かち、かち。
やけに時計の針が大きく聞こえる。ねじやらグリップの一部やらが無作為に並んだ机をじいっと見ながら、かれこれ十分以上待っている。かちゃかちゃ音を立ててそれらを組み立てる大人たちは、さっさと終わらせて出て行ったり、休憩で水を飲んだりしている。
弓弦は腕を組んで背を預けていた椅子から、ふうと息をはいて立ち上がった。隣のからっぽになったままの席を見下ろして、赤色のしっぽを揺らして走って行った背中を思い浮かべた。ちょっとトイレ、そう言ってから全然戻らないことは何度かあったが、そのどれもが作業からの逃亡を図るものだった。今回もそれだろうと予想が立って、苛立つ心を隠しきれずに口を尖らせた。
両親からの指導のおかげで足音の立たない弓弦の歩みは、たいていの場合、茨によく効く。気配に気づかず油断したところを確保する。それがいつもの流れで、現在の弓弦が遂行すべきミッションのひとつだった。
とん、と最後に踵だけ音を鳴らして、作業場から一番遠い厠の前へ立つ。数秒、息をひそめて反応を待つ。あたりはしんとしていて、遠くの演習場から銃声がよく聞こえてくる。もう一度、つま先で地面を蹴る。反応はなかった。
「……茨~? お腹の調子が悪いんですか? 開けますよ~?」
なれば、と遠慮なくドアノブを掴んだ。反応がない時は寝ているか、去っていくのを待っている。つまり正解は強行突破だ。
何度も茨と押し合ったせいで鍵の緩くなったドアは、思いっきり肩でぶつかれば、ぎりぎりと嫌な音を立てて開く。弓弦はそれを覗き込んで、首をかしげる。鍵がかかっているのに誰もいなかった。
「あ、」
すう、と細く風が頬に吹き付けて、顔を上げた。いつも閉じている小さな小窓が、子供一人分くらいのサイズに隙間を作っていた。
「茨! もう、どこに行ったんですか、あのクソガキは……」
作られた窓の隙間を通り、厠の裏側にあるじめじめした空間に出た。そこにも姿はなかった。建物の裏側の細い路地は、長いこと施設にいたが初めて歩いている。まるで猫みたいだなんて思いながら抜け出すと、演習場に出る。午前中だからか、比較的活力のある顔をした大人達が走っている。一応、目を凝らしてそちらの方を観察してみるものの、赤い髪は見えなかった。
しばらく茨の行き先を考えてみる。それで、よく外での演習中に茨がサボっている木陰を思いついた。軽く走りながら、演習場の端っこにある木まで近寄る。
「茨~? ……あれ」
覗き込んだ木陰には、いつものように眠っている姿は見えなかった。しかし、木の元に生い茂る草の中に、見慣れた眼鏡が落ちていた。しゃがんで、砂で汚れたそれを手に取った。砂埃は軽くはたいてから、改めてフレームを確認する。間違いなく茨の眼鏡だった。
はあ、と弓弦は大きくため息をついて立ち上がる。走りながら近付いたからか、慌てて逃げ出したのだろう。まったくもう、と呟いて、あたりを見回す。草のない地面を探せば、ばたばたとあわただしくついた足跡があった。
足跡を辿っていると、別棟のほうにまで着いてしまった。そろそろとっ捕まえて作業に戻らなければ、と考えながら歩いていると、足元はまた雑草の生えた区画になった。よく見てみれば、草が折れて足跡を形成している。今度こそ逃がさないようにと、足音を殺して、建物の陰に進んだ。
そっと歩きつつ周囲にも目を配る。木の陰、いない。室外機の陰、フェンスの向こう、いない。そうやって確認しながら進んでいると、奥のほうで微かに木が揺れた。
ぴた、と足を止めて、そちらに意識を集中する。揺れたのは路地の終わりに生えている、小さめの樹木だ。よくよく見れば、幹の端から小さな肩がはみ出していた。
「…………」
今すぐ走り出して技を掛けたい。そんな気持ちを我慢して、ゆっくり、ゆっくり近づく。見据えた肩は不規則に揺れている。眠っているわけではなさそうだ。呼吸もなるべく殺す。そして、残り数メートルになったところで、ふとその肩が引っ込んだ。
「待ちなさい! 茨!」
がさ、と草を掴む音が聴こえて、思わず声を上げる。足音が聞こえ始める前に、と全速力で走り木の幹に手をついた。ばっ、と角の向こうを覗き込めば、走る茨の背中が見えた。
