心を手折る

 

 ふと細身のハンドル越しに、今しがた0時を回ったと気が付いた。詰まっていたスケジュールに疲弊した目を強めに瞑って、一瞬だけの休息を得てから、茨は引き上げていたサイドブレーキを落とした。
 回り始めたエンジン音と、小さく流したラジオだけをBGMにした車内は静かだった。閑散とした深夜の道路を、気持ち深めにアクセルを踏む。口の中でもたつく言葉たちに気を取られ、だんだんと速度がやや超過しかけたところで、視界の隅っこを藍色が動いた。
「……速度を落としなさい」
 低くかすれた声に、反射のように脚へ込めていた力が緩む。サイドミラーで確認した背後には、対向車線を通り過ぎて行った軽自動車だけがあった。
 それからすぐに開いた口からは、考えていた皮肉が躊躇して、ちょっとの空気のみが漏れる。ちらと横目で確認した助手席のほうには、やはり後頭部しか見えなかった。茨の口は悪態の代わりに溜息をこぼして、それから「すみませんね」と小さく呟くだけにした。

 小さな画面に映る街の縮図を見ながら、黙って車線を変える。隣からは「あ」と声が零されて、しかし抗議の句は飛んでこなかった。そのまま高速に乗って、なだらかにアクセルを踏み込む。エンジンの音がラジオをかき消し始めて、そこで小さく鼻を啜る音が聴こえた。
 また横目で隣を見て、茨は助手席の前面を指でたたいた。
「ティッシュありますよ」
「……そうですか」
 はぁ、と溜息が返ってくる。轟音に紛れて「無神経」と呟くのが茨の耳にもはっきりと聞こえていたが、聞こえなかったふりをした。
 もぞりと動いて、細長い指先がティッシュを抜き去る。無遠慮に鼻をかむ音がして、今度は茨が「配慮のない」と呟いた。彼からの反応はなかった。
 交通のまばらな高速道路を飛ばしながら、目的地を確認する。いつの間にか降りる地点を通り過ぎていた。「あ」と小さく零したのが聴こえたのか、隣からまた溜息が投げられた。
 次のインターチェンジで高速を外れ、料金所を通り抜ける。初めて降りる場所だった。隣で動く気配がして目を遣ると、ずっと背を向けていた弓弦の横顔が見えた。
「……どこまで行くつもりですか」
「えぇ、今更ですか?」
 馬鹿にしたように笑った茨を弓弦は黙ってにらみつけ、上着のポケットからスマホを取り出す。数度画面を指で押して、それからはっと息をのむ。茨が口を開くより先に彼が顔を上げた。
「今すぐ引き返してください」
「はい?」
「早くしなさい、茨」
「急に何を。普通に嫌ですけど、ここまで来て……っ⁉」
 運転中の腕をつかまれ、とっさにブレーキを踏み込む。周囲に走行中の車両がなかったことが救いだった。
「ちょっと待っ……おい、危ないって!」
 無理にハンドルを奪おうとする腕を押し返しながら、ダッシュボードに投げ出された彼のスマホを見る。電源が落ちていた。弓弦の取り乱した理由をすぐに察し、あきれたような、イラつくような気分になった。
 どうにか背中を盾にハンドルを守っていると、弓弦の青ざめた頬に涙がぽろっと落っこちた。びっくりした顔をしたのは彼の方で、すぐに俯いてぐずぐず鼻を鳴らす。
「あーもう……」
「……もし坊ちゃまからの連絡があったら」
「来ないって言ってたのはあんたでしょうが」
 助手席側からティッシュを引っ張り出して、俯く顔面に押し付ける。すると一瞬呻いてから、力の抜けた手がそれを受け取った。
「あんた、どうして俺の車に乗ってるんでしたっけ?」
 呆れた調子で尋ねる茨に、彼は答えず目をそらす。
 苛立ちに任せて髪を掻き乱して、茨は自らのスマホから充電を抜き去る。自由になったケーブルを差し出せば、彼も無言で受け取った。
「ちょっと不用心なんじゃないですか?」
「荷物置き場に細工するほど暇なのですか」
 わざとらしく問いかける茨に、弓弦は濡れた声のままでそう言った。それから何の躊躇いもなく充電器を挿す。
 何で知ってるんだよ、と飛び出しかけた疑問を素直に呈すのは悔しくて、飲み下し舌打ちに変える。それから改めてハンドルを握りなおした茨は踏み込んでいたブレーキから踵を離した。

 見慣れない住宅街を走行しながら、帰宅途中の茨とすれ違うように走っていた幼馴染の姿を思い出す。一瞬だけ見えた顔に混乱する脳が、咄嗟にパーキングを探したのも記憶に新しい。捕まえた手はあまりに冷たくて、振り向いた泣き顔は茫然としていて、よもや世界は今日までなのかと本気で考えたのも覚えている。
 そのうえ、苦心して助手席まで引きずり込んだそいつが「帰りたくない」なんて蚊の鳴くような声で言うものだから、思わず考えなしに車を出した。理由を聞きもせずに、逸る感情のまま連れ出してしまった。知らないはずのその姿が、なぜだか昔の弓弦と重なって見えたせいかもしれない。
「坊ちゃまとやらはいいんですか?」
「しばらくお役御免だそうですから」
 珍しく純粋な親切心で尋ねたら、ぶっきらぼうにそんな言葉が返ってきた。手足を投げ出してシートに寄り掛かる背中は、嫌味を言う気力も削げるほど投げやりだった。
 あの純粋な愛そのもののような少年が、本気で要らないと言う訳がない事くらいは茨も理解していた。十中八九、弓弦が一人で勝手に拗れたに違いない。存外鋭い彼が、様子のおかしい弓弦に気付いて暇を出したとでも考えるのが自然だ。
 見慣れない小さな背にむかついて、なるほど捨てられちゃったんですね、とでも言ってやろうかと思ったが、喉元までやってきたところで消えていくので諦めた。

