ラストデート

 

 祖母の選んだリストランテのテーブルは真っ白で綺麗だ。珊瑚の柄が編まれていて、訪れた客は皆これを褒めていく。アズールも祖母の集める家具と、食器が好きだった。
 大人しく席に着いて待っていると、期待した目が隠しきれていないようで、何時まで経っても「ちょっと待ってね」と優しく宥められてしまう。それが気恥ずかしくて、懐かしくて好きだった。少しだけ待っていると、運ばれてくるコース料理。子供の頃は喜んで沢山おかわりをして、成長してからは多すぎるよと困りながら食べた。
 深海の料理はどれも冷たいものばかりなのに、食べると全身が温かくなる。休日に家族で囲む珊瑚のテーブルが、子供心にも大切で、一番幸せな時間だった。

 淡い光を放つランプを眺めながら、アズールは待っていた。キッチンの奥から料理をする規則的な音がする。いつもより小さいテーブルは、いつまでも変わらず綺麗だった。正面に座っている幼馴染は、なんだか楽しそうにアズールをじっと見ている。顔を覗き込んだ拍子に、彼の右耳に掛けた黒髪がはらりと垂れる。何ですか、と言おうとした口をその手に遮られる。彼はちらりとキッチンの方を見て、悪戯をする直前の笑顔を見せた。それから間もなく、彼はテーブルから身を乗り出して、アズールと額をくっつけるくらいに近付いて、口を開いた。
「後悔しねーの?」
 猫のように細められた瞳が、二つの色を以てアズールの心底を読むようだった。金縛りに遭ったようで、身動きが取れなくなる。頭の中でいろいろな事が思い浮かんで、やっとの思いで首を横に振ったら、彼はまた笑った。それから、また口を開いて、捕食者の歯を見せた。
「駄目じゃん」
 ふざける時の口調で言って、彼の指がアズールの額を小突く。途端にふわりと体が浮いて、ぐらついた椅子が後ろに倒れる。衝撃に備えて目を閉じる寸前、彼は慈悲深く微笑んでいた。

 ◇ ◇ ◇

 体がゆったりとした速度で揺られている。深い微睡の中で感じる感覚は、まるでゆりかごのようだ。重たい瞼をいっそう閉じて、意識を夢の中へ落そうとする。そんなアズールの額を、ぴん、と何かが弾いた。のろのろと瞼を上げると、目の前に幼馴染の顔があった。
「起きて下さい、アズール」
 彼の左耳の前を流れる黒髪が頬に当たって擽ったい。愚図る様な呻き声を出すとくすりと笑って、海藻の狭間に仕舞い込んでいたアズールの手を引っ張り出した。
「そんなに眠っていては体が鈍ってしまいますよ」
 未だ眠気が大半を支配する脳味噌では、その行動への抵抗は出来ない。されるがまま、上に引っ張り上げられる。壺にくっついていた吸盤が力なく外れて、ふわりと体が浮遊する。
「なん、だよ」
「せっかくですから、二人で出掛けませんか? 陸へ遊びに……いえ、デートに行きたいんです。どうでしょう?」
 やっとの事で絞り出した掠れた声は見事彼の耳に届いたらしく、優雅に振り返って言った。アズールは何度か瞬きをして、ぼやけていた視界をクリアに変える。
「そろそろ、最後になりますから」
 目の前で泳ぐジェイドの姿は変わりない。ぼんやりとした眼でそれを暫し見上げて、それから軽く頷いた。ジェイドは嬉しげに微笑むと、そのまま更に上へと浮上していく。アズールは掴まれた手首を捩って、彼の手首を緩く掴んだ。

