ホットミルクと睡眠薬

 

 眠れない。
 目を瞑り、意識を深いところへ沈めようと試みて、少し経つとそんな言葉が思い浮かんだ。薄呆けた視界に映る天井は沈黙したまま、薄目を開けるジェイドを見下ろしていた。
 夏らしく通気性の高いものに取り換えられたシーツに腕を置くと、重力を押し退けて身を起こす。しんとした夜の空気のなか、窓の外ではこぽこぽと泳ぐ魚の吐息が響いていた。
 ベッドに座ると、隣のベッドで眠っているフロイドの姿が見えた。暗がりの中でも、その体が本来取るべき姿勢とは逆さまになっていることが分かる。蹴ったのか、薄い毛布も床の上で広がっている。ジェイドはややぼんやりとした頭を起こしながら、それを眺めた。音を立てないように気を付けたとはいえ、目の前で警戒心の塊であるべき生き物が気にせず伸びている様というのは、何とも不思議だった。
 少しずつ醒めてきた。そう判断すると、ジェイドは静かに立ち上がる。床に落ちた毛布を拾って、きっちり畳むと、眠る兄弟の足元に置いた。フロイドはその拍子に「うーん」と微かに唸るような寝言を言ったが、その目は閉じたまま、気持ちよさげに眠っている。
 ジェイドはそっとそばを離れて、もう一度、窓の外に視線を向ける。深海は静かにそこにあった。それを確認すると、踵を返して部屋を出た。

 深夜と呼ぶにふさわしい時刻であった事も手伝って、すでに寮はがらんとしていた。廊下を進んでも、自らの足音以外には何も聴こえない。正確には、ジェイドの耳には微かな物音や寝言であろう発声は聞こえていたが、どれも意味の無い音だ。
 廊下を進んで、談話室に足を踏み入れる。僅かな照明が静かな部屋を照らしているが、それだけだった。誰もいないソファに腰を落ち着ける。それから、ジェイドはだらりと体をソファに投げ出した。
 『不眠症』という病は海では存在しなかった。していたとしても、ジェイドには縁の遠い存在であった。眠れない事が問題になろうとは、人間の身体を得るまで考えもしなかった。額に手を当てると微かな熱を感じる。ぐらぐらしてきた視界を、一度瞼で遮った。
 ここ数日、ジェイドはうまく睡眠をとることが出来ずにいた。以前から作業に没頭すると徹夜をするきらいはあったが、眠れないのはそれとは訳が違う。調整もできず、漫然と体調が崩れていく。最初は睡眠の必要が失われたのかと思い、仕事や趣味に眠れない夜の時間をあてて充実させていたが、段々と生活に支障が生まれてきて初めて異常事態を知った。
 環境が変わると眠れない。疲れすぎて眠れない。様々な原因を耳にしたが、ジェイドはどれも違う気がした。フロイドもたまに、眠れないからと夜中に中庭で走り回ったりして時間を潰している。だから、これは以前からの生活習慣の問題ではないかと推測している。それならば対処のしようはないし、しばらくすれば気絶するようでも眠れてしまうため、今や解決を諦めている状態だ。