 酸欠気味の呼吸のあとで、弓弦がぽつりと言葉を零す。
「わたくし、何をこんなに泣いているんでしょう」
「……それ本気で言ってます?」
 流石に呆れて眉を顰めれば、目線だけが返ってきた。視線を交わせば、丸い瞳孔がそこにあった。今しがたの言葉が本気と分かって、思わず眉間を揉む。
「あなたには分かるとでも?」
「分かりませんね、あんたみたいな変人の事は」
 すぐさま伸びてきた手に頬を摘ままれそうになり頭をそらす。諦めたらしい手は八つ当たりに肩を小突いて、それから行儀よく自らの膝に戻っていった。
 出発点からは、もうずいぶんと遠い場所にいる。見たこともない店舗が通り過ぎていく。弓弦はまだ、電源の切れたスマホを握りしめていた。
 どうしたいんですか、とは今更聞かなかった。自分の感情すら理解できない人間に尋ねても仕方がない。静かになった弓弦を横目に、茨はカーナビを動かす。近くなった目的地を、うんと遠くへずらしてやろうと思った。そうして伸ばした指は、少しの逡巡のあとで、見慣れた街を指した。
 二度左折したところで、弓弦がカーナビに目を遣る。茨を見る視線に、戸惑いが混ざった。そう気が付いて、茨は大袈裟に肩を竦めるふりをした。
「引き返せ、と言われた気がしたんですけどね?」
「……ええ」
「自分としてはどこまででもお付き合いするつもりだったんですよ? 行けだの戻れだのと、内心鬱陶しくは思ってましたが!」
「茨」
「はい、はい? 何でしょう、今度は?」
 苛立ちのままに滔々と吐いた言葉を、静かな声が遮る。茨は戻ってきたいつもの調子で笑って、弓弦を見遣る。彼は至極真面目な顔で、その笑顔を見ていた。
「あなたの用事はいいんですか?」
「は?」
「設定していた目的地ですよ。用事があったのでしょう」
「……はあ?」
 弓弦の言葉が本気で理解できずに、茨は思いっきり顔を顰めた。それを認めながら、なおも弓弦は続ける。
「先ほどは取り乱しましたが、ここまで無理に付いてきたのはわたくしです。それくらいは――」
「用事なんかありませんよ」
 真剣に話す頓珍漢な言葉を、吐き捨てるように遮った。え、と小さな声が零れて、それから会話が途絶える。
 しんとした車内では、穏やかなパーソナリティの声が場を繋いでいた。

「……下見にでも行くのかと」
 ぽつりと呟かれた言葉に、適当にセットしていたアミューズメント施設を想起する。もう名前すらも思い出せないそこは、確かに現在地から数分の場所にあった。茨は黙って首を振る。
「それなら、どうして……」
 その先は続かなかった。それでも、茨には何となく続きが分かって、高速に乗る前にブレーキを踏み横道につけた。
 サイドブレーキを上げて、シートベルトも外して、茨は真っ直ぐ弓弦に向き直る。目を合わせると、弓弦は居心地悪げに指を組み替えた。
「もう二時半なんですよ、弓弦」
「はい……?」
「あんた、何時に乗ったか覚えてます? もう四時間ですよ。何の用事もない辺境の地に、良く分からない我儘を聞いて、貴重な休日を消費させられているんです! あぁもったいない!」
 嫌味ったらしくも明白な文句を言い始めた茨を、弓弦はただ、様子を観察するように見つめる。茨はそれを睨むように見つめ返した。
「あんたじゃなかったら、とっくに帰ってる」
 動きの少ない瞳孔が、わずかに揺らいだ。二人の間を通り抜ける静寂は、明るい歌声が緩和していく。頭の隅のほうで、どこの新人だっただろうかと考えるが、思い出せなかった。
 弓弦は黙ったまま、半開きになっていた口を閉じて、またしても俯いた。暫く藍色のつむじを睨んでいたが、意固地にも目を合わせようとしない姿勢に、はあと息をつく。
 仕方ない。どうせ。そう思いながらラジオの音量を一つ上げたところで、ず、と鼻を啜るのが聴こえた。
「……何でまた泣くんだよ」
「知りませんよ」
「あー、ちょっとは考えるふりくらいしてくれませんかね?」
 すっかり色の濃くなったハンカチを握りしめて、嗚咽を飲み込む。そんな姿から視線を外して、宙ぶらりんになっていたシートベルトを引っ張った。
「何があったか知りたくもないですけど、ちゃんと仲直りして下さいよ。仕事も詰まってるみたいですし」
 返事はなかった。代わりに控えめに鼻をかむのが聴こえて、それからサイドブレーキを掴んだ。

 古臭い民家の隙間を通って、知らなかった景色が早足に消えていく。弓弦が茨のよれたシャツの裾を摘んで、帰りたくない、と呟いた。茨は聞こえないふりをした。
「どうして俺なんですか」
 流れだした新人アイドルの声を縫って響く、独り言よりも小さな発声を聞き取る。茨は片眉を上げて、隠しもしない舌打ちをした。
「それこっちが聞きたいんですけど」
 大通り前の交差点を自転車が通り去っていく。見上げた空は、白み始めていた。

 

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