 海面から顔を出すと、朝日が昇ったばかりだった。久しぶりの風に当たり、晒された頬が痛く感じる。季節は冬だろうかと思っていると、目の前に緑の葉が漂ってきて、春を報せる。指でそれをつついていると、目の前へ見慣れた小瓶が差し出される。随分と久しいそれに感慨を覚えながら、受け取って蓋を開ける。
 不味い味だけは忘れられないものだから、息を止めて一度に飲み干す。戻しそうになる口元を押さえ、何とか嚥下して隣を見ると、彼もまた両手で口を押えて飲み込んでいた。目が合うと同時に、二人の鰓が肺に代わる。急いで砂浜へ肘を付ける。余りにも懐かしくて眩暈がした。
 這いつくばりながら海から脚を離していると、初めて陸に上がったころの事を思い出す。誰より意気込んで上陸した癖、一番遅く立ち上がった屈辱感はたぶん一生忘れられない。
「……あ、どうしましょう。立ち上がり方、思い出せないかもしれません」
 息を切らしながら上がってきたジェイドも、同じように地を這っていた。久々に見た彼の焦る表情が面白くて、アズールは腹から笑いが飛び出す。ジェイドは困った様に笑いながらそれを見て、アズールの肩を掴んだ。
「そんなに笑うのなら、貴方は上手に歩けるのでしょう? 僕を連れて行って下さいませんか?」
「ははっ……いいですよ。どうぞ」
「え、本当に歩けるんですか?」
 ゆっくりとした動作ではあるが、確実に膝を起き上がらせる。砂浜に足の裏を付いて立ち上がる動作が懐かしい。膝は少し震えているが、どうにか直立まで成立させると、ジェイドが驚いた顔でアズールを見る。アズールは得意げに笑うと、膝立ちから動けないジェイドの手を取った。
「どうぞ」
「……ありがとうございます。ふふ……貴方、やっぱり陸で暮らした方が良かったのでは?」
「ふん……今更ですよ、そんなこと」
 助け起こしたジェイドは少し嫌味っぽく言った。しかし、本当に今更な話だ。よろめいたジェイドの肩を支え、息をつく。海で過ごした数十年を思いながら、空を見上げる。快晴だった。
「歩けますか?」
「はい……あ、いえ。すみません、難しいです」
「……じゃあ、そのままでいい」
 恥ずかしそうにアズールの腕にジェイドが掴まった。初めての日は、確か逆だった。アズールが二人に肩を借りて、どうにか歩行練習までこぎつけたのだった。その後は必死で特訓したおかげで、成長スピードがすごいと講師に褒められたものだった。
 腕に重みを感じて横を見遣ると、ジェイドがじっと顔を覗き込んでいた。
「貴方はすごいですよね」
「……ええ、どうも」
「本当ですよ。僕は貴方を尊敬しているんです、昔から」
 皮膚を抓る様に腕を握られる。もう何年になるのか分からないほど、長い時間を共にしてきた相手だ。声色か、顔色さえ分かれば言葉の真贋くらいの判断はとっくにつくようになった。今はどう見ても本当で、だからこそアズールの返事は素っ気なくなる。ジェイドにもアズールの考えが分かるのか、何も言わずとも嬉しそうに微笑み始めた。
「さっさと行くぞ、ほら」
「はい、アズール」
 肩を抱き寄せて、適当に手を振る。裸だった二人は、陸に適応した服装をその身に纏った。布越しになった重みをどうにか支えて、そのまま砂浜から離れていく。

 ◇

 陸の朝は静かだと知ったのは、上がってすぐの事だった。深海では朝も夜もない。日が昇って落ちるだけだった。しかし、陸では俄然違う意味を持って動いている。それがとても面白く思った。
 ジェイドと幼馴染や仲間、友人とは違う関係性を形成してから、良く早朝に街を歩いた。どちらも静かな場所が好きで、早く目覚めるのも眠らずに夜を明かすのも好きだったから、デートには最適な時間だった。店も開いていない時間は、よく海辺で肩を並べていたり、他愛もない会話をして過ごしていた。そこにあったのは、穏やかな感情と、ほんの少しの恋だった。二人の関係性には、ついぞ名前が付く事はなかった。