 いつまでも訪れない睡魔とやらに嫌気が差して、目を開ける。相変わらず、部屋は薄明りだけが座している。またゆっくりと体を起こして、ソファに座った。そして、ぼんやりと焦点を正面へ合わせたところで、やっとその存在に気が付いた。
「……すごい寝相ですね。意外と」
 いつの間にか座っていたアズールは、気が抜けたジェイドの顔を見ながら言った。ジェイドは状況を反芻して、それから、さきほど不思議だと思った兄弟のことを思い出した。
「アズール……こんな夜中に、何をしていらっしゃるんです?」
「こっちの台詞なんですが。僕はただ目が覚めてしまったので、何か飲もうかと思ったんですよ」
「なるほど。邪魔をしてしまったようで、申し訳ありません」
「……そうですね」
 欠片も気持ちの籠らない謝罪の句に眉を上げながら、アズールは首肯する。ジェイドは姿勢を正しながらアズールの方を観察した。アズールの顔は、少し疲弊しているようだった。
「ジェイド、お前こそ何を……」
「もしかして、アズール、眠れていないのでは? 疲れた顔をしていますよ」
 アズールの質問に被せる様に、思いついたばかりの仮説を投げ掛ける。悪びれた様子もなく微笑むジェイドに、アズールは軽く舌打ちした。
「人の話を遮るな。まったく……その言葉、そっくりそのままお返ししますよ。ジェイド」
「おや」
「気付かないとでも思ったんですか?」
「ええ。顔には出ない方だと思っていました」
「出てませんね、顔には」
 簡潔に返して、アズールが座り直した。その目にはこれといった感慨が含まれていない。それを見て、ジェイドには、彼が本当に何の気なしにここにいるのだと分かった。観察するような鋭さも、闘争に積極的なしたたかさもない、穏やかな冷たい海のようだ。
「お前のそういう様子を見れば、僕じゃなくても分かりますよ」
「ああ、確かに。こんな場所で寝る、だなんて、僕らしくありませんでしたね」
「……本当に疲れてるみたいですね」
 ジェイドの返答に、アズールは軽く眉を寄せる。はあ、とアズールが溜息をついた。壁の水槽からこぽこぽと聴こえてくる泡の音がアズールを揶揄っているように思えて、面白そうにジェイドが微笑む。それをじろりと睨んでから、彼は腰を上げる。
「眠れない時は身体を温めるのがいいみたいです。ついでにお前にも何か淹れてあげますよ」
「珍しいですね。では、お言葉に甘えて」
「別に、機会がないだけですから」
 ジェイドも彼の後に続き、ソファから立ち上がる。その時、すこし目の前が眩んでよろめいた。脚が縺れて傾いたジェイドの腕を、ちょうど振り向いたアズールが慌てて掴んだ。
「うわ、大丈夫か?」
「すみません。少し立ち眩みがして」
「……もう睡眠薬を作った方がいいですか?」
「まだ大丈夫ですよ。それに、アズールも少しふらついてましたよね」
「目敏い……いえ、さすが良く見てますね」
 のぞきこまれて、アズールは支えていた手を離して目を逸らす。誤魔化すように服の裾をはたきながら、カツカツ、と靴の音を鳴らしながら廊下を歩いた。

