それは、ほんの戯れ程度の会話だった。年頃の男子生徒達が抱える恋愛の悩みに触れて、恋とは、愛とは何かと、僕達は酷く純然な疑問を抱いた。
「そういや、ママに大人になったら分かる、って言われたことあるよね」
綺麗に焼かれた青魚に齧り付きながら、フロイドはそう言った。横目で彼の兄弟に視線で会話の矛先を投げかけて、眠たげに笑う。ジェイドはそれに頷いて、リゾットにスプーンをくぐらせる。僕の物言いたげな目に気が付いたらしく、彼は目線をこちらへ遣って微笑した。
「ミドルスクールに通う前、同じ疑問を持った事がありまして」
母へ質問した事があるんです、とこともなげに彼は告げる。それへ到達するまでの経緯について考えてしまいながら、へえ、と興味を示さないように頷いた。
「でもさぁ、大人っていつなるの? 相談してきた奴らはもう知ってるって事じゃん。オレらって、大人?」
魚の尾まで噛み砕いて、フロイドはぽんとフォークを投げた。
「そんな事をしているようでは、まだまだ子供だと思いますよ」
「はぁ~? アズールだって子供じゃん」
「あなたよりはよっぽど大人らしいでしょう」
「じゃあ、レンアイのこと知ってんの?」
どうでもいい言葉の遣り取りだった。それこそ、どこまでも稚拙な言い合いにも満たないもので、簡単に乗せられた。
「ええ、知っていますとも!」
とっくに空になった小皿にフォークを叩き付けて、わざと堂々と宣言した。虚勢を張るならば、自信の無さを見透かされてはいけないと知っていたからだ。しかしながら、目の前の二人にそれが通用しないことは、言ってから気が付いた。
「へえ~、そうなんだぁ」
にやにやと愉快を隠さずに細められたフロイドの目を見て、過ちに気が付いた。ちらと横へずらした視界には、口元を隠しながら同じく笑う顔が映った。
すぐに頭を回して、言葉の概念について知っているだけです、と誤魔化そうとした。しかし、それは口を開く前に遮られた。
「では、ぜひ僕達に恋愛をご教授下さい」
「は?」
「もちろん、今すぐにとは言いません。色々と準備などあるでしょうし」
兄弟と顔を突き合わせて、くすくすと笑いながら言う彼は、なにもかも本気ではなかった。勢い余って言葉にした僕を揶揄っているだけの、言ってしまえばいつもの言葉遊びだ。愉しげに僕の答えを待つ二人は、肯定も否定も期待していない。僕がどう出るか、見ているだけなのだろう。
そして、その時の僕は、その場で強く否定したり誤魔化したりする気分では無かった。それが最たる原因だった。
「いいでしょう」
一週間。適当に見繕った期間を告げると、二人は面白そうに目を丸くした。
しかしながら、僕は恋愛など経験した事はなかった。誰かへ感情を向けた事も、向けられた事も一切無い。それはあの二人も、少なくとも前者は同様だった。冷静になって考えてみれば、実に阿呆らしい約束をした。何の利益もない、ただの児戯。それでも投げ出せるほど、適当にはなれなかった。
一日目は書籍やインターネットで調査して、二日目は相談者に経過を問い質して、三日目はそれらをまとめたレポートを書き、恋愛に関して哲学をした。そして、その段階で無意味さに気が付いた。調べた知識について講義しても、あの二人から返ってくるのは興味の無い反応か、”やっぱり知らないんじゃん”という言葉だ。何の意味もないけれど、あの二人の鼻を明かしたいような気分だった。
そして、考え抜いた結果、思いついたのは経験だった。
「……え? 今、なんと?」
業務報告に訪れたジェイドを引き留めて、カレンダーを指で叩く。
「ですから、デートですよ。それくらいは知っているでしょう」
「存じ上げております。なので、こうして疑問に思っているのですが……」
