貴方の音が僕を鳴らす

 

 水の深い場所から見た、表面の波はひどく落ち着いている。揺蕩う波形に押し潰される泡や、流れ去っていく水面の光が、判然としない視界の中で踊っている。それ以外には、何も無い。自らの呼吸の音も、心音すらも、水に飲まれて消えていく。とても、静かだった。
 塩辛い透明が黒い僕の髪を宙へと引っ張る。透明と、暗さと、近く揺れる海藻や珊瑚、そこに混じった色に自分の存在を知る。そうして、やっと鰓がぱくりと酸素を喰らった。
 陸の上で暮らしていると、偶に自らの存在を失してしまう時がある。人間として生きている間、自分が人魚であることを忘れた事は当然一度もない。しかし、だからと言って、二本の脚で歩き、肺で酸素と二酸化炭素を交換する行為を繰り返している間に、僕は魚である、という意識を持てるかといえばそうではない。後天的に得た脚で地を蹴り、肺で呼吸する事に慣れていくたび、尾鰭と鰓を持つ身体について想像が難しくなっていく。そして、それは好ましい事態ではなかった。だから時折、こうして海に横たわり、呼吸の仕方を思い出す日があった。
 こぽり、少し開けた唇の隙間から収めていた酸素が零れ、暗い空に落ちていく。ゆったりとした速度で浮上していく泡は、緩い波に煽られて揺らぐ。静謐に包まれる時間は、単なる自己確認だけを目的としている訳でもなかった。
 陸上の世は様々な”音”で溢れ返っている。朝、目覚めた時に聴こえる生き物たちの歌声から始まり、自らの呼吸音と心音が聞こえ始める。それから隣で「おはよう」とあいさつをする声。脚を地面に付けて、歩く音。服を脱いで、新しいそれを着る布の音。髪を梳く音。扉を開ける音。ご飯を食べるカトラリーの接触音、咀嚼音。どれも、水底においては掻き消されていく些細な”音楽”だった。
 しん、と静寂が鳴く。聴覚器官は水圧に適応して、水の動く音を聞いている。陸上の生き物は、この音を表す文字列を用意できないだろうと思う。尾鰭を地面に叩き付けようが、ぴしゃりとは言わない。ただ、波が動くだけ。
 その静けさが、今はただ心地よかった。知らない内に、音に疲れていたのかもしれない、と今更に気が付く。溢れかえる音の波は、無音に慣らされた体では留めおくスペースが足りない。
 しばらく、水面を流れる星の光を眺めていた。さらさら流れる水の音を沁み込ませながら、疲労に任せて瞼を下ろす。全くの暗闇に襲われ、本能的な恐怖心が微かに頭をもたげる。しかし、理性がこの場の安全性を思い出して、獣性を押さえた。
 瞼の血潮が照らされて映る。それだけの視界と、波の感触。それだけの空間。世界の中で一人ぼっちになったようで、それでも不安以上の安堵で満ちていた。僕は魚だ。深海を泳ぐ生き物だ。

