未明の彗星 - 1/4

 

 ――千年に一度の彗星がやってくる。
 朝の報道番組や新聞の一面にも飾られたその一大ニュースは、世間を賑わせていた。時期や観測スポットなどの特集が、意識せずとも目に入ってくる程だ。人生に一度きりの機会ともなれば沸き立つのも当然といえるだろう。
 スマートフォンの液晶をスワイプしてネットニュースの記事を追う。大きく目立つフォントで表現された予報日は本日を示していた。ジェイドは視線を文字の羅列から外し、目の前で水だけ飲んでいる幼馴染の方へと向ける。朝食時の食堂は清閑で、僅かな嚥下の音すらも耳に届く。彼の喉が上下する数秒間、閉じられた薄い瞼を見ていると、鬱陶しげに持ち上がって暗い空色がジェイドを見た。
「彗星、今日らしいですよ」
 間髪入れず用件を簡潔に述べてやると、眠気に澱んでいた瞳がぱっと光を灯す。
 当初、ナイトレイヴンカレッジにおいては世間とは違い興味の濃淡から点々と噂話が聞こえる程度であった。しかし観測時期の予報が発表された直後、世間の流れに乗るかのように学園内でも一世を風靡する話題と成り代わった。その理由はただ一つ、観測スポットの一つとして賢者の島が推奨されたからだ。
「時間は? 予定通りですか?」
「ええ。午後6時から、西の空にて観測可能だそうです」
「6時か。補習さえ無ければ、手が空いている従業員も居るでしょう。ふふふ……忙しくなりますよ!」
 もちろん、目の前で金勘定を始めたアズールも、横でパンを齧りながら微睡んでいる兄弟も、御多分に漏れず全くの無関心だった。先の事情により、アズールはその話題性に着目した金の気配に一転、現在はこのようにジェイドと別方向に興味関心を抱いている。しかし重たい瞼と格闘しているフロイドの方は変わらず、全く興味がないようだ。
「ドリンクとフードの販売、観測キットの頒布……少なく見積もっても五人は必要でしょうね。そうなると……フロイド」
「……え、やだ」
「今日は暇だと言っていましたね」
「やだって言ってんじゃん!」
 重力に耐えかねていた瞼も大きく開き、椅子を引いてアズールから距離を取った。アズールが何を云わんとしたのか、皆まで言わずに伝わったらしい。彼は聞こえるような舌打ちと共に、行儀悪く頬杖をついて目を逸らした。
「今日は用事があんの!」
「そういえば昨日から言っていましたね。確か……放課後は中庭でお昼寝をする、でしたか?」
「あ!?」
 ちょっとした悪戯心、加えて全否定的な態度への仕返しで、昨日中に何度も聞いた”予定”を口にした。すぐさま反応したフロイドを前に、アズールの眉がぴくりと動く。
「へえ、お昼寝を! それは素敵なご予定です! なら西の海岸もお勧めですよ、ねえ?」
「あーあ……分かったよ。めんどくせー……」
 ジェイドの言及に乗っかって満面の笑顔を浮かべたアズールに、フロイドはとうとう諦めの表情を見せた。半分になった朝食を咀嚼しながら、不機嫌に口を尖らせる。子供っぽい表情に反して、少し伸びた爪で机を引っ掻いている。ジェイドがそれとなく手に触れて静止すると、落ち込んだような目で彼を見た。
「まあまあ。仕事終わりにアズールが何でも作ってくれるそうですから」
「マジで? 何でも? じゃあたこパしよ!」
「言ってません。お前が作ってあげればいいじゃないですか」
 好物の名前に釣られたのか、明らかな嘘に面白がって乗ったのかは不明瞭だが、機嫌の上がったフロイドに安堵する。当然ながらアズールは否定の言葉を述べ、ジェイドを軽く睨む。戯れの鋭さに怯むべくもなく、ジェイドは完食した皿の上に使用済みのカトラリーを添えた。
「僕は本日、とても忙しいので……」
 それから”申し訳ない”という相好を貼り付け、いつもの声色で言う。再度睨みが飛んでくるかと予想していたが、アズールは空になっていたコップをくるりと回しながら、素の表情で「ああ」と頷いた。
「分かっていますよ。僕だって趣味の時間くらい尊重します」
「ありがとうございます。貴方の慈悲に感謝いたします」
「……ねぇ、オレのたこ焼きは〜?」
「僕とアズールが作りますよ。ね、アズール」
 フロイドの殻にしたパンの袋を畳みながら、ジェイドは微笑する。アズールは眉根を寄せて、何も言わず雑にコップを持ち、代わりの溜息を置いて席を立った。
「ふふ……」
「何ですか。気味が悪いですよ」
「いえ。アズール、もしお暇でしたら一緒に彗星を観ませんか?」
 口元の緩みを広い手で覆い隠しながら、軽薄に、しかし慎重に提言する。浮ついた声色を隠しきれないそれに、アズールより先にフロイドが呆れ顔を作る。
「僕はいいです。天体には興味が無いので」
「そうですか……残念です。でも気が向いたら、いつでもお越し下さい。『西の海岸沿いにある丘』ですよ」
「……丘? 海岸じゃないんですか?」
 事前の予報や情報番組では、賢者の島観測スポットは『西の海岸』と報道されていた。だから当然、彗星を観測するギャラリーは海岸その場所に集う。アズールの浮かべた疑問は尤もだった。ジェイドもひとつ頷いて、にこやかに答える。
「島の地形と彗星の方角から考えると、そこが最適なんです」
「ま、外部のやつらはちっせー丘とか知らねーだろうしね」
「そういう事ですね」
「ふむ……」
「おや、ご興味がおありで?」
 アズールはジェイドの解答に対し思考する素振りを見せる。機を悟り素早く問い掛けると、彼は不遜に首肯した。そして再び、瞳を一層輝かせてにやりと笑った。
「もちろんです! その情報、どれだけの生徒が欲しがっている事か――」
「あ、駄目ですよ」
 提案の途中で遮り否定を述べると、出鼻を挫かれアズールの爽やかとは遠い笑顔が散った。
「……何故? 折角の商機だというのに」
「僕、静かに観測したいんです。折角、千年に一度のものが観られるんですから」
 真面目に詰る彼へ儚げにそう言ってみせると、苦虫を噛み潰した顔で黙り込んだ。もごつくアズールの口元は、「……仕方ない」とだけ呟いた。
「もちろんアズールとフロイドは別ですよ。二人を待っていますね」
 平常通りに平坦な声と笑顔でジェイドは告げる。アズールはそれに一瞥を寄越して目を逸らし、フロイドはにこりと微笑んで言う。
「仕事終わって気が向いたらね。アズールは?」
「……手が空いたら行きます。何事にも経験は必要ですから」
「はい。楽しみにしています」
 パンの空袋で綺麗な結び目を作り上げると、片手を胸に当てて大仰に述べる。アズールは「はいはい」と流すように言って、そのまま席を離れていった。

