ふと感じた違和に、薄ぼんやりと目を開けた。いつも冷たい足の先が温かい。手狭なベッドから伸ばした腕が飛び出さない。天井は広くて、兄弟との相部屋とは違う色彩をしている。ふわふわと未だ微睡の最中に落ちた感覚に溺れながら、朧げに要素を弾き出していく。
寝返りを打つと、硬さのないスプリングが半身を絡め取っていく。真上を向いていた体を横へ倒し、そして鼻先が真白の肌にぶつかった。あまりの近距離にピントの調整が追いつかず、その正体を計りかねた。ほんの僅かに身を退き、もう少しだけ瞼を押し上げる。そこにあったのは兄弟ではなく、銀髪をシーツに投げ出して眠る幼馴染の顔だった。
未だ夢の最中へ居るのだろうかと疑い、驚愕のまま震える睫毛を見つめる。すると、ゆっくりと瞼が上がり、夜の空色がこちらを見つめ返す。
「……目が覚めたんですか?」
そう言って、くすりと寝起きの腫れぼったい目を柔らかく笑みへ作り替えた。常では見た事のない、彼が見せるのを嫌いそうな甘さを含む表情だった。現実と捉える事が難しく、何も答えられずにいると、彼の手が伸ばされた。避けることは考えなかったが、意図が汲めずにじっと動向を見守る。
目で追った自分より一回り小さい手は、静かに僕の頭を飛び越えて、さらりと頭蓋をなぞるように触れた。確かめるような手付きで髪を指でといた彼は、溶けてしまいそうなほど甘やかな眼で、凍り付いた僕を見つめ続ける。
「はは、寝惚けてるんですか。そんな、猫みたいな目をして」
髪を掬っては撫でる手が、無防備な頭蓋骨の輪郭をなぞっている。それこそ猫のような扱いだと思い付いた。寝惚けているのはアズールの方ではないか、と反論しようとした喉は、寝起きの気怠さと渇きでうまく震えなかった。しかし触れられる頭部が耐え難いほどむず痒く、こちらへ伸びている腕を軽く叩いて意志を表明した。彼はより一層、その気味が悪い甘ったるさを深めて、後頭部から頬骨へと対象を移動した。
「ふふ、ジェイド」
指の背が頬の表面を擽る。往復する指の感触は余計に痒さを増して、見つめられる視線の温度も異常だ。彼の目はいつでも凪いだ曇りの海であり、穏やかな快晴の日でも、荒れ狂う嵐の夜でもない筈だ。そして、現在の重い身体と靄がかった思考と重ね合わせて、ひとつの完璧な結論を導き出した。これは夢だ。
「……アズール」
「何ですか?」
仮説の正しさを証明するべく、僕はいわゆる猫撫で声で名前を呼んだ。現実の彼ならば、気味が悪いと一蹴する筈であったが、今の彼は愛玩動物を愛でるように優しく声を出す。それは確証を得るに相応しい返事だった。
陸に上がるまで、まともに夢というものを見たことはない。深海の生活は昼夜関係なく、眠る時間も大して重要ではなかった。だから当然、夢に関する知識は陸に上がってから身に付けたもので、まだ俗説と定説の区別も明確に付いてはいない。そんな曖昧な知識の中でも、この現象については軽く知っていた。明晰夢と呼ばれる夢である。意識がある状態で、夢と分かって見る夢だと言う。正に今、僕が浸っている状況そのものだ。
ところで、明晰夢を見るのは簡単ではないらしい。様々な状況の準備が必要とされていたり、寝る時間やタイミング、夢の記録を付ける等、面倒な事を乗り越えて漸く現れる。それらをすっ飛ばして見れている今、これは滅多にない状態である。楽しまない理由はなかった。眠たい目を擦って、少しでも意識をはっきりさせる。
「眠たいんでしょう。まだ起きなくても大丈夫ですよ」
夢のアズールは、普段聞けないような優しい言葉で背中を撫でる。心地良さに触れた肌がぞくりと粟立つ。
「眠ってしまうには、勿体ないじゃないですか」
「どうしてですか? 特別なことはなにも……」
「貴方がいる夜なんて、無いでしょう?」
今度はやけに滑らかに言葉が出てきた。やはり、ここは僕の夢なのだろう。彼は綺麗な目を大きく見開いて、僕を見た。今夜は想像力の働く夜だ。そんな顔も見た事がない。
「……僕と寝るのが、特別?」
「違いますか?」
「いえ……違いません」