 脚を引き摺る様に歩くジェイドの肩を支えて、閑静な街を歩く。ここがどの島なのかは知らない。恐らくジェイドも知らないだろう。数十年前までは、陸に上がれば誰か知り合いに出逢う事もあり、それでどの地域であるのかを予想する事も出来たが、今は誰一人として知った顔は無い。景色も随分と変化している。上陸するたびに、いつも別世界に訪れたかのような感覚に陥る。行きつけの店も、旧友の家も、どこにもないのだから。深海と陸では、きっと時間の流れが違うのだ。
「うわっ、すみません」
 小さな石にぶつかったらしいジェイドの爪先がつんのめった。片腕だけでは支えきれず、咄嗟に両腕を出す。二人して膝から地面にぶつかってしまった。急な事で、まるで抱きしめるような体勢になってしまい、慌てて離れようとする。
「待って下さい、もう少し」
 しかし、ジェイドの手が背中側でシャツを掴んだ感覚がして、迷った挙句に離すのを止めた。今度は本当に、ジェイドの細くなった体を抱きしめる。随分と骨ばった背中を巻き付く様に両腕で囲う。胸に顔を埋めているジェイドがくつくつと笑う。
「見られたらどうするんです? 貴方、そういうのは嫌でしょう」
「別にいい。どうせ誰もいないだろう」
「ふふ……」
 肩口に額をくっつける。海の匂いがした。学生の頃に纏わせていた土の匂いはすっかり落ちてしまったらしい。好きだった菌糸類を触っているジェイドは、海に帰った日を境に見ていない。
「……山、行きます?」
「え?」
 そんな事を回想して、なんとなく口にした提案は、ジェイドの目を丸くさせた。彼は予想外に目を瞬かせて、首を振った。
「今日は貴方の好きな場所へ行きましょう。最後ですから」
「最後だから、お前の好きな場所に行きたいんだよ」
「では、間を取ってフロイドの好きな場所にしましょうか」
「……それも悪くないですね」
 言葉の応酬で離れていく体を引き寄せて、もう一度抱き締める。布一枚越しにでも伝わる少し弱い互いの心音が心地よかった。とくん、とくんと脈打つ数を数えながら、アズールは目を閉じる。退いていく潮の音が聞こえる。陸から見た海に似た色の髪を掬って、指先で遊ぶと、擽ったそうに身を捩る。
「僕は、お前と過ごせるならどこでもいいですよ」
「……そうですか。なら、夕焼けの草原でも見に行きます?」
「別にいいですよ。お前がそうしたいなら」
 体温と心拍数が少し上がる。横目で顔を盗み見れば、変わらず綺麗な顔を困惑に歪めている。勝ち誇った気分になって笑うと睨みが向く。
「適当に歩きましょう。あんまり時間もないでしょう」
「いいですよ。エスコート、お願いしますね」
「はいはい。どうぞ」

 暗かった未明の道を朝日を照らし始め、少しずつ生活の音が鳴る。窓を開く音、階段を駆け下りる音、水を撒く音、陸は海より様々な音楽で溢れている。深海では演奏する音楽も単調で、フロイドはいつも最後に飽きて泳ぎ出していた。たまによろめくジェイドの腰を支え、そんな事を思い出す。誰より仲の良い兄弟だった、と一番近くで見ていたアズールは思う。アズールがジェイドに触れようと努力するたび、彼はちょっと不機嫌そうに、ちらちらとジェイドの顔を窺っていた。拒否したら加勢しようとでも思っていたのだろうが、結局アズールの手が触る事はなかった。
「パンの香りがしますね」
 ふとジェイドがアズールの腕を支えにして立ち上がり、周囲を見回す。アズールも鼻を利かせてみると、風に乗ってどこかからパンの焼ける匂いがする。
「お腹が空いたんですか?」
「実は」
「目的地、決まりましたね」
 目を合わせて笑う。住宅地は朝を迎えると一気に音が増して、香りも増えて、世界の色が変化する。色づいていく道を、心地良く感じながら、漂う香りを辿って道の先を行く。
 それから少し歩いて、住宅地の最中に小さなパン屋を見つけた。可愛らしい看板に描かれたエノキパンの文字を見た途端、ジェイドの目の色が変わる。縺れる足を引き摺ってでもアズールを引っ張って、看板を指差した。
「あれ、美味しそうですよ。アズール、あれです」
「見えてますよ」
 久々に見た興奮気味のジェイドに呆れつつ、転びそうな体を引き寄せてから店に入る。店頭に並ぶ目当てのパンを指差して、ジェイドは目を輝かせてアズールを見る。その顔があまりに幼くて、出会ってすぐの彼を思い出した。あの日もこんな目でアズールの書き散らした呪文を拾い上げていた。何となく、宥めようと思ったわけでもなく、頭を撫でる。ジェイドは一瞬目を見開いて黙ったが、くすりと笑って、「もっと」と言った。

 どうにかパンを買って店を出る。入れ替わりで数人の客が入っていくのを見ながら、「どこで食べます?」と声を掛ける。ジェイドは首を傾けて街中を見渡し、それから河原を指した。
 住宅地を抜けた場所にある河原は、早朝の街と変わらず静かだった。爽やかな風が吹き抜けていく草の上に腰掛け、買ったばかりのパンを広げる。袋を覗き込み、エノキタケがたっぷり乗っかった平たいパンを取り出してジェイドに渡す。
「ありがとうございます。美味しそうです」
 暫しパンを眺めてから、ぱくりと品良く齧り付く。胃の中へ直接吸収されているかのように、綺麗なままで食べる姿に思わず見惚れていると、川の方から水の跳ねる音が聞こえてきた。水鳥が着水したようだ。気付けば何匹も並んでそこにいて、まるで餌を強請るみたいに二人を見ている。アズールは思わず食べ掛けのパンを見る。
「あげますか? 端っこの方なら大丈夫だと思いますが」
「あげませんよ。最後まで面倒を見れるわけでもないのに」
「ああ……そうですね。やめておきましょうか」
 言いながら、最後の一口を汚れの無い口へ放り込んだ。横目でそれを見終わると、アズールもパンを齧った。
 久々のパンに苦戦しながら食べていると、不意に水鳥達が騒いで、一斉に川を離れた。足先が離れる時に少しだけ水を散らして、それが朝日に反射し煌めいた。大きく羽ばたき、列をなして彼らは飛んで消えていく。ふと見上げると、頭上で一匹の鳥が旋回していた。鳶だろうか。最後の一口を急いで口に突っ込むと、鳥は旋回しながら、飛び去った水鳥を追い掛けた。

