窓から微風が吹き付けている。煽られた前髪がふわりと浮き上がるほどの速度を感じて、ようやく安心に息を吐き出した。
外を通り過ぎていく景色は、どれもこれも見慣れない街だ。無計画に飛び出してきた今、この列車が何処へ行くのかすらも知らなかった。窓枠に寄りかかる僕と廊下を挟んだ隣の座席では、聞き慣れない土地の発音で、聞いた事のない街の名前を話していた。
きっかけは昨晩、今から数えて八時間ほど前の事だった。つつがなく授業を終え、ラウンジの業務に従事し、その報告を行ったのは夜中だった。昼も夜もない深海で生を受けた僕達は、惜しむように毎夜を消費する。夜に眠る習慣に未だ慣れていないというのも理由の一端だが、とかく昨日も同じだった。
光の差さない夜のVIPルームはひどく閑静で、彼がペンを紙に滑らせる音すら響いていた。静けさに一瞬、話すのを躊躇った僕を、彼は見て、その言葉を呟いた。
――好きなんですか、僕のこと。
その小さな小さな呟きは、昼間の教室や営業中にラウンジ内であれば聞き逃していた事だろう。きっと独り言であったのだとすぐに分かった。彼はしまったと顔に出して、それから一度咳払いをした。有難い事に、彼は無かったことにしようとしたのだ。すかさず僕はそれに乗って、聞こえなかったふりをして、淡々と報告をした。
しかし、それで終わり、と言うわけにはいかなかった。部屋に戻ったあとすぐに準備をして、フロイドにも言わず学園を出て、朝一番の列車に乗った。今から三時間前の事だった。
吹く風が潮の香りを含み始め、顔を上げれば、広く青々とした海原が眼下に広がっていた。きらきらと陽光を反射する海は、不思議なことに海中では感じたこともない眩しさを放っている。自然と目を細めてしまう。
彼の言う通り、僕は彼が好きだった。そう評して良いのかは未だ疑問だが、言葉として表すのなら最も近いと思っている。そして、それはもう数年にも渡って抱いてきた感情だった。
初めは好奇心だった。次は尊敬だった。その次は覚えていない。いつからか、気付けば彼の攻撃的で美しい瞳が好きになって、それから彼自身にすり変わった。眩しいくらいの、海の色。目の前に広がる景色と同じだった。
これを自覚した頃から、密かに決めていた事だった。彼にこの想いが露見したら、目の前から姿を消す。別に、彼が色恋を敬遠しているから、だとか、迷惑を掛けないように、なんて殊勝な理由はない。バレたら終わり。そう思っているだけだ。
走る景色は山間を追いかけて、海は遠く消えていく。チケットは最終まで買っている。一体どこまで行けるだろうか。金曜日の昼間の閑散とした車内で、ぽつりと考える。こうして本気で距離を離すのは、出会ってから初めての事かもしれない。いつも僕達が、煙たがる彼に付き纏う形で、関係は成立し続けていた。
なんとなくで列車を選び、当て所なく揺られて、それでも安心して息をつけるのは、彼が追いかけて来ない確信があるからだ。彼は僕達を受け入れているし、情を向けられている程度の自負はある。それでも、授業やラウンジを投げ出してまで、たった数日の放浪を許さないとは思わない。数日間の勝手も、たった数時間の説教で、彼は全て許してしまう。そういう人だ。
景色をただ見ているうちに、段々と日が暮れてきた。夕方の光が終わらない山道を照らしている。ふと、このまま一生帰らなかったらどうなるだろうかと夢想する。追いかけて来ないだろうとは予想するものの、何も思わないとまで卑屈にはなれない。
普段の生活の中では、恐らくいつも通りに彼は振る舞い過ごせるだろう。それは確信がある。しかし例えば、ふとした時に山を見て、僕を思い出してしまうかもしれない。山とキノコの話を繰り返す僕の事を、なんとはなしに思い出してしまうだろう。その時に万が一でも泣いてしまったら可哀想だから、やはりそれは出来ないなと思う。泣き虫な彼の涙は嫌いではないが、好きでもない。
今頃、学園では放課後を迎えるチャイムが鳴り響いている事だろう。真面目で努力家の彼はともかく、気ままな兄弟はやる気を失くしてサボってしまったかもしれない。だとすれば、そのお叱りを受けるのは僕になるだろう。もし戻る日までに彼がこの事を忘れていれば怒られずに済むな、と考えた所で、ふと気付いた。
僕はたかが数日でこの想いを綺麗さっぱり捨て去ろうとしているが、それは可能なのだろうか。何年間も抱えた爆弾が、引火せず穏便に始末出来るものだろうか。
もしかしたら、本当にもう戻る日は来ないのかもしれない。これがこの心から整理をつけて無くしてしまえるまでは、顔を合わせないと決めていた。合わせる顔がない、とも言える。彼はきっと、気にしていないと思っている。僕が好きだと告白しようが、一度顔を顰める程度で終わる。あまり変わらない態度で僕に明日の仕事を振るだろう。でも僕には、同じ事が出来るわけではないから、こうして逃避するのは間違った選択ではないと思うのだ。
どんどん日は落ちて、再び夜が訪れる。太陽の代わりに昇った月はぼんやりとした光で暗がりの山を照らす。いつもならラウンジの締め作業を行い、報告を始める時間だ。昨晩の事を思い返しながら月を見上げる。そんなに僕は分かりやすい態度であったろうか。言葉にせずとも、この好意は伝わってしまった。自己満足の献身が、それを明け透けにしたのなら後悔のしようもない。