緩く首を振った彼は、背中を撫でる手で僕を引き寄せる。急に詰められた距離に思わずシーツを蹴ったが、アズールの脚と絡まっていたせいで意味がなかった。為す術なく、自分よりも小柄な幼馴染の腕に抱き留められてしまった。
「はあ、温かい……」
背中に回された腕が、ぎゅうと軽く絞めてくる。夢だからか、不思議と息苦しさはなかった。目の前には、白いアズールの首筋がある。穏やかに上下する喉仏が目前に見えた。不意に甘い香りがした。彼の好きなコロンの匂いだ。
どうせ、夢なのだし。そんな考えを免罪符にして、目の前の愛しい香りに擦り寄るように体を寄せる。
「へ、……な、なに?」
間抜けたアズールの声がする。これは割と良く聞く声だ。少し嬉しくなって、笑いを噛み殺しながら首筋に頬を寄せる。それこそ猫がマーキングをするみたいに、然しそれとは反対の目的で、彼の香りを貰うように全身をくっ付ける。
「ちょ、ちょっと待て、それはっ……」
焦る声が耳に心地良い。彼の戸惑った声は好きだ。そこには嘘がないと分かりやすい。何を思い接してくるか、予測し易い。そして、単純に好きだった。
両腕を抱きしめ返すように背に回す。アズールの体はいつの間にか強張っていた。妙なリアリティのある夢の中でも、放置するのは申し訳なくて、自分がして貰ったように背中を撫でた。
「……っジェイド!」
微睡が深い。もう随分と水底に意識が沈んでいた。ぼんやりとした視界には、最早銀色のシルエットしか映っていない。肩を掴まれてベッドに寝かし付けられた気がする。もうすぐこの夢が終わる合図だろうか。どうせなら、いつも出来ない素直な行動を試してみれば良かった、と直前に名残惜しくなる。見えにくい視界に唯一残る銀色を目印に、睡魔に喰われかけた意識を動かして、両手を伸ばした。指先は、どこか柔らかい場所に触れた。そして、意識は完全に微睡へ落ちた。
ぱ、と目が開いた。あんなに重かった瞼が嘘のようだ。それも当たり前である。どうせ夢であったのだから、嘘には変わりない。足先はいつも通りに冷たいし、ベッドからは腕がはみ出して落ちている。天井も見慣れた色のはずだ。横を向いていた体を上に向ける。
「…………?」
しかし、目に映ったのは見慣れたあの天井ではなく、夢の中で見たのと同じ色をしていた。寝惚けているのか思考が遅い。考えが追いつく前に、目覚めた時とは逆方向の隣を見た。
そこには、恨めしそうに僕を睨むアズールがいた。
「え? どうしてアズールがここに?」
「は? 僕の部屋なんだからいるに決まってるだろう」
「…………はい?」
脳味噌が錆び付いた歯車みたいに、回るのを渋っている。茫然自失と銀髪の睫毛を見つめる。あんまりに注視しすぎて、寝不足特有の隈がくっきりと出ているというどうでもいい事に気が付いた。
「……寝惚けるのも大概にして下さい」
気怠げに手を付いたアズールが身体を起こし、そのまま僕を見下ろす位置に身を乗り出す。自らの顔に影が掛かって、本能的にも理性的にも不味いと察知した。同時に、脱出不可能である事も分かってしまった。
「ねぇジェイド、もう起きましたよね」
「……いえ、まだ少し」
「僕はもう十分待ちました。煽るだけ煽った挙句、ぐっすり寝やがって……」
彼の手が逃げようとした腕を掴む。そして、頬骨に細い彼の指が触れた。淡い体温で、肌が溶けてしまいそうな感覚がする。瞬間、悟った。あれは一秒たりとも夢ではなかった。この仮説は証明するまでもなく、見下ろす眼に宿る甘やかさが答えだった。
「二度寝するには勿体無い朝でしょう、ねぇ」
気味の悪い、と称したその色は、朝日の中で穏やかに色づいている。まるで愛みたいだ、なんて下らない事を思ってしまった自分が可笑しくて、今度は我慢できずに笑う。
「ええ、そうですね。……続きを」
「……後で文句を言われても聞きませんからね」
脅すように言う割に、彼の指先はただ甘やかすように往復を続ける。やはり愛玩動物のようだと思っていると、彼の銀色の睫毛が僕の睫毛に触れていて、今し方の思考の誤りを識った。
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