 ◇

 寮服のコートを静かな夜にはためかせながら歩くアズールの背中についていく。ジェイドはわざわざ着替えてきたのだろうか、と内心考えながらも、黙って歩く。二人分になった足音の他には、やはり何も聴こえない。夜はまるで深海のようで、なんだか心が落ち着いた。
 アズールはラウンジの鍵を取り出して、重い錠を回す。真夜中に、私用のために開いているのだと思うとわくわくする。ジェイドはそういう子供っぽい気持ちを隠しながら、誰もいないラウンジに踏み入れた。
「カウンターのところにでも座っていて下さい」
 いつもの様子でアズールは振り向いて言う。ジェイドは頷いて、言われるままカウンターの一席に腰掛けた。
 カウンターに腕を乗せて、姿勢良くジェイドは陳列されたボトルを眺める。その横を通って、アズールはキッチンへと入っていった。
「アズール、茶葉の棚は冷蔵庫のそばの……」
「分かりますよ! 新手の嫌味ですか、それ」
「いえいえ、単なる親切心ですよ」
 壁越しに掛け合いながら、ジェイドは早くも暇を持て余して席を立つ。それからカウンターの中に回り込んで、並んだボトルを手に取った。
 量を確認して、営業中にずれたのであろうボトルの位置を軽く整える。それをいくらか繰り返したところで、キッチンの方から顔を出したアズールと目が合った。ジェイドがにこりと微笑むと、アズールは怪訝にそれを見た。
「座っていて下さい、と言った気がするんですが」
「少し目に付いたものを直していただけですよ」
「数分も休憩できないんですか? だから眠れないんじゃないのか、お前」
「そんな。貴方のために働いているというのに、ひどい言い草です」
 ふざけるジェイドの肩をアズールは黙って押し、カウンターから追い出した。特に気にもせず再び席に着いたジェイドの前に、アズールがひとつ陶器のコップを置いた。「ありがとうございます」と言いながら、それを持ち上げたジェイドは、中身を覗き込んで瞬きした。
「これは……ホットミルクですか?」
「そうですよ。安眠効果があるらしいので」
 なるほど、と軽く頷きながらジェイドはコップを口に運ぶ。支えた手のひらから熱い温度が伝わってくる。火傷しないように気を配り、少しずつ唇をつけた。ぺろりと舐めた唇はすこし甘かった。
 かたんと物音がして顔を上げると、アズールが隣に座っていた。彼もジェイドと同じように、慎重にコップの中身を飲んでいる。ふと目が合うと、アズールはコップを置いた。
「どうですか?」
「甘くて、美味しいですよ」
「それは分かってますよ。そうじゃなくて、眠れそうですか?」
「うーん……」
 問いかけられて、ジェイドは改めてもう一口飲む。それから、苦笑いして首を傾げた。それでアズールには伝わったらしく、彼もまた首を傾けて息をついた。
「体を温める、というのと……あとは軽い運動が効果的だとも聞きました。まだ眠れそうになければ、少し散歩してみます?」
「ふふ。怒られなければいいんですが」
「もちろん、バレないように行きますよ」
 飲み終えたコップを片付けると、アズールはドアの方へ向かう。しかし立ち止まって振り向き、椅子から降りるジェイドをじっと見る。
「……なんでしょう?」
「いえ。転げ落ちないか見ていただけです」
「それはそれは……」
 問題なく歩き始めたジェイドからは目を離して、今度こそアズールはラウンジを出た。

