まだ止まない

 

 窓の外では未だ雨が降り続いている。地面を打って跳ねる水滴の勢いは増すばかりだ。茨は忌々しくそれを一瞥し、すっかり重くなったタオルで毛先を絞る。濡れた感触の鬱陶しさに溜息を零していると、正面から小さく笑われた。
「……何ですか」
「いいえ、何でも」
 不機嫌を隠す事もない茨の問いかけに彼は首を振った。白いティーカップの取っ手を指先で摘まんで持ち上げ、明らかに笑っている口元を隠す。湧き上がる苛立ちに任せ、革靴の先で脛を狙えば、涼しい顔で避けられた。
 そもそもは忙しさにかまけて天気予報のチェックを忘れたせいだった。次いで、鞄を変えた拍子に折り畳み傘を入れ忘れた事、それから明らかに混み合ったカフェへ逃げ込んだ事。原因を羅列しながら水を吸ったタオルを鞄に突っ込む。自らとは対照的に一滴の雨も浴びていない弓弦を睨んで、それからコーヒーカップに口を付けた。
「坊ちゃまとやらのお世話はいいんですか? 今日は」
「ああ、今は単独でのお仕事をしている真っ最中ですので。すぐお迎えに上がれるよう待機中です」
「ふーん……」
 ちらと弓弦の手元へ視線をやる。ティーカップの隣には、伏せた端末が置かれていた。周辺のビルだろうかと考えて、彼らの行動の把握漏れも原因のひとつだと気付く。また苛立つ気持ちを抱えつつ、水滴の付いた眼鏡のレンズを拭う。
「遂に捨てられたのかと思いましたよ」
「茨こそ、こんなところで油を売っていてもいいのですか? 最近はずっと忙しそうに動き回っているようですけれど」
「分かって言ってますよね?」
 茨が雨の打ち付けるガラスを指で示すと、そうでしたと白々しく言って微笑む。
 もう一度、今度はカップに口を付けたタイミングで脛を狙ったが事も無げに避けられた。思わず舌打ちをしたら、またくすりと笑われる。拗ねた様な気分で、まだ冷める気配もないコーヒーを飲む。そのまま頬杖を付くとすかさず「行儀が悪いですよ」と小言が飛んできたが無視した。

 それから、暫くは静かな時間だった。雨の最中にある往来を忙しく通り過ぎる人々を眺め、時折、思い出して端末を開き連絡の有無をチェックする。ついでに天気予報にも目を通す。雨はもうじき上がるらしい。しかし未だ鼓膜を打つ雨音は激しく、まるで止みそうにはない。
「なかなか止みませんね」
 ぽろっと零れたような言葉が聞こえて、うっかり自分の口から出た物かと錯覚した。しかしながら茨の口は閉じていて、声がした方角も真正面だった。視線だけ寄越してみれば、彼もまた端末を片手に窓の外を眺めていた。
「……予報では、もうすぐ上がるらしいですけどね」
「ええ、予報では一時間以内に晴れるようですね」
 本格的に信憑性を失いつつあるページをさっさと閉じて、そろそろ温くなってきたコーヒーを啜る。冷めても、インスタントよりは味が良い。鼻から抜ける香りを味わって、疲れ切った目を閉じる。何故だか今まで忘れられていた疲労感を思い出してしまって、軽く目頭を押さえる。
「……そういえば、目の疲れにも効くツボがあるらしいですよ」
「はい?」
「目の周りもですけど、親指と人差し指の間も目のツボだとか」
「へー、そうなんですか?」
 言われるままに指の間を軽く揉んでみる。すぐに効果を感じるとまではいかないが、確かにちょっと凝っている気がする。
「……あ。いえ、もうちょっと上の方ですよ」
「上ってどっちですか」
「人差し指の方……ああ、そうではなくて」
「ああもう、あんたがやればいいじゃないですか。ほらどうぞ」
 軽くなったコーヒーカップを退けて、木目のテーブルに自らの手を置く。半分以上は冗談でやった行動で、茨は得意の笑顔でそれを示す。しかし弓弦は一瞬だけ目を丸くして、それから小さく溜息をついて、丁寧に手を取った。
「えっ」
 その細長い指先が、茨の手のひらを柔く掴む。その繊細な力にぎょっとして、何か冷たいものが心臓を触った心地がした。茨は素早くその手を振り払い、口を衝きそうな感情に蓋をした。
「いやいや冗談ですよ! 教官殿のマッサージなんて、解れるどころか骨折するに決まってますから!」
「本当に折って差し上げましょうか?」
 凍り付きそうな笑顔から視線を逸らして、カップに残った最後の一口を飲み干す。それはすっかり冷え切っていた。ふと端末を見遣ったら、カフェに逃げ込んできた時から、もうすぐ一時間が経つところだった。
「……で、結局どこなんですか?」
「さあ? ご自分で調べて下さいまし」
「そうですか。まあ、その方が早いですね! 教官殿の説明は下手くそで分かりにく――痛っ!?」
 言い切る前に脛に鋭い痛みが走って思わず上体が崩れる。正しく弓弦に脛を蹴り上げられたらしい。軽く手で擦って犯人を睨むが、相手は我関せずと言った様子で連絡の有無を確認し始めた。
「……人の目があるというのに、こんな事をしていいんですか? 暴力行為を働いたなんてニュースになったら困るのでは?」
「誰も見ていませんでしたよ」
 顔も上げずに淡々と告げられた言葉に、嘘吐け、と思いながら周囲を見る。そして、小さく「えっ」と声を上げてしまった。あんなにも混んでいた店内は、もう随分と空いていた。
「茨」
「…………何ですか」
 店内を呆然と見ていた目を弓弦の方に戻す。耳元でずっと聞こえていた雨音は、いつの間にやら止まっていた。
「改めて聞きますが、あなた、こんなところで油を売っていてもよろしいのですか?」
 作った笑顔もなく、ただの問いかけが真正面からぽいと投げられた。茨は顔を顰めてそれを睨み付け、最大限、晴れた窓の外が見えないように顔を逸らした。
「あんたも大概ですよね。その性格」
 苦々しく呟けば、弓弦はわざとらしく微笑んで、当たり前のようにオーダーコールを鳴らした。店内に響いたチャイムに慌ててメニュー表を開く。彼の主人の仕事がどれほどで終わるのか、限りなく少ない情報の中から素早く推察を巡らせ、小さなフードメニューの欄を眺めた。

 

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