 ◇

 放課後を示すチャイムが鳴り響いた。それを合図に、ジェイドは荷物をまとめて教室を後にする。時間としては17時、予定時刻より一時間程度の余裕があった。廊下には急ぎ足の生徒がちらほらと見られる。普段であれば、彼らは部活や補習で急いているのだろうと考えるが、聴こえてくる「あと一時間だ」「場所を取らないと」「西の海岸だぞ」などという会話から目的は明白だった。しかしジェイドは急ぐことなく、普段通りの足取りで校舎から出て、鏡舎ではなく、植物園の方へと足を進めた。
 観測場所は、恐らく誰も知らない場所を選んでいる。急いで場所を取る必要性はジェイドに無かった。早めに着いて待っていた方が、誰かに勘付かれてしまう可能性を孕んでいる。加えて、一週間ほど前に収穫した新種の植物には世話が欠かせない。そういった事情から、ジェイドは残りの時間を水遣りで潰す事にしていた。
 慣れた道を通って植物園に着く。まだ明るい空のためか明かりは付いていない。そのまま扉を開け、ジェイドの借りたスペースへ足を運ぶ。軽く魔法を使って実験着に着替えると、数日前に芽生えたばかりの花や、原木に定着を始めた菌類が細やかに並ぶ空間で腰を落ち着かせる。
 基本的には静かな時間を過ごす事を好ましく思うジェイドにとって、そこは安息だった。近くを活動場所としているサイエンス部も無用な干渉は行ってこない。現れるとしても、時間を忘れて作業する自分を探しに来る二人だけだ。悠然と息をついて、それから手入れ用のセットを手に取った。