「茨! 待っ……うわあ!?」
全力で走って追いつけないわけはない。そう考えて、コーナーを切り返して地面を蹴った、その瞬間につま先が地面に引っ張られた。どすん! と顔面から雑草に突っ込む。突然のことで受け身を取るのが遅れてしまった。原因は知っている。あの姫宮の屋敷で経験したことがあるからよく知っている。草でできたアーチから足を引っこ抜く。それから痛む鼻の頭を押さえながら起き上がると、逃げていたはずの茨が立ち止まって弓弦のほうを見ていた。
「ぷっ、くく」
目が合った途端に、茨の頬が膨らんで、空気を零した。あ、笑われた。そう気づいたら、痛みに萎んでいた苛立ちが吹き上がるのを感じた。素早く手をついて起き上がり、再び走り出す。「うわ」と小さく言いながら、茨もまた逃げ出した。
「このクソガキ! 待ちなさい!」
「やだ!」
いつもならとっくに捕まえている時間のはずだったのに、と苛立ちを募らせながら追いかける。今日の茨は妙に元気だった。そういえば昨日はいつもより早く寝ていたなと思い出す。本当に狡賢い。
演習場の周囲をぐるりと一周して、また最初の地点まで戻ってきた。流石に一周は疲れたようで、茨のペースが落ちてきた。呼吸の音も大きくなっている。もう少し、と弓弦はむしろペースを上げて、近づいてきた背中に手を伸ばした。
「……捕まえ、たっ!?」
「えっ、ちょっと、うわぁっ!?」
指先が背中に触った。そう思ったとたんに、また足が地面に引っかかった。咄嗟に茨の襟首を掴んでしまうと、そのまま茨を巻き込んでどてっと倒れこむ。手が塞がっていたせいで、また顔からぶつかった。しかし、今度は地面ではなく茨の背中だった。
「い、痛い! 重い! 鼻がつぶれる!」
妙な状況にしばし呆然としていると、乗っかっていた茨が手足をばたつかせた。弓弦が体を起こすと、すぐに茨も跳ね起きる。茨は地面に座り込む弓弦をちらりと見て、それからまた背中を向けて逃げ出した。はっとして弓弦も立ち上がろうとしたが、その前に、茨の背中が傾いた。
「いってぇ! 最悪なんだけど!」
「自業自得ですよ、まったくもう」
派手にすっころんで鼻を押さえる茨に、おもわずため息をついた。視線を下にずらしたら、いくつもいくつも結ばれた草の輪っかが見えた。
茨はひとしきりのたうち回ってから起き上がると、弓弦を見て、目を丸くした。
「え、なに笑ってんの」
茨の視界の中には、唇を丸めて目を細めている姿が映っていた。弓弦は茨の言葉で、そうやって我慢していた笑いの衝動に負け、思い切り破顔した。
「あははっ! だって、もう、あなた自分で仕掛けてたのに!」
「……う、うるさいなぁ! あんただって引っかかってたじゃん!」
「ほんとうですよ、ああもう、めちゃくちゃだ」
ぐしゃぐしゃになった髪を結びなおそうとして、少し考えてから、ゴムを取った。砂だらけに汚れた自分の姿と茨の姿を見て、たまらなくおかしくなる。ぽかんとする茨の顔に、また自然と口が開いて、笑い声があふれた。
「……なんなの、もう」
茨はすねたように口を尖らせる。それからじっと弓弦の笑うさまを見つめて、むすっとした顔で弓弦のほうにずりずりと近寄った。笑い声をかみ殺して、「どうしました?」と聞くと、また黙って弓弦の顔を見てから、手を差し出した。
「眼鏡、返してくんない?」
「ああ、」
すっかり忘れていたそれをポケットから取り出した。茨の眼鏡は、転んだ衝撃でフレームがちょっと曲がってしまっていた。それにぶつぶつ文句を言いながら視界を補強して、それから茨はもう一回弓弦のほうを見た。
「なんですか?」
「……べつに~?」
ふん、と顔を背けてぶっきらぼうに返した茨の横顔は、ちょっとだけ嬉しそうに見えた。
◆
おはようございます、と掛け声のように言いながら、朝のゆるい空気の中を走っていく。朝一番はいつも叱ってくる上官もぼんやりしていて、こちらを振り向くこともなく通り過ぎる。邪魔も入らず、長い長い廊下の一番奥、離れた個室に入り込んだ。
