ビルを出た直後の肌に、秋の冷たい空気が突き刺さる。すっかり夜の匂いを纏わせた風から逃げるようにポケットに両手を突っ込む。
今日は比較的落ち着いた日だと思っていたが、最後の最後でゴタゴタと仕事が流れてきて、気付けば20時を回っていた。はあ、と疲労から吐き出した息が白い。それを追いかけるように視線をついと上へ向ける。
「……えっ」
空は真っ暗だった。いつもそこにある、淡い光源すらもない。紫紺の空には、明るい星々とぽっかり空いた赤黒い丸が飛んでいた。
眼鏡を外し目を擦る。画面を見過ぎたことが原因で、妙な幻覚がみえているのかと思ったが、しかし不意に今朝ラジオで聴いた『皆既月食』というワードを思い出した。
得心して、改めて空を見上げる。ちょうど地球の影と重なって、月は暗がりばかりを放っている。
この月が天王星を飲み込んで、それが非常に珍しいのだとネットニュースでも騒がれているのを見かけた。星奏館に戻れば、イベント事に乗り気なアイドル達がこぞって鑑賞会でもしているのだろうか。そんな風に考えて、足を止める。脳内で風の冷たさと騒がしさとを天秤にかける。天秤はすぐに傾いた。
ビル前のベンチに腰掛け、買っておいた缶コーヒーを開ける。眠れなくなることを憂慮して飲まずに持ち帰っていたが、別にいいかと口を付ける。冷えた体に熱が回っていくのが鮮明だ。再び吐いた息は、先ほどよりもくっきりと空へ上っていくのが見えた。
「……おや」
ビルの入口がすうっと光を外へ通したかと思うと、革靴の踵が鳴った。続いて聴こえた声に、思わず振り向く。ESビルの入り口に、秋用のコートを着た弓弦が立ってこちらを見ていた。
「弓弦……奇遇ですね。あんたも残業ですか」
「ええ、まあ。茨は何をしているのですか?」
「なにって……」
なんとなく、帰るのが億劫で。そんな子供っぽい理由を口にしたいとは思えず、少し黙った。弓弦は怪訝にそれを見ながら、ゆったりとした足取りで近づいてくる。
あまりに自然な流れで寄ってこられて、何も考えず横にずれる。開けた空間に弓弦が座って、鞄から取り出した缶コーヒーを両手で握る。それから空を見上げて、「ああ」と納得した声を出した。
「あなたもこういうものに興味があったのですね」
「そういうわけじゃないですよ。単なる偶然です、偶然」
「そうですか。茨にも美しいものに感動する心があったのだなぁと、感心したのですが」
「あっはっは、それはこっちの台詞です!」
人通りも少ない夜の空には笑い声がよく響く。弓弦はそれを咎めるような目でちらと見て、缶コーヒーを一口飲んだ。
「失礼な子ですね」
「本当の事じゃないですか。あんたは月を見て綺麗だなんて言わないでしょう」
「あなたにはね」
ふっと笑う呼吸が聞こえて、思わず睨む。弓弦はそれに気付かないまま、また空を見る。月はまだ影の中に隠れていた。
「わたくしだって、あなたと一緒に空を見上げているのを、感慨深いとは思いますよ」
「……そうですか?」
「そうですよ」
柔らかいまなじりがこちらを見て、居心地の悪さに目を逸らす。そのままぐっとコーヒーを呷る。外気との温度差で食道が焼けるように感じた。
「天王星ってどれですか」
「あの辺りだと思いますが、ちゃんと観測したいのなら双眼鏡を持ってきた方がいいですよ」
「結構です、間が持たないので聞いてみただけですから」
「はあ。そうですか」
それから、黙り込んだままで興味もない惑星の輪郭を眺める。時折、駆け抜けていく車や、疲弊したサラリーマンの足音がよく聞こえる夜だった。
こつん、と缶を置く音がした。隣に目線を遣ると、温まってほんのり色付いた頬が見えた。弓弦もついとこちらへ目を遣ってから、気が抜けるような、普通の笑みを浮かべてみせた。
「また、一緒に見られたらいいですね」
「……今夜のようなレアケースの話なら、次は三百年以上後らしいですよ。物理的に不可能ですな」
思わず頷きそうになったのをどうにか抑えて、ラジオで聴いた知識を引っ張り出す。弓弦は笑顔のままで、首を振った。
「0点」
「は?」
「冗談でございますよ」
それだけ言って、空になった缶を持ち上げて、ベンチを立った。目で追いかけた背中はビルの中へ戻っていく。捨てに行ったのかと考えつつ、中身の半分残った缶を握って、空を仰ぐ。暗くなった空の中に、小さな青い星が浮かんでいるのが見えた。
戻ってきた弓弦が再び隣に座る。
「もしかして、さっき生まれ変わりの話をしてました?」
座るなり、そうやって問いかける。弓弦は何も言わずに微笑んだ。なるほど、と納得して、改めて思考する。
「来世ねえ……」
輪廻転生だか何だか、そんなものは信じていない。あったとしても今が全てだとも思う。それでも、敢えて考えるのなら、またこうして三百年後の未来で並んで月を見られるのなら。
「もし来世があるなら、次は『教官殿』に会わない人生が送りたいものです」
言って、弓弦のほうを見る。弓弦は虚を突かれた様子でぱちぱちと瞬いて、それから、くすりと笑った。
「わたくしもです」
「……さて、そろそろ戻りますか。さすがにお祭り騒ぎも落ち着いている頃合いでしょうし」
「ああ、やっぱりそうだったのですね」
ようやく空にした缶を捨て、弓弦に声を掛ける。得心したように頷くのを睨んでいると、中途半端に差し出していた手が掴まれる。冷え切っていた手が、弓弦の体温で溶けていく。だから離しがたく思って、そのまま握り返す。
何も言わずに帰路に着く。ふっと見上げた月は、ほんの少しだけ顔を出していた。
「月、綺麗だと思います?」
「そうですね。今日くらいは、思います」
「そうですか、自分は全然思いません!」
弓弦の口が、はあ、と白い溜息を吐く。茨の呼吸も混ざって、空へ上っていくのを目で追った。
流石に冷えてきた手をポケットに突っ込む。え、と隣から声が上がってから、手を繋いでいた事を思い出したが、まあいいかとそのまま弓弦の手ごとポケットに入れた。弓弦はじとりとこちらを見て、また白い息を吐く。
「あなた、言ってることとやっていることが違いませんか」
「別に違わないでしょう。あんたは月じゃないんだし」
「は?」
弓弦が目を丸くする。それから、じわりと顔を赤くした。
なんだかやけに愉快に思えて笑うと、ポケットに一緒に入っていた手が指の関節を締め付けてくる。それがあんまり痛くなくて、ああ来世ってもんがあれば、だなんて思考に至った自分に寒気がした。
コメントを残す