 花に水を遣り、雑草を取る。そして元気を取り戻した鉢を眺めて数十分。はたと時計を確認すると、17時50分を指し示していた。案の定、時間を忘れていた事に少し焦りながら、出していた道具をケースに収め、鉢を棚へ戻す。ざっくりと机を掃除してから、再び制服へ着替え直した。それから、勝手に置いておいた望遠鏡を肩に担ぎ、やっとその場を後にする。
 外に出ると、すっかり日が傾いている。ただの一時間で様相の変わってしまう空は非常に面白い。現在は姿を見せない星が、あと10分もしない内に輝き始めるというのも興味深い。自然と弾む足を誤魔化しながら、鏡舎の方へと方向転換した。
 鏡舎は生徒達で賑わっていたがピークは過ぎていた。彗星に興味のない生徒が寮への鏡を通っていくのが殆どで、解放中の闇の鏡に先客はいない。普段の放課後よりは少し静かで、ほんの少し賑やかな校舎の音を聴きながら、海岸を願って鏡に触れる。

 ピリ、と脳が光を感知した次の瞬間には潮風に触れていた。夕方の海は橙色に染まり、その身に傾いた太陽を映し出している。煌めく波はまるで星々を内包する夜空のようだった。
 いつも閑静な海岸付近には、今日は特別に多くの人影があった。ナイトレイヴンカレッジの制服を身に纏った、どこか見覚えのある彼らと、スーツやカジュアルな服に身を包む見覚えのない一般客が入り混じり、皆一様にまだ何もない空を観ている。ジェイドはそれを一瞥して、すぐに踵を横に向けたが、「ジュース一杯百マドルでぇす」と覇気のない売り子の声が聞こえて思わず脚を止めた。
 海岸の人ごみの中でも頭ひとつ抜け出た顔はすぐに見つかる。昼寝を予定に入れていた時間であるせいなのか、やたらと眠たげに瞬きをしながらドリンクサーバーを背負っている。見ているとばちりと視線が交わった。軽く手を振ると、機嫌悪く舌を出されてしまった。ぷいっと逸らされた顔に苦笑しながら、胸中だけで声援を送り、今度こそ体の向きを変えた。

 海岸から5分程度の距離を歩くと、小高い丘に辿り着いた。山の裾野が近いこの場所は、ジェイドのお気に入りだった。風はいつでも冷たく、見上げた空はいつでも美しい。何よりここは静かだった。
 望遠鏡を緑の上に下ろして、手慣れた動作で組み立てる。軽くレンズを覗き込みながら位置とピントを調整する。あと5分以内に予定時刻になる。しかし予報は予報、少しくらいずれ込むのも当然だと知っているため悠長に準備を整える。
 まだ彗星のいない暮れかけの空には、白い月が薄らと浮かび上がっている。一番星も出ていないぼやけた橙色をレンズ越しに眺め、調節ネジを回した。
 そして漸くぴたりとピントが合った。一度望遠鏡から顔を離して、ポケットから取り出してスマートフォンを確認する。17時59分。あと1分で予定時刻になる。ジェイドは空を見上げた。5分前よりも空が暗くなった気がする。月も少し濃くなって存在を主張し始めている。太陽と月が同居するこの時間は、少しばかりの特別感が好きだった。
 秒刻みになった彗星の出現を待ちながら、不意に既視感を覚えた。千年に一度を見る機会などあるべくもない。しかし、こうして空を見上げながら何かを待つという時間が、どこか懐かしく思えた。その答えが見つかるより先に、セットしておいたアラームが鳴る。見上げていた空はとっぷりと落ちて、星がぽつりと浮かんだ。
「……あ」
 ぼんやりと、その空の真ん中に何かが横切ってきた。それは星のようで、月にも似ていて、しかしそれ自身から伸びる青白い尾がそれを否定している。白っぽくも赤い輝きを放つ天体が、緩やかに夕方の空を横断している。
 彗星だった。
 予定時刻ぴったりに合わせて出現したそれに、ジェイドは望遠鏡の存在も忘れてただ見惚れてしまった。滲むような光を纏ったそれは、どの星よりも強い輝きを宿していた。素直にその光は美しいと思える。そんな未知の光に、また微かな既視感を得る。
 そして、思い出した。昔にも彗星を観たことが一度だけあった。幼い頃の事だったからか、あまり鮮明な記憶ではない。しかし、脳裏に浮かんだ光景は鮮烈という他無い。
 今目の前にある彗星は、美しい赤い星だった。穏やかに進む天体は、どこまでも目を奪われる。それでも、記憶に残る彗星は、何故だかもっと美しいものであった気がする。思い出としてのある種の補完が為されているせいだろうか。求めていたはずの光景に集中できずに、ぼんやりとそんなことを考える。
 海岸の方を見れば、面倒そうに欠伸をするフロイドが見えた。仕事が終わったら来ると言っていたが、あの様子では寝に帰ってしまうだろう。そうなれば、疲れ切って機嫌も悪いであろうアズールと星を見る事になるのか、と考えて笑う。星に興味のない彼は、いつでもそれを隠さない顔で星を観ていた。それがジェイドは何だか面白くて、彼がいくら悪態をついたとしても、一緒に観る空が嫌いでは無かった。
 思い返せば、あの彗星も彼と観たのだったか。曖昧な記憶をひっくり返して探りながら、燃え盛る彗星の向こう側を眺めた。