ドアを閉じて鍵を掛けたら、しばらくは誰にも気付かれない最高の隠れ場所。弓弦と何度もドアを挟んでやり合ったせいで、鍵が脆いのだけは難点だ。狭い部屋の中は設計ミスか何かで、一個だけ離れたところに作られた洋風便器が鎮座している。その蓋を閉じて、上に足を乗っけて立つ。子供の身ではそのくらいで壊したりしない。
背伸びして少し高い位置にある、うっすらとだけ開いた窓に手を伸ばす。指先が鍵に引っ掛かったら、そのままぐいっと下に落とす。ぱちん、と解錠すれば、もうここからは一瞬だ。指を引っ掛けて引っ張って、開いた窓に手を掛けて、自分の体重分だけ引き上げる。
するりと通った体が宙に投げ出される。そのまま頭を庇うように背を丸めて、そこを地面にぶつける。軽く転がった体を起こせば、仮に自由の身だ。
開けっぱなしの小窓を見上げる。最大の追手は今日の朝ご飯に苦戦していて、まだ食卓にいるはずだ。してやったりと笑って、茨はそこから駆け出した。
定位置の木陰に着いて、朝のぬるい風にうとうとする。しかし眠っては本末転倒だ、と首を振って、幹から顔を少し出して様子を伺う。弓弦は絶対にここを探しにくる。そうなるように、逃げる先はいつでもここを選んでいる。足跡だって付けてきた。
そうしてじっと待っていると、窓からどさりと落ちてくる小さな体躯が見えた。そいつは綺麗に着地して、それからきょろきょろ辺りを見回した。
「茨! 出てきなさい!」
隠れた木陰まで通る声で弓弦が呼ぶ。茨は息をひそめて、動向を見守った。苛立たしげに地面を蹴った弓弦は、はたと止まって、じっと雑草を見つめる。それから足を突っ込んで、ぶちりと結んだ草のアーチを引きちぎった。すごい怒ってるじゃん、と思いながら、ますます息を殺した。
仕掛けた罠に引っかからないようにと慎重に歩く弓弦は、着実に茨のつけた足跡を追ってくる。弓弦ならこちらに気付いてくるだろう距離は大体把握してきた。もうすこし、もうすこし。そうして、ばちりと目が合ったところで、ばっと立ち上がって角を曲がった。
「茨っ! 止まりなさい、今ならお説教だけで許してあげます!」
絶対嘘だ。前にもそう言って、一応止まったら死ぬほどメニューを増やされた。どうせ怒られるなら好きなだけやってからの方がいいとその日に学んだのだ。
茨はこの前と同じ道を辿って、別棟の裏に逃げ込む。隠れ場所が案外豊富な裏道は、警戒心の強いやつにこそ有利だ。また奥まで逃げ込んで、角でやっと足を止める。
荒くなりそうな呼吸をなるべく静かに吐いて、こそっと顔を出す。予想通り、弓弦は草結びを警戒して走らない。もうすこし、こっちに来たら。
「……茨〜?」
ぱち、と目が合った。嘘だろ、結構距離開いてるし隠れてるのに。予想以上に早い発見に焦ってその場を離れた。後を追うように走ってくる足音はやっぱり慎重で、いつもならすぐ追いつかれるところを逃げ出せた。
この前は体力を削りたくて演習場を一周した。あれは完全に悪手だった。今度は道を逸れて、木の密集する訓練コースに入り込む。
どこからか犬に吠える声が聞こえている。上官がいませんように、と思いながら適当な木に足を掛ける。それから爪を引っ掛けるみたいにして木に掴まって、するする上に登った。
そこで、がさり、と物音がした。そちらを見遣れば、早くも弓弦が訪れていた。思わず両手で口を押さえる。弓弦はしばらく辺りを見回して、たまに足を止めながら、茨を探している。
来ないと思ったのに、と遠くで鳴く獣の声を聞く。弓弦はたまにその声がする方を見るが、首を振って草木を掻き分ける。たしかに弓弦はあれが苦手なはずなのに、勘違いだったのか、とぐるぐる考える。
ふと、弓弦が完全に足を止めた。そしてすっと顔を上げる。茨の隠れる木の真下だった。
「…………」
しばらく、無言で見つめ合う。それを、はあ、とため息で終わらせたのは弓弦だった。
「降りてきなさい。悪いようにはしませんよ」
「絶対やだね。教官殿が登ってくれば? お坊ちゃんには難しい?」
そう言うと、弓弦は目を細めて茨を睨む。弓弦も大人びて見えて、まだ子供っぽいところもある。挑発には十中八九、乗ってくる。確信を持ってにやにやしていると、弓弦はその手を幹に掛けた。
