元旦特有の番組表を眺めながら、白い餅を箸で摘まむ。無駄に伸ばして、まとわりつく米の塊に噛み付く。ひたすら口を動かしながら、ちらと隣を見遣る。ふうふうと息を吹きかけてから、ゆっくり食む姿に、まだまだかかりそうだなと独り言ちる。
ぱちりと目が合うと、弓弦は愛想笑いみたいな顔で笑う。それに違和感を覚えて片眉を上げると、ついと目が逸らされる。
「何ですか」
「…………」
黙って咀嚼する弓弦の頬を突っつく。すぐに眉をひそめて睨んできた目に少し安堵していると、気まずげにまた視線がそれる。それから、乾いた笑いを零した。
「なんだよ」
「いえ、なんだか……似合わないなぁ、と思って」
快活な笑い声が部屋に響く。テレビの中でアイドルが笑っている。また餅を伸ばして、息を吹きかけ始めた姿に、遅れてその言葉に納得した。
「弓弦」
「ん、……はい?」
「今年も、よろしくお願いします」
箸に引っかかって、ぷちん、と切れた餅のかけらが器の中に落っこちた。それを見送ってから、弓弦の方に目を遣る。その嬉しそうな表情に、むずがゆくなる。
「こちらこそ、よろしくお願いします。茨」
ちらっと弓弦の器を確認する。まだ半分以上残っている。しかし、まぁいいか、と言い訳すらせずに、肩を掴んで唇をなめる。びくっと肩を揺らしたあと、弓弦は息を抜いて、それからおかしそうに笑った。
ぺたりと背中をカーペットにつけて、両手を伸ばす。その指先が首筋に触れたら、クリアになった脳のままで、ぐらりと彼に吸い込まれていく。テレビからは、未だ笑い声が響いていた。
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