 不意に思い立って、スマートフォンを空に翳す。内蔵されたファインダーの中には、暗い空と赤い星が映っている。軽い電子音の後で、小さな画面に目の前の景色は切り取られる。一枚の写真になった彗星を満足気に眺め、おやと思う。切り取った空の中に、見覚えのある星がある。白く明るいその星の名前を、知っていた気がする。しかし、どうも思い出せない。
 思い出すのを諦めて、インターネットで調べようとしたが、止める。そのままメッセージアプリに遷移して、今し方の写真をアズール宛に送った。横にある星の名前を知っていますか、と添えたメッセージは、すぐに既読が付いた。知ってる、と短い返事が返ってきた。

 ――そこで、けたたましい警報音が島中に流れだした。
 本能的に体を硬直させて上を見る。警告を示す電子音が割れんばかりに響く中、マイクをオンにするスイッチ音がひどく耳に付いた。
『皆さん、落ちついて聞いて下さい――』
 それは学園長の声だった。警報は学園から聴こえてくるようだ。校舎の方は分からないが、海岸付近にいた生徒達は酷く騒めいている。彼らも何が起きているのか想像しきれないで、茫然と上を見る。その中で、自棄に落ち着き払った学園長の声が響いた。
『現在、この星に隕石が向かっているという報道がありました。正確な時刻は不明ですが、今にも――例の彗星の影響か――いつ衝突してもおかしくはないそうです』
 隕石が衝突する。反響して霧散していく音素の中でも、それだけ理解する事が出来た。そして、世界から音が消えた気がした。それはつまり、学園長の口から紡がれる言葉の全てが示すのは、間に合わなかったという事実。
 この星が滅ぶという、純然たる事実だった。
『闇の鏡を解放しました。自由に使って、皆さんの故郷へ避難して下さい。繰り返します――』
 弾かれたように、その場へ縛り付けられていた生徒達が一斉に走り出した。彼らの行き先は見るまでもない。ジェイドも当然、それに続くべきだった。それなのに、その足は未だ動かなかった。
 ジェイドは黙って、散り散りに消えていく生徒の背を見送って、それから静かな空を見る。まだ彗星はそこにいた。煌煌と尾を伸ばしながら、空を蹂躙する美しい輝き。すべての終わりを象徴する神々しさだと思った。
 それからすぐに、暗がりの空の中に、無数の光が浮かび上がる。それは彗星によく似ている。真っ赤な尾を引いて、ゆっくりと、しかし確実な動きで、大きくなっていく。その正体は考えずとも分かる。そして、その行き先も、末路も、聡明でない頭であろうと理解できただろう。
 星が落ちてくる、なんて夢想した事は幼いころに何度もあった。手を伸ばしても届かない美しさは、それでもたまに、小さな世界に閉じ込めたい時もあった。星は宇宙の塵で、燃えているもので、落ちてくる事はないのだと知ったのはいつだったろうか。落ちてくるのは綺麗な塵ではなくて、あの烈しい塊であると知ったのは、いつだろうか。
 無数の光に目を奪われ、恐怖ではない何かに支配される。彗星は未だ、暇を持て余すように空を泳ぐ。まるで魚のようだ。