一日間、日々行動を共にしている二人と離れて思う事は、僕達に互いは必須ではないという当然の事実だ。一人で居ようと僕達は生きていけるし、寂しさは多少あれど、永遠の別れでもないなら悲しむ事も無為である。例えそうであったとしても、永遠に共にある事も有り得ないのだから、タイミングが早まっただけだと考えるだろう。僕達はそんな生き物なのだから。
夜空を泳ぐ星が瞬いている。そういえば、僕は星を見る事が好きだと言った事がある。もし彼が覚えていたなら、僕がいなくなった時、星を見上げて思い出す事もあるのだろうか。しかし、何だかそれは面白い。まるで僕が星になってしまうみたいだ。
少しだけ寒くなって、ようやく僕は寄りかかっていた窓を閉めた。気付けば指先が凍えている。行き先は北だったのかもしれない。外はまだ吹雪いていないが、それくらいの冷たさだ。
防寒具などの用意はもちろんしていない。そもそも、この程度の寒さで凍えたりはしない。しかし、また暇で取り留めのない頭の中は、もしも、を考える。
万が一、僕が彼の前から姿を消してそのまま死んでしまったら。何だかんだと優しい彼は悲しむだろう。追わなかった事を後悔もするかもしれない。それから、僕を恨んだり、憎んだりする。骨を見つけてくれたなら、きっと弔ってくれるだろう。
そこまで考えて、ああよかった、と思った。もし僕が好きだなんて伝えていたら、きっと優しい彼は僕の遺骨から動けなくなってしまっただろう。やはり言わなくて正解だ。そんな枷は僕達に必要ない。ふわふわ漂う泡のような関係性であるべきだ。
ふと気が付けば、目の前に朝日が差していた。いつの間にかうたた寝をしていたらしい。もうすっかり朝の様相に変わった景色は、見事な雪化粧だった。少しだけ見慣れたその色に、自らが乗った列車の行き先を知った。目前に聳えるのは名峰、モルン山である。
学友と過ごした思い出を頭で再生しながら、今度こそ一ヶ月間の滞在をしても良いかもしれない、などと画策する。美味しいアップルパイを山ほど食べて、雪山を心ゆくまで堪能して、そうしている内に無駄な事など綺麗さっぱり忘れる筈だ。様々なレシピを覚えて帰れば、彼だってそうは怒れない。後付けながら、完璧な計画だ。
列車が揺れて、終着駅を告げる。僕は足元に置いていた軽い鞄を持ち上げて、丸一日間過ごした列車を立った。
元より田舎で閑静な駅のホームには、誰もいない。澄んだ空気だけが僕を歓迎している。蟠ったような心境を浄化する風を吸い込んで、僕は寂れた改札を通った。
「――やっと来ましたか」
しんしんと降る雪が、静けさを吸い込んでいる。その真っ白い景色の中に、異質な色が佇んでいる。
ぶわりと吹いた冷風に、彼は持ち上がった銀髪を鬱陶しげに押さえた。
「全く、待ちくたびれましたよ。魔法の鏡がない、元の生活に戻るのは大変そうですね」
「……どうして、ここに?」
当たり前にぶつくさと文句を言う、目の前の男に、僕はやっと絞り出した。彼は呆然と立つ僕を見て、それから、呆れたように息を吐いた。
「何でも言わないと分からないんですか?」
一歩を踏み出した彼の足元には、真新しい雪の足跡ができた。曇りがちな眼鏡を乱暴に拭いながら、彼が僕の方へ歩み寄ってくる。それは緩慢としているのに、何故だか逃げ出せなかった。
彼の手が、僕を掴む。アズールの目が、僕を見つめた。それだけで、僕は全ての考えが誤っていた事に気付いた。
「さっさと帰りますよ」
「一度だけ、登ってからではいけませんか?」
「駄目に決まってるだろう。この馬鹿」
制服のままの僕を、上着を纏ったアズールの手が引っ張る。彼の行き先には光が見える。あの地点が鏡で繋がっているのだろう。僕はせめてもの抵抗で、黙って接地したまま動きを固める。アズールはそれを苛立たしげに引っ張ったが、少しの試行のあと、溜息をついて終いにした。
「アップルパイだけですよ」
「え?」
「それだけ食べたら絶対に帰ります。いいですね」
手を離したかと思うと、アズールは懐に忍ばせていたマジカルペンを取り出して、軽い魔法を込めた。ふわりと僕の周囲に光粒が散って、霧散すると同時に、着慣れた防寒着が肩に掛かった。
手袋越しの彼の手が、少し冷えた僕の手を握る。乱暴なようで丁寧に引っ張る彼の背は僕よりも小さいのに、遥かに強く見える。
「いくら入ってたかな……」
ぼそりと呟いたその声が、あまりにも優しいものだから、僕は衝動的にその手を振り解いて逃げ出そうとした。しかし見計らったようなタイミングで掴む力が強まって、機を逸する。
ちらと彼が僕の方を見る。その目が一瞬丸くなって、それから噴き出すように破顔した。
「はははっ、なんて顔してるんですか! お前の困った顔を見るのは気分が良い!」
ああ最悪だ、と思ったのはその言葉のせいじゃない。際限なく膨れ上がる感情と、温度が伝えてくる彼自身の情で頭も心臓がパンクしそうだった。
出来ることならば今すぐに手を離し、今度こそ鏡を使ってでも遥か遠い場所に消えてしまいたかった。しかしながら僕は、好き好んで無駄な行動をしたくはない。
たった一言で僕の数年来の思考回路を何もかも突き崩してしまった男の事だ。生半可な計画では、その執着から逃れられる事は無いだろう。臆病さも恥ずかしさも耐えきれなくなる前に、どうにか彼を欺ける策を考えなければならない。そんな日が来るかどうかは定かでないが、とかく今は晴れやかに笑って僕を引き摺る手を恨めしく睨みながらも、その温度に付き従うほかないのだ。
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