 そうして、僅かな潮の流れに身を任せていると、不意に”音”が聞こえた。ぽこ、ぽこ、と何かが水を掻き分けている。しんとした無音の世界に、ただそれだけの音が色を塗る。
 薄赤の視界をそっと開いてみる。真上にあるのは、星を散らした暗い表面。そこへ向けて、泡が立ち上っていく。向かう先を逆方向に目で追うと、正体は珊瑚であった。彼らは酸素を吐いて、水を裂き、音を紡いでいた。小さな泡の粒が鳴らすのは、さながらパーカッションのパートであり、それが得意な兄弟の事が頭に浮かぶ。
 彼が貝殻を爪の先でこつこつ叩いて鳴らし、作るテンポは面白かった。陸に上がってからも一度だけ、恒例の宴に誘われて演奏する様を見たが、彼のリズムは格別だった。
 深海で作られる音楽は往々にして一定でつまらないが、彼はその常識をぶち壊してくれるものだから、僕もそれに合わせて、時には抗って弦をはじいた。二人でリズムを滅茶苦茶に紡いでいると、周囲は辟易した様子でそれを煙たがるが、僕達のメロディーラインを作る彼は違った。滅茶苦茶なリズムに呆れながら、それでも最終的には笑って僕らを纏める。音楽を作る。
 僕は音楽が好きなわけではない。教養として楽器は出来るよう練習した事はある。それだけであった音楽との関係性は、彼と出会った頃から変わったと思う。未だ耳の傍で鳴り続ける泡のリズムを煩わしいとも思わない事が何よりの証拠だ。
 ぽこ、ぽこ。海面を叩く泡に合わせて尾鰭が揺れる。少しずつ揺れる頭に合わせて髪が流れる。不規則なそのテンポは、自然の演奏会の始まりの合図だった。
「――、――……」
 自然と開いた口から音波が流れていく。それはきっと歌であり、言葉であった。魚のいない水底はひどく静かだ。それは、客のいないミュージックホールと同じく、よく音の響き渡る空間だった。
 ――歌って。
 光を纏った水面が僕の音波で揺れる。
 ――あの子の目を見て、お話をやめて。
 誰もいない水の底で、下手か上手かも知らない、興味もない流行りの歌を口ずさむ。
 ――何も言わなくていい、さあ早く。
 ぽこり、リズムが変化する。だから僕も泡を零して、深海で何度も聞かされた音楽に合うリズムを作る。
 ――キスして、一緒に歌って。
 揺れる波間に、声ともつかない音が突き刺さる。星は未だ揺れていて、僕の歌声をものともしない。いつもは小さな声ですら受け取られ、反応を受ける陸での生活と違って、心が落ち着いていく。
 囁くような歌を続けながら、再び目を閉じる。珊瑚はゆったりと酸素を吐いている。今度はそちらのリズムに合わせて、歌のテンポをおかしくした。尾鰭で砂利を叩く。波が揺れて、珊瑚の紡いだテンポがもっとずれていく。
「”恋は今、静かな入り江に”……でしたっけ?」
「……おや」
 こつん、こつん。新しいリズムと、適当な歌が音楽を遮った。珊瑚のテンポを追う聴覚は、明らかな音を追い掛けるのに使われる。静かな演奏会が終わりを告げたとみて、僕は目を開けた。暗い海の向こう側から、指先が水の表面を撫でた。
「ラウンジにセイレーンがいる……だなんて言うものだから、どんな魔物が居るかと思えば。随分と見慣れた顔のセイレーンでしたね」
 空気の中を伝播する音波が、硝子越しの僕に言葉を伝える。空気から水に流れて、薄い聴覚器官を叩いていく。そこに不快感は無い。聞き慣れた凛とした響きは、静かな水底と同じだからだろう。
「では、貴方は僕に惑わされてくれたのですか?」
「正確には、惑わされた憐れな寮生に頼み込まれて……です」
 手に持った彼の努力を顕現する杖の先が、暗い海の色をしたフローリングをこつりと鳴らした。彼の鳴らす音楽は、どこまでも綺麗だ。彼の薄く白い手のひらが、硝子に触れる僕の尾鰭を一枚向こう側から撫でる。
「もう少し、聞かせて下さい。久しぶりに聴いて、ちょっと思いつく事がありそうなので」
「僕を見せ物にするおつもりで? 何とも無慈悲な」
「うるさいな。歌わないなら引っ張り出しますよ。備品なんだから」
「ふふ……」
 暗く、彼好みの雰囲気の纏った店内を細めた目で眺める。ここで歌うのなら、正直そこまで不満はない。それで彼が目的を果たすのならば。
 しかし、僕は知っていた。何となく、ではなく、感覚的なもの、でもなく、確信として彼の言葉の真意をくみ取れた。素直ではない幼馴染の誤魔化そうとする思いは、とても分かりやすいから。
 ――二人だけでいる。時は流れる。
 僕が再び、音楽を紡ぎ始める。彼はじっと黙って、そんな僕の存在を見つめている。
 ――女の子は黙って待っている。
 暗い空に似た彼の瞳に映った僕は、いつでもきらきらと輝いて見えた。彼の瞳の中にいる僕は、本当の僕よりも幾分美化された高尚な存在だった。それでも、僕は彼の目を見つめる事が好きだった。
 ――キスして。
 硝子に顔を寄せ、彼の目を覗き込む。彼も合図などなく、ゆっくり硝子に近付いた。
 目の前にある自分の顔は、自分の存在を知らない迷子などでは決してなく、今は彼を惑わせるセイレーンを模していた。くす、と笑えば、無表情を装った彼が不機嫌に崩れる。
 こつん、こつん、と彼の踵が音を鳴らす。僕はそれに合わせて適当な歌を歌う。それは、一人ぼっちの壮大な演奏会よりも満ち足りていた。

 

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