 動かないジェイドの方へ、ひとつだけ足音が近付いてくる。焦ったように乱れたそれは、一年間で耳慣れた物になっている。そちらを見れば、やはりフロイドが駆け寄ってくるところだった。額に浮かんだ汗を拭って、フロイドがジェイドの腕を掴む。
「何してんだよ、ジェイド! 早く戻ろ!」
「海にですか?」
「そうだよ! 陸で死ぬのを待つより絶対マシ。早く!」
 腕を引くフロイドは、真っ直ぐにジェイドだけ睨む。ジェイドは掴まれた腕を軽く捩って手を握り返し、すぐに頷き走り出そうと思った後で、ふと思考する。
 このまま海へ逃げ帰って、そこで得られる終末とは何だろうか。冷たい深海の底の底で――もしかしたら隕石の影響で熱くなっているかもしれない――血を分けた生き物達と温もりを分け合って、いつ訪れるか知れない終わりに怯え、死を待つのだ。救われようと祈るばかりで、それが幸福な終わりだと思えるだろうか。こんな迷いを抱いてしまった時点で答えはノーだ。握ろうとした手から力を抜く。どうせならば、終末の瞬間をこの目に焼き付けて死に行く方が幾分か面白い。
 それに、もしもこの手を取って逃げ出した時。ここに誰もいなくなって、それでも律儀な彼がいつものように探しに来たら。
有り得ない仮定だなんて分かりきっていた。彼がそんな不合理な事をするはずはない。今だって、とっくに故郷へ帰っているに違いない。
 口約束なんて、守るに値しない無意味な物だ。あんなものは約束ですらもない。
「ジェイド!」
 少しの間迷っていたジェイドは、目を伏せ、やんわりとフロイドの手に触れた。
「先に行って下さい。僕はあと少しだけ、彗星を観てからにします」
「は?」
 そっと告げた言葉を聞いて、フロイドからか細い息のような声が聴こえた。するり、と掴まれていた手が落ちる。顔を上げれば、目の前には泣いてしまいそうな、絶望感や諦観に似た感情を混ぜたような、見覚えの無い兄弟の顔がある。『なんで』という問いはそこに無い。彼はただ堪える様に鋭い歯で薄い唇を噛んで、零した血を手で拭う。
「……馬鹿じゃねーの?」
「フロイド」
 名前を呼んでも返事はなく、強くジェイドを睨みつけた後、フロイドは両腕を伸ばしてジェイドに絡みつく。幼い頃を思い出す接触に、知らず強張っていた身体から緊張が薄まっていく。彼は黙ったまま、縋り付くように背中側のジャケットを握る。ジェイドも震えそうな手を制して、彼の背中を撫でた。
 運命を無理強いするつもりは少しもないから、一緒にどうですか、なんて冗談でも言う気はなかった。家族思いな兄弟を、好奇心と少しの感傷で縛り付ける事はしたくなかった。その考えが正しいのかは、判断が付かない。
「一人で死んだら、二人の事、一生許さねーから」
「……はい」
「気が済んだら、すぐに来いよ」
「はい、もちろん」
「…………バーカ!」
「すみません」
 少しだけの沈黙の後、折れんばかりの抱擁が離れた。それから、フロイドはジェイドの顔を見ずに背中を向けて駆けだした。小さくなっていく片割れの背中を暫く見つめ、ふと海岸の方へ目を向ける。倒れたドリンクサーバーから際限なくジュースが零れている。砂をしとどに濡らす色水を眺めて、流石の彼もこの状況で咎める事はないだろうな、と意味もなく思考した。

 

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