 ◇

 鍵をかけ直して、また静かな廊下を歩く。目の前でひらめくコートが大きな魚の尾のようだ、と考えて、ジェイドは海の中にいる心地になる。
 故郷を感じる度に、眠れない現在の状況が当たり前に思えてしまって、どうにかしようという気が失せていく。しかし、なんだかんだと前を行くアズールのおかげで、今日は思考を止めずに済んでいる。
 こっそりと鏡から鏡舎に移動して、校舎を抜け出す。周囲の気配を辿りながら、足音を殺して歩く。それは海中での狩りに似ていて、眠たくなるどころか目が冴えてしまう。ジェイドが思わず笑みを浮かべたところで、アズールも同じ風に思ったらしく、複雑げに口角を下げていた。
 開けた廊下から外に回って、誰もいない校舎を抜けた。中庭に着いたところで、二人はやっと足を止める。まずアズールがベンチに座って、それからひそめていた息を吐き出した。
「こんな警備態勢で大丈夫なんですかね、この学園は……」
「内部からの敵は想定されていない、という事でしょう。きっと」
 ジェイドも隣に座って、息をつく。夜の風はひどく冷たく、せっかく温めた頬を冷ましていく。それでも、空気は澄んでいて心地良い。見上げると、綺麗に星が見える空があった。
「……夢でも見るんですか?」
「え? 夢……ですか?」
 唐突なアズールの問いかけに、ジェイドは星空をながめていた目を隣に向ける。
「眠れないんでしょう? 不眠の原因には、環境の変化や疲労が関わったりするそうですが、お前がそういうものに影響されるとは思えないので」
「それは……褒め言葉として受け取っておきますよ」
「そうして下さい。……それで? どうなんですか?」
 アズールからの視線を受け止めて、ジェイドは考える素振りをした。夢が何かは知っているが、どうも眠った時に映像を見た記憶がない。ジェイドは素直に首を振った。
「見ていないと思いますよ。それに、悪夢を見たから眠れない……というのもしっくりきませんし」
「それもそうですね。まあ……フロイドもたまに眠れないと騒いでいるし、以前の生活リズムが残っていると考えた方がいいですね」
「ああ、僕もそう思います」
 肯定しながら、ジェイドは再び星空に視線を返す。星の欠片が燃え、きらめいている。はっきりと、その輝きが目に映っている。まだ眠気は訪れていないらしい。
「だから、そういうものとして受け入れた方が良さそうです。いずれ、体が慣れていくでしょうから」
「生活に支障があります。放置というわけにはいかないでしょう」
「では、やはり睡眠薬を作りましょうか」
「そうします」
 そう言って、アズールはベンチから立ち上がる。見上げていたジェイドの視界にその姿が映った。ジェイドは服を整える様子をぱちぱちと瞬きをしながら見つめて、ふっと笑った。
「何を笑ってるんです」
「いえ、相変わらず行動が早い人だと思いまして」
「早い方がいいでしょう」
「悪いとは言っていませんよ」
 くすくすとひとしきり笑った後、ジェイドもベンチを立った。疲れたような緩い動きをしながらも、アズールが支えるようにジェイドの腕を掴む。
「アズール、いちいち持たなくても僕は転びませんよ」
「分かってますよ。うるさいな」
「疲れているからといって、八つ当たりはやめてください」
「嫌なら疲れた顔をしないでくださいよ」
「横暴ですねぇ……」
 ぱっ、とはたくようにアズールが手を離した。そのまま、また来た道を引き返し始める。ジェイドが後に続くと、アズールが振り向いた。
「どうしました?」
「……良く考えたら、夜は錬金術室が使えません」
「ああ……」
 顔を見合わせて、溜息をつく。しんとした夜風がからかうように吹き抜けていく。崩れた髪を直しながら、アズールが口を開いた。
「どうせ眠れませんし、もう少し散歩してから戻りませんか?」
「そうしましょうか。眠れるかどうかは分かりませんが……」
 満足気に頷いたアズールの目をじっと見て、それからジェイドは微笑んだ。
「貴方とこういう風に過ごすのも、案外楽しいですから」
「……案外、は余計ですよ」
 アズールがふいと顔を逸らした。それから覗き込もうとするジェイドから逃げるように、さっさと中庭を歩き始めた。
「僕も、嫌いじゃないですよ。夜は静かで落ち着きますし」
「分かります。海の中のようで、懐かしい気もします」
「ああ……なるほど。それなのに温かい場所で眠っているから、違和感があるのかもしれませんね」
「違和感……」
 さくり、と靴が草を踏む。海の中に似ているのに、土の匂いがする。感覚と実際の乖離が、確かに違和感とでも呼ぶべきものを生んでいる。そう気が付いて、ジェイドは「確かに」と頷いた。
「では、僕達の不眠は『環境の変化』に当て嵌まりそうですね」
「……そうなりますね」
「そういうものに影響されるとは思いませんでしたね」
「ああもう、うるさいな……」
 潜めた笑い声に、アズールの足音がやや乱暴になる。足元の土は素直にへこんで、彼の足跡を残した。
「貴方がそうやって、足跡を残す光景にも慣れたように……この違和感も、そのうち無くなるでしょう。なので、それまでは睡眠薬でしのぐという事で」
「……良く考えたら、睡眠薬というのも不健康じゃないですか?」
 ぼそりと呟かれた声に、ジェイドは続ける言葉を切る。それから、視線を落としたアズールを見遣って、ああ、と言う。
「そうですね。確実に効き目があるとも限りませんし」
「そうでしょう。だから……」
「ええ。今夜のように、ホットミルクを飲んで、少し散歩して、眠れるか試す方がいいと思いますよ。僕も」
 足音が止まって、静かな風の音が響いた。海と同じく暗く冷たいはずなのに、こぽこぽとした泡の音は聞こえない。そんなことを考えながら、ジェイドはアズールの方を見る。目を泳がせて中途半端に口を開くさまが見えた。
「次はフロイドも誘ってみましょうか」
「……そうしてください」
 ふわりと揺れた草木から、地上の香りがした。照れ隠しに舌打ちをしたアズールがジェイドの手を掴んで、足跡をつけながら中庭を歩く。ジェイドはそれをくすりと笑って見つめて、からかいまじりに手を握り返して、それから小さくあくびをした。

 

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