大切に包んでいた手をゆっくり解放していく。当然のことだが、手の中には室内から持ってきた白い塊が鎮座していた。僕は逸る気持ちを呼吸することで抑えながら、波立つことのない水の上へそれをかざした。湯舟いっぱいに張られたぬるま湯に、そっと手の甲を付ける。ちゃぷりと音が立つのと同時に、手の中の塊がしゅわりと弾けた。
「うわ」
感嘆のつもりが、動揺のあまりに拒絶染みた声を零す。手の隙間から浸水していくぬるま湯に重曹の塊が溶かされてぱちぱち飛ぶ。手に残る感触の面白さが名残惜しく、暫く溶けていく表面を眺めていたが、背後からの小さな溜息に気が付いて手放した。
湯気立つ水の上へ、泡を作る球体がふわりと浮いた。自らの周囲に気泡を作っていたそれは、すぐにぽこりと大ぶりな泡を発生させた。一度泡になった表面は次々と溶解して、勢いを増していく。動きは渦に似ていた。衝動のままに泡の最中へ指を沈めると、肌に白い石鹸が生き物のようにまとわりついてくる。
「これはすごいですね」
どろりとし始めた球体を指で叩くと、屈んだ頭上から覗き込まれる。彼も僕の隣に膝をつき、流れ出る渦を珍しげに観察する。
「なるほど、視覚的な面白さとこの香り……人気商品というのも頷ける」
「使えそうですか?」
「アイデアとしては、考えようによっては使えるでしょう。泡の成分は……」
彼はシャツのポケットから、薄い紙切れを取り出した。この球体――バスボムと呼ばれる商品だが、これを購入した際に貼り付けられていたものだ。商品名と説明に加えて細かな成分が記載されている。曇りがちな眼鏡を軽く拭いながら、読みづらそうに小さな文字を追い掛けた。
今日、わざわざ普段は解放しない寮長室のバスルームへ集まっているのは、ただバスボムを使って遊ぶためではない。ラウンジの新商品のアイデアが行き詰り、悩んでいたところで気まぐれに出かけたフロイドが持って帰ってきた物がこれだった。VIPルームに缶詰めになっていたアズールはまず苦言を呈したものの、彼の持ち帰るアイデアは大抵面白い事を知っていたため、すぐ検証する事に決めた。そして、その検証が今、目の前で行われている。当のフロイドはこれまた気まぐれに部活へと出かけてしまった。
アズールは成分表を遠ざけたり近付けたり、ピントの合う場所を探して格闘している。湯に浸かった指先が温かくて心地良い。未だ泡立ち続けるボムの傍へ、今度は手首まで入れた。ぼこぼこぶつかってくる感触がとても気持ち良い。そして、はたと気が付いた。眺めるのではなく、入浴しながらこの感触を楽しむものなのではないか。
思いついたら居ても立っても居られなくなり、バスルームへ来るにあたって薄着にしていたシャツとスラックスをぱっと脱ぎ、脱衣所の籠へ放った。文字を追うアズールを横目に、いつの間にか冷えていた足先からゆっくりと湯舟に入れる。弾ける泡がぱちぱちとぶつかる。それは痛くはない。柔らかく、むしろ擽ったいくらいだった。予想に反した泡の挙動に好奇心が擡げて、今度は一気に肩まで沈んだ。
「うわっ!? ……何をしてるんですか、ジェイド」
衝撃で白く濁った湯が溢れる。膝を付いていたアズールのスラックスが濡れたのが見える。しかし今はそれ以上に、目の前で広がる泡の感触に夢中だった。
そうっと掬い上げた泡はクリームくらいになめらかで、そこから石鹸の香りがする。ふわふわの気泡は、手で挟むと潰れる前に逃げていく。段々と湯舟を満たすものが泡になっていく。
水が泡だらけになってしまう、なんて発想は、透明な水に囲まれて生きてきた自分達にとって全く新しいものであった。もったりした泡を持ち上げては零す無意味で稚拙な行為を繰り返してしまうのも、広がる泡の前では仕方のない事であろう。
「……楽しいですか? それ」
アズールは呆れた顔で僕と泡を眺めてくる。彼のつまらなさそうな様子に少し腹が立つが、泡に囲まれて温厚になっているせいで自然と笑みが浮かんだ。アズールは更に眉を寄せた。
「試してみてはどうですか? 眺めているだけでは分からない事もありますよ。どうぞ」
「一人用なんですが」
「では代わりましょうか」
誘い込む様に膝を抱える形にしてみせたが、彼は面倒を隠さない顔でまた溜息を吐いた。それがどうにも勿体無く感じ、心地良さを無理矢理に引き剥がして湯船から立ち上がる。
「……あ、待て! 戻りなさい!」
「は? ……うわっ」
しかし、突然声を上げたアズールに遮られる。立ち上がったばかりの肩を強引に押さえつけられ、泡の中に再び突っ込んだ。うっかり口元まで沈みかけ、慌てて両手を付いて体勢を整える。文句を言ってやろうとすぐさまアズールの方を見ると、その考えはふっと飛んでいった。少し俯いた彼の耳が赤かったせいだ。理由についてはいくつか考察できるが、とりあえずこの場で一番面白いものを選択する。
「そんなに恥ずかしがらなくても、お互いの裸なんて今更ですよ」
「うるさい」
即時に返された罵声は、今のからかい文句が冗談とならなかった事を示していた。思わず、ぱちりと瞬きして、目の合わないアズールのつむじを見る。
「……タオルを巻いたらよろしいでしょうか?」
