風邪薬

 

 最初は些細な頭痛だった。過ごし慣れた自室で天井を目にした時間から、それを自覚していた。しかし体を起こし、クローゼットを開くまでの間に何ら障害を感じなかったから、特に兄弟へすら言わずに部屋を出た。
 いつもと変わらずあくびを繰り返すフロイドと並んで歩き、鏡舎の手前でアズールと合流した。
「おはようございます」
「ええ」
 腕時計を眺めながら壁に背を預ける姿は如何にも神経質そうだ。挨拶を交わし合うと、鋭さを混ぜた眦が僕達を見て、僅かに眇めた。
「どうかしました?」
 探る視線が気になり問いかけるも、彼は「いえ」と短く応答して背を向け、鏡舎へ踏み出していた。その頃には、小さな頭痛の存在を忘れかけていた。

 この日、午前の授業は座学であった。眠たい雰囲気を纏う教室にトレイン先生の落ち着いた――午前中に聞くには些か退屈な――教鞭が流れる。
最前列で態度良く授業を受ける赤色の後頭部を眺めながら、あまり興味の無い内容についてノートに取る最中で、不意に痛みが再開した。
 一度ペンを置き、痛む顳顬に手を当てる。頭蓋の奥から滲み出すような痛みだった。一般的な頭痛の発生原因についてはある程度教わっていたため、記憶の中で列挙されたそれと昨日までの自らを照らし合わせていく。
 特別目を酷使したわけでもないし、寝不足になってもいない。色々と可能性を潰していった結果、手から伝わる熱っぽさも加味し、風邪であろうと仮定した。
「リーチ」
「はい」
 目を閉じている様を見咎めたのか、珍しくトレイン先生からの指名が掛かった。示された問いは予習範囲内であり、特に問題なく答え、ひとつの頷きを返され授業は続いた。

 昼休憩が訪れると、まず寮へと戻った。自室にはいつも内服薬が常備してある。大抵の風邪薬は食後に摂取する物が多く、常備薬も例に漏れずそうだった。適当にフロイドの菓子を貰い、それを食事として薬を服用した。
 疲れも痛みも酷くはなかったが、取り敢えずベッドに横になる。すると、丁度のタイミングで着信音が鳴った。昼をすっぽかした事でフロイドが送ってきたものだろうと思っていたら、相手はアズールだった。
『席は取りましたが』
 暫しその意味を考えあぐねて、『食堂にいますか』と続いたメッセージに得心する。彼は特別な理由が無ければ僕達と昼食を共にする。そして僕達が近くに見当たらなければ、律儀にも”特別な理由”の有無を確かめてくる。
 僕は少しだけ考えて、『自室にいます』と送信した。それから、言うつもりが特になかった『風邪を引いています』の文言をも付け加えた。それから是の返信を見た後は、着信音を切って目を閉じた。この時は頭痛以上に、風邪薬を服用した後の倦怠感に襲われていた。

 次に目を覚ましたのは、自らセットしたアラームの音だった。昼休憩は残り五分で終わる時間だった。体を起こそうとした時、朝の比ではない気怠さに全身が包まれていた事に気が付いた。しかし頭痛は大きく改善されて、熱も治まっていたため、取り敢えず崩れた髪型を直した。
 ベッドから立ち上がった時、ふと部屋のレイアウトに違和感を覚えた。観察して、僕の椅子がベッドに寄っているのが原因だと気が付いた。アズールから伝えられたフロイドが様子を見に来ていたのかもしれないと考え、気怠さを抱え部屋を出た。

 午後の授業は錬金術だった。もし体力育成であったなら、倦怠感と微熱を武器に休んでいただろう。大釜をかき混ぜつつ、いつもながら優秀に錬金を進めるペアのリドルを眺める。彼は不意に僕を見て、それから顔を顰めた。
「真面目にしてくれないか」
「おや、僕は至って真剣ですが」
「あからさまにやる気がないだろう……」
 呆れたまま、彼は諦めたのか会話を止めて材料の選定作業に戻った。遂に倦怠感が表へ出てしまったらしい。そして朝、アズールから向けられた視線の理由がこれと同種のものだったかもしれないと思い当たった。何だかんだと付き合いの長い彼は、僕達の分かりづらい機微に敏感だ。
 その後は最早僕に何か聞くことも指示すらせず、半ば一人で魔法薬を完成させて提出していた。正直な感想としては、かなり助かった。表向きな感想としては、借りを作ってしまった、と思った。