 パンを食べ終えた後、ジェイドに手を差し伸べ立ち上がる。それから再びジェイドを支えようと肩に触れると、やんわりと離される。不思議に思っていると、いつの間にか普通に歩けるようになっていたらしく、支えずとも陸に両足を付けて立っていた。名残惜しくも手を放そうとしたが、ジェイドは手だけ握って、「まだ怖いので、握っていて下さい」と微笑んだ。断る理由もなく、その手を握り返し、川辺の先へ歩く。
 手を繋ぎながら歩く、という試みをしたのは、記憶している限り学生時代の一度きりだった。ちゃんとデートをしろと言ったフロイドの機嫌を損ねないため、それらしくデートをしてみようという試みをした、そのひとつだったと思う。あの日は結局、恥ずかしさと極度の照れで勃発した口喧嘩の果てにばらばらに帰宅し、珍しいフロイドの呆れ顔に迎えられた記憶が鮮明にある。苦々しい記憶を払拭するようにジェイドの薄い手を握ると、優しく同じものが返される。その指にもっと触れたいという思いが湧き出て、指の間に指を滑り込ませて握り込んだ。一本一本の指が触れあって、小さな脈が絡まり合う。ジェイドを見れば、不思議そうにアズールの方を見ていた。
「ジェイド」
「はい」
 立ち止まって、絡めたばかりの手を離す。首をひねる彼の頬を両手で包み込むと、更に目を丸くする。そのまま、朝焼けに照らされる彼の唇にキスをする。合わさったかさかさの唇は少し温かい。離して、それからもう一度、もう一度と重ねると、三度目でジェイドの手に遮られる。
「僕達、いくつだと思ってるんですか」
「嫌なのか?」
「まさか」
 止める気もない手を避けて、唇を触れ合わせる。ジェイドは目を細め、黒髪を鬱陶しげに耳に掛けた。恐らく、これは二人のファーストキスだった。

 ◇

「お前の紅茶が飲みたい」
 人通りのある街中まで出てきたところで、ふとアズールは思い出したように言った。海の中にドリンクは無い。まして紅茶なんて温かい物は存在しなかった。ジェイドは困った様に微笑んで、辺りを見回す。
「茶葉と水、ポットと、コップがあればいいですか?」
 雑貨屋に目を遣りながら問うと、ジェイドは可笑しそうに笑って、「ええ」と頷いた。

