数日間の徹夜が祟って、オフィスを出た途端に眩暈がした。近頃はメンバーの影響だとか、周囲からの忠言だとかに辟易して無理をしないように気を付けていたものだから久しい感覚だった。ぐらぐらする頭を抱えて、どうにか寮の部屋に辿り着く。就寝には早い時間であるからか、部屋には誰もいなかった。
ばたりとそのままベッドに倒れ込む。もう体裁を気にしている場合でもないという判断だ。眼鏡だけどうにか放り出して目を閉じる。動いていないのに世界が回転しているみたいだ。ぐるぐる回る世界の端っこで、「寝る前に着替えなさい」「歯磨きはしましたか」などと宣うちいさな幻覚が見える程度には脳が死んでいる。強めに瞼を瞑れば、その幻は薄れていった。
しばらくそうして眠る努力をしていたが、何故だか一向に眠れない。睡魔はそこまで来ているのに、決定的な眠りにつけない。舌打ちをこぼしながら起き上がる。窓の外では日が落ちていた。
ベッドサイドに、いつだか買い置きしておいた睡眠薬を見つける。手にとってラベルを確認してから、ざらざらと錠剤を手に出した。そのまま口に放り込んで、唾液で飲み下す。それから、もう一度ベッドに倒れ込もうと思ったが、少し考えて、眼鏡を片した。
一応寝巻きに着替えてから、改めて寝転がって目を閉じる。余計に回転がひどくなっている気はしたが、意識は順調に遠のいていく。聴覚の感覚としては、遠くの方で扉を開ける音がした。声を掛けられたような気もした。しかし意識が深みまで落ちていて、浮上できない。そのまま微睡に身を任せる。
「……睡眠薬を飲んだのですか」
瞼の裏に隠れた目の前に、ぼんやりとまた幻覚が浮かんでくる。その声だけはやけにはっきりと聴こえていた。小さな体躯のシルエットは、小首を傾げてこちらを見ていた。
「科学に頼って悪いですか?」
「仕方がなかったのでしょうし、何も言いませんが。そんなに疲れていたのだなぁ、と思いまして」
ぼやけた少年の姿は、眼鏡を吹っ飛ばされた時に見た光景を思わせる。少し距離を縮めた彼の手が伸ばされる。
「……よく頑張りました、茨」
ぽん。頭の上に乗せられた手が、わずかな重みを伝える。労うその手が、無造作になった髪を撫でる。
「あなたは、よくやっていますよ」
「……偉そうに……」
「俺はあなたの教官ですから、偉いでしょう」
こんなこと、あいつは言わない。この手の温もりだって、言葉の温度だって、嘘っぱちだ。そう分かっていても、いつも、心地良いまどろみに脳味噌を溶かされていく。
「弓弦……」
「はい、茨?」
「……つかれた」
「ふふ。はいはい、お疲れ様です」
小さな、幻影の幼馴染に身を寄せる。やさしく頭を撫でてくれる手のひらだけは大きく感じて、ああ夢なんだな、と今更自覚する。疲弊するたび現れて、いつだって最後には消えていく暖かな幻。自分の脳味噌が記憶と願望を捏ねくり回して作り出した夢だと知っていても、追い縋るみたいに裾を掴んだ。
「……好き」
「ふふ。ありがとうございます。俺も好きですよ」
「愛してる」
「……ふふ、俺もです」
「弓弦、」
ふわりと体が宙に浮いた感覚があった。もうすぐ夢からも離れて、深い眠りの底に落ちていくのだろう。薄れてきた感覚を指先に集めて、捕まえた手を握った。
「あんたが、好きだ。愛してる、弓弦」
本音なのか、自分でも分からないくらい、回らない脳味噌から直接吐いた。弓弦の顔が見えないのも、返答がないのも、自分がそれを想像できないからだろう。
「愛してる……」
言葉で表せる感情なんてここにはない。それでも口をつくのは、この一言だけだった。捕まえた暖かい手から伝わる体温だけが、夢現の感覚の中で唯一の現実だった。
◇
はたと気がつくと目が覚めていた。かなり深く眠っていたからだろう、瞼を完全に開けてからもまだ寝惚けている感覚だった。ぼんやりする意識の中で見える窓は朝日を取り込んでいて、きらきらと藍色の猫毛がそれを反射している。
「…………あれ」
違和感を覚えて、ぽつりと声を上げる。真横でシーツに埋もれるこの頭はなんだ。夢現に握った手は、今も何かを強く掴んでいる。半開きの唇からこぼれる呼吸が鼻先に触れる。
「……はあっ!?」
鋭利で冷たい気付きが、まどろんでいた脳をブッ刺した。跳ね上がるようにして起きた自分を、目の前で気持ちよさそうに眠っていた彼が、ゆっくりと目を開いて、見た。
「おはようございます……?」
「いやっ……いやいや……えっ? なんで弓弦がここに?」
彼もまた寝惚けている様子で、ぼやっとした眼だった。それでも叩き起こしたい気持ちを抑えて、疑問を呈する。弓弦はぼーっとそれを見て、それから、ぱちりと瞬いた。
「……違います」
「……何がですか」
「部屋を……間違えました」
緩慢に起き上がって、すっと顔を逸らした。そのまま立ちあがろうとして、中腰でぴたりと止まる。
「…………いいかげん、手を離して下さいまし」
真っ赤になったその頬を見て、そういえば夢なんてここにくるまで見たことがなかったな、なんて事を思い出した。
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