じりじりと肌を灼く感覚に、ふと飛びかけていた意識が帰ってくる。見慣れた荒野地帯が視界に広がって、硝煙の匂いがした。
伸ばしたまま硬直していた傷だらけの腕を、汗が滑り落ちていく。途端に、どうにかこうにか納得しながらやっていた作業が無価値に思えた。地面に散らばる見慣れた部品と、その鉄錆に塗れた自分の指が、たまらなく嫌になってしまった。ぽたりと手の中からネジが転がり落ちて、砂に埋もれた。
「落としましたよ」
ぼんやりと眺めていた砂の中に、細い指がネジを追うように埋もれる。それから持ち上がった指先にはネジが摘ままれていた。ほら、と差し出してくるそれを、茨はぼうと眺めた。
綺麗だった指は砂や鉄錆に汚れて、爪にも土が詰まっている。迷彩柄に隠れた腕にも、茨程ではなくとも傷がある。
「……茨? どうしたんです」
訝しげに見つめてくる瞳も、いつの間にかくすんでいる。これまでの人生で、それから鏡の中で見飽きた色だった。
ぽた、と弓弦の額から汗が落ちる。それを視認したと同時に、茨は伸ばされていた手首を掴んだ。
「ねぇ、今日だけサボろうよ」
弓弦は少しだけ驚いたように瞬きをして、すぐにぱっと振り払った。それから呆れたふうに息をついて、茨の頬を引っ張った。
「いたたた」
「馬鹿な事を言ってないで、手を動かしなさい。逃げても減りませんよ」
「分かってるけどさぁ」
痛む頬をさすって、弓弦の目をじいっと覗く。そこにあるのは常と同じ諦観ばかりだ。また銃のかけらを拾い始めた弓弦の手を掴む。
「茨」
「さっきから頭痛いんだよね。もしかして熱中症かも」
「またそういうことを」
「教官殿も顔色悪いしさ。水飲みに行くくらい大丈夫だって」
「駄目ですよ、指示があるまで動いてはいけないって……」
弓弦の反論を聞きながら立ち上がった茨は、次は両手で手を握る。あの弓弦がねじ伏せてこない時点で勝算はあった。ぐらぐら腕を揺らしているうちに、はぁ、と弓弦が息をついた。それが彼の妥協点だと知っている。茨が手を引くと、弓弦もしぶしぶ立ち上がる。それから周囲を見回して、居心地悪げに茨を見る。
「五分だけですからね」
それを聞いて、すぐさま茨は走り出した。弓弦の細い手首を掴んで、荒野のほうへ目一杯の速度で走る。「茨!」と焦った声が聞こえても足を止めなかった。
炎天下での全力疾走は訓練で慣れてしまっていた。何度も本当に熱中症で倒れた甲斐もあって、もうほとんど同じ原因で倒れることはなくなった。今日は特に強い日差しだったが、垂れる汗だけ拭えばいくらでも走れる気がした。
「茨、待って下さい、どこまで」
ざくざくと砂の間を割っていく感触が、今だけはむしろ心地いいと思える。握りっぱなしの手のひらから落ちる汗も、掴んだままの手首から伝わる脈拍も、同じだった。息が切れて、血の味がする口の中も、不思議と痛くない。
中心点から傾いた太陽が頭上に見える。照らしてくる光は、いつまでも追いかけてくるような気がして、晴れやかな気持ちに焦りが募る。握る手に力が入って、細い手首が少し揺れる。
「茨……茨!」
ぐっ、と力が込められて、手の中にあったそれが引っ張られる。その強さに思わず手が離れた。勢いづいていた体は前につんのめって、思いっきり顔を打った。
「いってぇ」
「水を飲みに行くだけ、という話でしたよね。それがどうして、訓練場の端に向かっているんですか」
痛む鼻っ柱を手の甲でこする。砂がぱらぱら落ちるだけで、血は出ていなかった。受け身がうまくとれるようになってきたのだろうか。そんなことができても、何にもならない。見上げると、太陽を背にした弓弦が茨を見下ろしていた。
「もう五分経ちます。これ以上持ち場を離れたら、上官が戻ってきますから」
「あー……今日の担当、あいつだっけ? ねちねち説教してくるタイプの嫌なヤツ」
「茨も怒られるのは嫌いでしょう。ほら、早く戻りますよ」
逆光になって暗い弓弦の手が差し伸べられる。茨はじっとそれを見て、さっとあたりを見回して、それから手を取った。ぐいっと引き上げられるままに立ち上がる。
「……でもさぁ、殴られるよりマシじゃない?」
離れそうになった手を握って引っ張りながら、茨はもう一度弓弦の目を覗き込んだ。弓弦はすこし目を瞠って、眉根を寄せて茨を見つめ返した。
「まさか、今日は最初からこうするつもりだったんですか?」
「まあね。でも、さっきまでは本当に真面目にやろうと思ってたよ~」
「……はあ」