 宣言通りの四つを揃えて、街中の公園に足を踏み入れる。新緑の香りが鼻腔を擽って、春の訪れを主張する。木の下に設置されたベンチに腰掛ける。ジェイドは袋からペットボトルの水を取り出して、手をかざす。プラスチックの容器が温度変化で凹んだ。腿に広げたハンカチの上に安物のポットを置き、蓋を開けてペットボトルから熱湯を注いだ。それから数回ポットを振って中身を捨てると、簡易的なティーパックを入れ、再度熱湯で満たした。そこに蓋をして、息をつく。
「三分ほどお待ちください」
「ええ。……その間、手を借りても?」
「いいですよ」
 ジェイドは目の前でふらりと手を揺らす。冗談のつもりだろうとは、その笑顔が物語っている。しかしアズールは「では」とその手を握った。虚を突かれた表情のジェイドが、自らの手の行き先を見守る。アズールはただ手を繋いで、握った。指や爪の形を確かめるように触れて、握る。小さな脈を確かめるように、掌を合わせた。今でもジェイドの方が手は大きかった。
 顔を上げると、口を歪めて顔を逸らすジェイドが見えた。じっとポットを見下ろしている瞳には、悲しみが揺らいでいる。
「ジェイド」
「……はい」
 頬に触れると、彼はアズールの方を向く。腰を上げて、その額に唇を落とすと、彼はまた眉を下げて微笑む。あやすように何度もそうしているうち、ジェイドが繋いだ方の手を強く握った。合図と取って離れると、少しほっとしたように息を零す。
「コップを持って頂けますか?」
 紙コップを手渡して、ジェイドはふいと顔を背け、ポットを見る。表情の見えない横顔には、悪い感情は見えなかった。安堵しながらコップを差し出すと、ポットを軽く揺らしながら、ジェイドに淹れたばかりの紅茶を注がれる。黄金色の水がとぽとぽコップに溜まっていく光景が、ひどく懐かしい。陸に上がってから、ジェイドの特技になったこれは、いつでもアズールのために使われていた。それが今になっても変わらない事が、目の前で証明されている。熱くなっていく紙を支えながら、笑顔が溢れるのを止められなかった。
 ポットが離れたコップを口元に引き寄せる。インスタントでも、最近は随分と良い香りがするようだった。花のような匂いが広がっていく。躊躇わずに口を付けると、あの頃と変わらない風味が舌に乗った。
「美味しい」
「それは良かった」
 笑いながら、ジェイドはアズールの方を見る。今までの数十年間の流れの中で少しも変わらないのは、二人の時間だけだった。そう信じたいだけなのかもしれない。変わらないのだと甘えて、ずっとその視線をただ受け止めていた。
 後悔、という言葉がふと浮かぶ。黄金の水面を見下ろす自分の顔はくぼんでいた。隣を見上げれば、変わらず真っ直ぐに自らを見つける綺麗な目があった。緩やかに弧を描くその口元を彩る笑窪へ手を伸ばし、撫でるように触れる。刻まれた皺だけが、彼の変化だった。そしてそれは、きっと自分も同じだ。
「……ジェイド、」
「ええ、アズール」
 名前を呼ぶ、その先の言葉が届く前に彼は目を閉じた。空にしたコップをベンチに置いて、痩躯を抱きしめた。

 ◇

 カウントダウンをして、服を脱ぎ捨てながら二人で暗い海に潜った。春の海は少しだけ温かいが、陸の陽気に比べれば随分と冷たい。それは人魚にとっての適温だった。
 頼りなく尾鰭を揺らすジェイドに手を引かれて、動きの鈍くなった手足を投げ出す。伝わる体温は随分低く、脈はゆっくりと伝わっている。
 故郷ともつかない海の底で、ジェイドはぱたりと体を倒した。「疲れました」と笑いながら横たわる姿は、干からびる前の魚みたいであるのに、アズールの目には世界で一番美しいものに見えた。
「ジェイド」
 呼ぶ声に彼は笑顔で応える。笑窪に指を沈めて、口付ける。くっつけた心臓は脈打っている。鋭い彼の指が柔らかくアズールの背を撫でる。
「愛してる、ジェイド」
「ええ、アズール。僕もです」
 瞼が重い。体中が麻痺したみたいで心地良い。全身で触れる体温も、力なく笑う顔も、泣きそうなくらい愛おしかった。
 弱い脈拍を重ね合わせて、砂の上で息をする。呼吸が重なる。遠くでクジラが鳴いている。眠りかけていたジェイドが薄目を開いて、空を指した。
「綺麗ですよ、貴方の目みたいで」
 掠れた声が愛を告げる。アズールは空を見て、それから、ジェイドの方を見る。ぼやけた視界に映る最愛の笑顔が、昨晩見た顔と重なった。
 後悔がないかと聞かれれば、またきっと首を振ってしまう。それでも、昨日よりはマシな顔で逢いに行けるはずだと思う。
「ジェイド、」
 アズールは随分気怠い口を開けて、愛を返そうとした。しかし、言葉は続かなかった。この感情を示す言葉は、この世界のどこにもない。途中で考えるのを諦めて、微睡に沈んでいく体を抱き寄せた。

 ◇ ◇ ◇

 真っ白なテーブルの上、珊瑚の真上に幼馴染が肘を置いている。綺麗な柄を気にもしない姿を咎めようかと思いながら顔を見たら、すぐに行儀良く腕を離した。
「おかえりー。やり残した事、できた?」
「少しは」
 ぼんやりと揺れるランプの光が、楽しそうなフロイドの顔を照らし出している。正直な答えを告げると、彼はちょっと不満げに頷いた。
「ふーん。ジェイドは?」
 それから、彼の優しい黄金色がアズールの横を見る。ゆっくりと目を開けたジェイドは、フロイドと目を合わせ、それから少し考える素振りをした後で「ええ」と笑う。
「充分です」
 そして、フロイドは初めて満足そうな笑い声をあげた。そのときキッチンの音が止んで、ふわりと美味しそうな香りが漂ってくる。アズールの大好きな匂いだった。

 

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