 放課後にはラウンジのシフトがあったが、最早それどころではなかった。眠気も疲労も最高潮で、僕は真っ直ぐに自室へと戻った。
 もう一度、菓子を口にして薬を服用し、横になる。そのすぐ後で、フロイドが部屋に戻ってきた。そして室内を見るなり、僕の方へ近寄ってきて、目を薄く開けた僕を覗き込んだ。
「え、体調悪かったの? 全然知らなかった」
「……アズールから聞いたのでは?」
「聞いてねーし」
 僕の額を雑に触るなり口を開いた彼の言葉に、少なからず動揺してしまった。では、昼に僕の椅子へ座っていたのは彼ではなかった。
「あー。ジェイドが休むから、オレ急にシフト入れって言われたんだ。めんどくせ〜」
 真上にあった顔が傍を離れ、横顔に変わる。頭を掻きながら言われた言葉にも、また動揺した。僕はまだ休むとも言っていなかった。別に無理をする気は端からないが、少し休めば、また回復する可能性があったから、取り敢えず仮眠だけ取ろうと思っていた。
 フロイドが部屋を出た後、メッセージアプリを開き確認したが、やはりこちらからも、向こうからも僕が休むという明言はなかった。そのままスマホを放り出して、僕は難しい事を考えたくない脳を目と共に塞いだ。

 それから目を覚ましたのは翌朝だった。アラームも鳴らなかったのは、今日が休日だったからだ。未だに気怠い身体を起こして、また風邪薬を服用する。隣のベッドは既にもぬけの殻で、しかしやけに片付いていた。
 取り敢えずは朝食を摂るべく立ち上がったが、くらくらと目眩がした。流石にそのままベッドへ戻る。どうしたものかと暫く座って考え続けて、ふと意識が遠のいた。

 次に目を覚ました時には、夕方を迎えていた。はじめての経験に愕然とする思いで、何度も瞬きをした。時計を確認して、ボサボサの頭のままで呆然とした。
 すっかりと暮れた空を窓から眺めて、一日が無為に過ぎた事への自責の念に襲われた。ただの頭痛で、些細な風邪で、人間の体は一日を消費するものだと初めて知った。
 僕は落ち込んだ気持ちを奮い起こし、少しでも無駄を取り返そうと起き上がる。休日になればしたい事がいくつもあった。その全てをこなす事は、残りの数時間では難しい。少なくとも、成長途中であるきのこの世話だけは済ませたかった。
 もう浮くような感覚はすっかり無くなっていたので、さっさと着替えて部屋を出た。すると、そこでアズールと鉢合わせた。昨日の朝から会っていなかった彼は、あの時と同じ鋭い眦で、探るように僕を見た。
「……どうかしました?」
 巡るさまざまな感情をひた隠して、同じ問いを投げかける。彼は「いえ」と答えて、持っていた本を抱え直し、体の方向を自室へと向けた。去る直前、僅かに木材の香りがした。

 アズールと別れた後、植物園に向かうと明かりがついていた。珍しく思いながら、原木の保存場所へ足を運ぶ。ビニールに覆われたそれに触れて、思わず目を瞠った。丸二日放置してしまったのにも関わらず、原木は正しく湿度が保たれていた。
 だから僕は真っ直ぐ、寮に戻ることにした。もう一度だけ薬を飲んで、朝まで眠ったら、今度はアズールの趣味に付き合おうと、そう思った。

 ◇

 点滴代わりの治癒魔法をかけながら、起こさない程度に小さく溜息をつく。まともな食事も摂らず、氷嚢もなく布団も掛けずにただ眠って、すぐ治るわけもない。足の下にあった布団をかけ、熱っぽい額を氷で冷やしてやる。
 朝からどうにも様子がおかしいと思っていたし、大事になるまで言わない性格も知っていたから、昼に姿が見えないという小さすぎる理由でも連絡が出来たのだ。ジェイドには感謝されなければ割に合わない。

 どうせ昼休憩が終われば午後の授業に出るつもりだろう、と凡その推定がついてしまうのも、無駄に長い付き合い故だ。明日は休日で、きのこの世話だとか山歩きだとか妙な趣味に乗り出してしまうだろう事も容易に予想出来る。
 それで体調が更に崩れたら、僕にとっての損失だ。それ以上の理由はない。この機会に借りを大量に作っておくのも悪くない。
 明日も様子を見に来るつもりであるのも、先回りしてきのこの世話も山の写真も撮ってきてやろうと思い付いたのも、全ては僕のためでしかないのだ。

 

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