「そういう問題じゃない! もういいから、もう一回場所を作って下さい」
「え? ……はい、どうぞ」
まさか入るつもりだろうか、だとしたら絶対にその方が恥ずかしいのではないだろうか。そう思いつつも、言葉通りに縮こまって半分だけ場所を空けると、さっさと軽装を脱ぎ捨てた彼の両足が突っ込まれた。ばしゃりと湯が揺れて、渦が崩れる。未だに泡は増え続けている。泡を掻き分けたはずのアズールにも、既に泡がまとわりついていた。
「……これは妙な感覚です。こんなものが海にあったら、呼吸がし辛いのでは?」
「ええ、鰓に入ったら大惨事でしょうね」
「…………心なしか息苦しくなってきました」
「今は肺呼吸で良かったですね。どうぞ、肩まで浸かって下さい。気持ち良いですよ」
湯舟に突っ立ったままで苦々しく言葉を連ねるアズールの膝を軽くつつくと、眉間に皺を作ってこちらをにらんだ。
「はー……湯に浸かるのに泡なんて必要なんですか? 単純に汚れを洗い流すという点に関してだと邪魔でしょう。まあ多少の保湿能力は感じますが、普通の入浴剤でもそういった商品はありますし、あえて不純物の混ざったこちらを選ぶ理由なんて」
「気持ち良いですか?」
「……まあ、思ったよりは良いですよ。思ったよりは」
滔々と感情の表面をなぞる感想を流し続けていた彼の表情は、聞くまでもなく柔らかかった。一体バスボムの何がそんなに彼を波立たせるのか知らないが、こうした面倒な彼の言動は想像しやすくも面白くて好きだ。
また泡を掬って落とす。ぼたり、と落ちる感触は海の上で小魚を取り落とした時のものに似ている。飛び出した膝の頭にも泡を乗せていると、アズールの目が無気力にこちらを見ている事に気が付いた。にこりと笑ってから見つめ返してみると、彼は三度の溜息を落とした。
「お前といると疲れます」
「そうですか? では、丁度良かったですね。お風呂で癒されるのでプラマイゼロ、ということで」
「時間の無駄じゃないですか、それ」
「僕はそうは思いませんよ。とても有意義な時間です。楽しいですし」
「お前はそうでしょうね……」
気だるげになった彼の視線が僕の膝に注がれる。はしゃいでいる事を咎めているのだろうかと気付きながら、知らない振りをして泡を重ねる。あんなにも泡の成分ではしゃいでいた彼は何処へ行ってしまったのか、四度目の溜息と共に膝を抱えて縮こまってしまった。
「そんなにお疲れでしたら、一人でしたいと言って下さればよかったのに」
「……うるさいですよ」
「至って真面目な提案だったのですが……」
機嫌が悪いのか、状況が悪いのか分からない。どちらかといえば分かりやすい彼の情動が、今は判断し辛かった。ただ、何となく彼の機嫌は悪いようには思えなかった。
沈んでいくアズールのうねった銀髪が渦に巻き込まれて泡だらけになっていく。細かい気泡の間から、ぼこりと大きな泡が飛び出す。アズールの呼吸だった。
「あ」
「え?」
「クリームソーダの化学反応……」
「ああ、新商品のアイデアですね。流石はアズール」
ほとんどうわごとに告げられた脈絡のない文字列で彼の脳内を察した。際限なく泡立つ水を見て思い付いたのだろう。内容を頭の隅で想定しながら、すっかり小さくなった球体を握りつぶした。
「……よし、早速試作品を作りますよ! この時間なら食堂のキッチンを――」
「あ」
勢いよく目の前で立ち上がった、その瞬間、咄嗟に両手で顔を庇った。ほぼ無意識だった。数秒間、お互いにそのまま固まって、アズールの方から引き攣った風音が聞こえると同時に、勢いよく減った分の湯量が戻った。
「…………すみません」
「いえ、こちらこそ。今更なんて言ってすみませんでした」
目を覆っていた手をゆっくり外して、湯に浸かり直す。アズールが無駄に恥ずかしがったせいで、こちらまで影響してしまったらしい。泡が目隠しになっている現状から動きにくくなってしまった。
なんとなく膝を腹へ寄せながら、泡を集める。このまま待っていても消泡してしまうのだから、さっさと覚悟を決めて出るべきだ。時間が勿体無い。減ってきた泡をもてあそびながらアズールの方を見る。目が合った。その顔はのぼせる直前と同程度には真っ赤だった。
「……大丈夫ですか?」
「いや……」
「え?」
「さっきから……不整脈が……」
「…………は?」
再び彼の額は泡に埋まった。確実な体調不良だった。恥も何も言っている場合ではないのに、動き難そうなアズールの腕を掴んで立ち上がろうとする僕を、彼はこの期に及んで能天気にも押し留めようとしていた。
必死に止めるアズールを振り切り、養護教諭を呼ぶため本校舎まで向かう。暗い廊下を進みながら鏡舎へ向かう最中、部活終わりで疲れた様子のフロイドとばったり出くわした。
「あれ、どうだった? 面白かったでしょ」
開口一番、彼は疲れも消えたような笑顔で問いかけた。だから僕も笑顔で答えた。
「ええ、とても面白かったです。おかげでアズールが倒れました」
「は?」
掻い摘みながら事情の説明を済ませた時、フロイドはこの十数年で見せたことのないほど嫌そうな顔をして、無言で僕を部屋の中へ押し込んだ。
コメントを残す