「え、うわ」
弓弦はそのまま、軽やかに登ってくる。茨よりも慣れた様子だった。がさり、と弓弦が葉っぱの間から頭を出した。
「これで満足ですか? 茨?」
ぐっと腕の力で上がってくると、茨が座っているのと対面の枝に腰を落ち着ける。それから顔を上げて、むっと口を歪める。
「笑うんじゃありません」
「いやだってさあ……」
あはは、とつい笑い声を上げながら、弓弦のほうに手を伸ばした。弓弦は一瞬避ける動きをしたが、茨の指が髪の上に乗っかる葉っぱを摘んだら、目を丸くした。そして、不機嫌そうに手を伸ばして、茨の髪に引っ掛かる蜘蛛の巣を浚った。
「馬鹿な子ですね」
「あんたが言うの、それ?」
「今日のメニューは三倍じゃ済みませんからね」
「うわ、やっぱり嘘だった! このサディスト!」
うげえ、と顔を顰めると、弓弦は呆れ顔で息をついた、かと思えば、頬を緩ませて笑う。その表情に妙にびっくりして、茨は口をつぐんでしまう。
「知ってます? さっきやけどしたんですよ、あなたが駄々を捏ねたので作ってあげたスープで」
「……だと思った。早かったもん」
「本当にむかつく。ふふっ」
そう言って笑いながら、弓弦が茨のほっぺたを摘んだ。「痛い」と思わず声を上げて弓弦の腕を引っぺがそうとしたが、難しくてそのまま甘んじてつねられる。代わりにそのぼさぼさになった髪をぱちんと解いてやれば、あ、と声を上げて、負けじと弓弦も茨の髪をほどいた。
それから顔を合わせて、ぷっ、と笑う。まだ静かな朝の空気に、二人の笑い声が響いた。
と、不意に木が少し揺れた。笑ったからかと思っていたら、弓弦が下を見て「ひ」と引き攣った声をあげた。傾いた弓弦の体が茨にくっついて服の裾を掴まれる。
「うわっ、なに、こんなので怖がってんの?」
「ちが、」
バランスが悪くなり、咄嗟に弓弦の腕を掴んで背中を枝に預ける。弓弦は反論に続けようとした言葉を飲み込み、ゆっくり、本当に慎重すぎるくらい静かに体を起こす。その目がいつまでも下を見ているものだから、高所恐怖症という新たな弱点を見つけたのかと思った。しかしその視線を追って、得心する。近くで訓練していたのだろう犬が、ふんふんと木の根っこに鼻を押し付けていた。
おい何やってんだ、と下から声をかけられる。犬には上官がくっ付いていたらしい。何も言わずに舌を出すと、苛ついた様子で、弓弦のほうを呼ぶ。引き摺り下ろしてこい、と言ったそいつに、弓弦は白っぽい顔色のままこくこく頷いた。
「ほら、降りますよ、茨」
そう言いながら弓弦の手はぎゅうっと裾を掴んで離さない。茨はうっかり出そうになっていた悪態を一回飲み込んで、行儀良く座る軍用犬を一瞥してから、口を開いた。
「いま教官殿を人質に取ってんの」
「はあ?」
「降りろって言うなら、あんたらの大事なお客さまと一緒に落ちるから!」
掴んだ腕を揺らして見せると、犬と上官とを交互に見ていたはずの弓弦も、眇めた目で茨を見やった。上官はやれやれと息をつくと、そのまま犬を連れて去っていく。
多分あいつ戻ってくるだろうな、と思いながらそれを見送っていると、やっと手を外した弓弦が小さく名前を呼んだ。
「なに?」
「……今日のいたずらをチャラにはしませんよ?」
「わかってるってば。邪魔だったから帰らせただけ! それより、教官殿」
怪訝にじいっと見つめてくる弓弦を見ながら、茨は歪んだフレームを摘んでかけ直した。頭の中で言って、いやいやとやり直して、まあいいかと思い直して、それから口に出した。
「もう一回笑ってよ」
「……はい?」
「楽しそうにしてれば、共犯だと思ってもらえるかもしんないし」
虚をつかれたように目を開いた。それを見て咄嗟に付け加えると、弓弦は眉を下げて、呆れたように茨のほっぺたを摘んで伸ばした。
その顔を見れば、たぶんさっきのあいつだって許すんじゃなかろうか。なんて事を考えながら、仕返しに腕をつねった。
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