通りで最近は真面目にスケジュールを見ていると思いました、と額を押さえながら呟く弓弦に、こぼれそうになった笑いを噛み殺す。しかし息の流れに気が付いたのか、弓弦はじろりと茨を睨んだ。茨はその視線から逃げるように、力が抜けていた弓弦の手を引っ張って、また走り出した。
随分と遠くに見えていた、鉄柵が近い。もうだいぶ傾いてきた太陽も二人を追いかけてきた。感覚がなくなりつつある足をドーパミンだけで動かして、前方に向けて手を伸ばした。
がしゃん、と金網を掴んだと同時に、膝から崩れ落ちる。死にそうな呼吸を繰り返しながら、ゆっくりと背中を網に預ける。ふと持ち上がっている片手に気が付いて、その先をたどると、手首を掴まれたままの弓弦が立っていた。
また太陽を背中に浴びて、暗がりに姿を隠して茨を見下ろしている。その頬から、ぽたぽたと汗が滴り落ちている。
「教官殿、座ったら?」
「平気です」
「ふうん」
自分の呼吸だけで精一杯だった茨は、それ以上勧める気もなかった。流れ続ける汗をぬぐって、くらくらする頭を金網に沈めた。
足元に視線を遣ると、ぼろぼろになった靴と、濡れた地面があった。絶え間なく落ちていくそれの正体を、なんとなく知っている。茨は顔を上げられずに、そのまま目を閉じた。
「……戻らないと」
沈黙を破って、弓弦が呟く。茨は目を閉じたまま、ふうん、と言った。
「いいじゃん、半日くらいさあ」
「よくありません。もう気が済んだでしょう、ほら、茨」
弓弦はゆっくり膝をついて、茨の手に触れる。やわらかい手のひらが、触った。場違いなその温度に、思わず震える。それを掴むことはせずに、ただ膝を覆う迷彩柄をくしゃりと握った。
「あと五分だけ」
「茨」
「今日だけじゃん……」
ぽつりと零した声は、思った以上に震えていた。弓弦の手が、ぱっと離れた。言葉を選んでいるのか、また沈黙が続く。その静けさに、茨はぐっと目を閉じたまま、静かに呼吸を繰り返した。
正座のあと特有のしびれが残る足を、なんとか正常に伸ばしながら、茨は硬いベッドに背中を預ける。想像以上に散々な目には逢ったけれど、それでも、監視の目を潜り抜けて細工した甲斐はあったと思えていた。
「寝た?」
「……もう寝なさい」
「はーい」
手に残った温度も、耳に焼き付いた静けさも、忘れないようにと眠る前に思い出す。明日のことを思えば憂鬱になって仕方がないが、生き残るためにも考えないわけにはいかない。だからせめて今だけは、記憶に浸って微睡む。
掴んだ金網はあんなにも細くて、脆かった。その先に見える鉄柵は、きっともう少し堅牢なのだろう。
少し前に、怒りに任せて掴んだ肩を思い出す。金網はそれに似ていた。くすんだ瞳も、汚れた手も、強いくせに薄っぺらい体も、鉄柵の向こうではマシに見えるはずだ。
やはり伸ばし続けるのがしんどくて体を縮める。今日は久々によく眠れる気がした。
◆
ざあっと砂を押しのける波を見て、ふとそんなことを思い出した。あの頃、足が千切れるほど走って辿り着いた壁の向こうに立っている。今もなお四方を壁に囲まれ続けるのは変わらない。それでも、あの日の自分を自分だけは褒めてやりたい。
隣でふわりと影が揺れる。顔を上げると、弓弦と目が合った。傾いた夕陽を反射して、きらきらしている。
「……そろそろ、戻らないと」
迷うように彷徨った瞳が、海を見る。真っ白い指先は、血色よく色づいていた。茨は何か言おうと口を開いて、閉じる。それからさっと周囲を見回して、細く息を吐き、その手を掴んだ。
「あんたの雇い主は、たった五分で二時間も正座させるような上官なんですか?」
覗き込んだ弓弦の目は、記憶と同じく、すこし驚いたように瞬いた。それから、やわらかく細められた。
「違いますよ」
「そうでしょう。だから、今日くらい……」
「二時間サボったから、二時間怒られたんですよ」
茨の言葉を遮って言ったそれに、思わず言葉を失して沈黙を作る。そして、今度は茨が呆れたふうに息をついた。
「ほんっと、めんどくさい……」
「あなたに言われたくありません」
言い返す代わりに手をぐっと握ったら、弓弦に腕を引っ張られる。そのまま視界が傾いて、茨の背中が砂に埋もれた。巻き上がる砂塵のはざまに見えた弓弦は、あの日にきっと見たかったような、優しい顔で笑っていた。
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