駆け引きと硝子玉

 

 頬に沿って落ちていた髪が浮き上がる感触がして、鬱陶しく思いながら顔を上げた。正面から温い風が突風のように吹いてきたのに驚いて、顔を手で庇うと小さな笑い声が横から聞こえた。じとりと睨むと、何のダメージもない笑顔が返ってくる。それを見ると何となく恥ずかしくなって、誤魔化しで咳払いをした。
「……最近はようやく温かくなってきましたね」
「そうですね。暦の上では春ですから」
 それだけ言って、ジェイドはまた前を向いた。その横顔はからりとしていて、何の衒いもない平常の彼だった。面白くないと思いながらも、何を言う事もなく、アズールも前を見る。本校舎前からは、コロシアムがよく見渡せる。数日前の『ハッピービンズデー』で、同チームであったルークから教えられた情報である。当日は死闘の様子が見えたものだが、平日のコロシアムは、いくら見下ろそうと後片付けの気配しか見えない。
「それで?」
 革靴の先でタイルの地面を軽く叩き注意を引く。横目で隣を確認すれば、ジェイドはきちんとアズールの方へ目を向けていた。満足を以て視線を戻そうとしたが、その手に大切に握られたものがうっかり視界に入ってしまい口をゆがめる。
「……憂さ晴らしでもしに来たんですか?」
「憂さ晴らし……とは?」
「やっぱり僕に負けたのが悔しくて、この場所へ連れてきて……」
 自らの身を護る様に腕を組み、ジェイドを軽く睨みながら推測を述べる。言いながら、自分でも”無い”と思って一度言葉が途切れる。ジェイドは何も言わず、とりあえずアズールの推論を最後まで聞く姿勢をとっているので、仕方なく続きを口にする。
「……その不快な”自慢話”を続ける気なんでしょう?」
 全て言い終わって、まず気持ちが落ち込んだのはアズール自身だった。どこまでも下らない感情で、論理的では無い事柄を口にしてしまった事への後悔と、それが事実であった場合を考えて沈む感傷があった。内心で恐々とするのを隠しつつジェイドの方をもう一度見れば、面白そうに聡明げな切れ目を細めていた。
「アズールには、”これ”がご不快なのですね。てっきり、どうでもいいのかと」
 大袈裟に口元を覆って言うジェイドに、アズールは言葉を詰まらせる。それへ返答するための理由を現状では持ち合わせていなかった。気まずげに目を逸らすと、ジェイドはくすりと笑って、コロシアムへ向いていた体をアズールの方へ向けた。思わず視線を戻せば、彼は凪いだ目でアズールを見下ろしていた。
「僕は別にこちらを自慢したくて貴方へ話したわけではありませんよ。万が一、貴方が『欲しい』と仰れば渡すつもりでした」
「……そうですよね。お前はそういう奴ですよね」
「安心して下さって結構ですよ」
「誰が」
 ジェイドの薄い手のひらに、深緑の宝石が乗っているのが見える。アズールの視線が向いたのを察したのか、彼の手がアズールの方へと向けられる。角度が変わった宝石の表面を陽光が照らし、眩しく反射した。反射的に目を閉じながら彼から顔を逸らした。

 彼の手にそれが渡されたのは、二日前だったらしい。『らしい』と言うのはその光景をアズールは実際に見ていないからだった。昨日になって、定例であるラウンジの業務報告の後で、思い出したかのように彼は話した。
 ――同じ二年生で、隣のクラスの、ポムフィオーレ寮生。美しい物が好きなその男は、Jadeの名を冠する宝石をジェイドに贈った。”言い訳”としては、魔法薬学のアドバイスをくれたお礼だと言っていたという。
 話を聞いてすぐにアズールはそれがどういう意味を持つ贈り物であるのかを理解した。ジェイドならば、それに気付かなかった筈はないだろうと思う。だからこそ、その行動の意図が嫌がらせやそれに類するものだと考えたのだ。
 尤も、先程の問答で彼には嫌がらせになる可能性が頭になかったようだと判明したが。

 当時を思い出して気が重くなり溜息をつく。その肩をジェイドの指先がとんとん、と叩いた。瞼を軽く上げてそちらを見れば、柔らかく微笑んでアズールを覗き込む顔があった。驚いて後退る。彼は特に追い掛けず、そのまま指先を前へと向けた。無意識にそれを追って見れば、何もないコロシアムが見えた。
「どうしてここへ来たのか……でしたね。ええ、もちろん先日の事が悔しかったからです。だって……」
 ふ、と息が抜けたかと思うと、ジェイドの笑顔が風のように消えた。反応する間もなく、彼はアズールから距離をとる。
「貴方は僕を捕まえなかった、つまり僕達の勝負は付いていません!」
「……はぁ!? 何言ってるんですか、そんな子供みたいな!」
 呆れて叫ぶも、彼は表情を変えなかった。数歩先で、ジェイドの腕が軽く振り上げられる。咄嗟に両腕で自らの顔を庇った。すると、また笑い声がした。それから手の甲に硬い物がぶつかった。
「――はい、怪物さん一人脱落です」
 冷静な声の宣言と同時に、がしゃん、と足元で何か砕ける音がした。顔を隠していた腕を避けて見ると、ジェイドはとても清々しい笑顔を見せていた。怪訝に思って足元を見遣ると、アズールのつま先の回りに深緑色のガラス片が散らばっていた。
「……どういう事ですか?」
「つまり、そういう事ですよ」
「誤魔化さないで下さい。告白されたのは嘘だったという事ですか」
「違いますよ。ああ、いえ、そうですね……」
 ガラス片をちらと一瞥して、ジェイドはまた笑った。鋭い歯が恐ろしげに覗く。その笑顔は、嫌いじゃないと思った。
「所詮、その程度だったという事ですよ。彼の腕も、その想いも……ね」
「……なるほど。それは残念でしたね」
 眼下に広がる破片はあまりにもチープで、確かに、こうして使われた方が有意義だったろうと納得した。アズールは思いきりそれを踏みつけて、踵で磨り潰す。二日間の鬱憤をガラスにぶつけた。ジェイドはしきりにくすくす笑いながら、「アズール」と柔らかく声を出す。
 顔を上げた時、もう一度温い風が吹き抜けていった。目の前でジェイドの髪も巻き上がって、整っていたそれも崩れてしまった。彼はそれを直そうともせずに、破顔した。途端に、アズールは負けを悟った。肩の力ががくりと抜けて、それから、アズールも笑いが零れる。
「僕の勝ちですね」
「はいはい。僕の負けですよ」
 風に乗って、いつの間にか足元の砂は綺麗さっぱり無くなっていた。コロシアムのほうへ流れていったのだろう。そちらへ一瞥をくれてやってから、くるりと踵を返した。この男が欲しいのは美しい物ではないと、アズールは良く知っている。視線で促せば、楽しそうに後に続いた。さて、どうやって次はこいつに勝つべきかと思案しながら、期待したような満面の笑みを睨みつけた。

 

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