困惑を示す表情はどこまでもわざとらしい。それが本心である事は、長い付き合いゆえに理解はできた。後ろでソファーに寄り掛かりながらこちらを見ているフロイドも、不思議そうな顔をしていた。
「恋愛について教える、その一環です」
正直に言えば、感情を他人へ教授するなんて不可能に近い。それを本人が経験しなければ、いくら言葉を尽くそうが、行動で示そうが、真の理解は難しい。だからこそ、二人には経験を渡すのが最適解だと思いついた。
ジェイドは暫し僕を見て、それからフロイドを見る。フロイドはジェイドを見て、それからアズールの方をもう一度見た。
「どっちと、すんの?」
「どっち、とは?」
「だって、デートって二人でするんでしょ?」
思わぬ角度から切りかかられて、思わず動揺した。それは彼の言葉が正しいからであり、そして正論を受けて自らの提案を恥ずかしく思ってしまったからだった。普段通りの買い物や遊びではない、別の感情を獲得するための行為。それを改めて突き付けられて、言葉に詰まる。
そんな僕の沈黙をどう解釈したのか、ジェイドがおもむろに「では」と口を開いた。
「僕とフロイドで、何か賭けをしましょう。それで勝った方が恋愛を教えてもらえる、というのはいかがでしょう」
「いいじゃん、面白そー」
ジェイドは食えない笑顔のままでコインを取り出す。手の甲に遊ばせながらそれを乗せて、フロイドの方を見た。彼はソファーを立って寄ってきて、ジェイドの手元を覗き込む。
「あ?」
小さく疑問符を発しながら、フロイドは首を傾げる。それからじっとコインを見つめて、へらりと笑う。その意味が分からずに、僕は怪訝にフロイドを見る。
「コイントスってフツーじゃね? 他のもんにしよ、例えば……デートの日の天気とか!」
彼の突飛な提案を聴き、先程の笑みを理解できた気がした。いつも通りの、気分の上下だったのだろう。それをジェイドはちらりと横目で流し見て、またにこりと微笑み、頷いた。
「じゃあオレは『雨』ね」
「では、僕は『雪』で」
そうして決まった賭け事は、僕の口を挟む余地すらなかった。
◇
あの提案から一週間が経った約束の日、真っ先に僕は窓を見た。海越しに見える空には、暗雲が立ち込めていた。間違いなく雨が降る。そう思った時、何故だか迷いなくジェイドに電話を掛けていた。繋げる電子音を聴きながら、フロイドを起こしてくれと頼めばいい、と迂遠な事を考える。ジェイドを待つ時間でペンを振って身なりを整え、今日のために練った計画を確認する。
そうして何コール目か経った頃、ぷちりと待機音が途切れ、がさがさとシーツを這うような音が通話口から聴こえてきた。
「ジェイド、おはようございます。今日は……」
「なに、アズール? ジェイドいねーんだけど」
「え? ……フロイド?」
期待した声はそこにはなかった。気だるげで、不機嫌なフロイドの声だった。面倒そうにベッドを転がっているのであろう物音と、ぶつくさと呟く声がする。フロイドの言を聞きながら、なんとなく窓の外をもう一度見上げると、水面が小さく氷に変わるのが見えた。
「あ、やば。アズール」
フロイドも同時に声を上げた。その意図を問う余裕もなく、僕はスマホを放り投げて部屋を飛び出した。
焦っている理由は特に無かった。ただ嫌な予感があるだけだった。水面が凍っていく光景なんて、何ら珍しくもない。それでも、ただ足を動かした。
鏡舎に辿り着いた時、ひどく寒かった。今はもう真冬も終わって、雪が降る事もない。だから賭けの内容を聞いた時、ジェイドは逃げたのだと思っていた。
冷え冷えとした空気が隙間から流れ込むのを辿って、鏡舎の扉を開け放つ。そして、僕の目に真っ先に飛び込んできたのは、雨樋を伝い落ちる無数の氷柱だった。
空は暗い、雲に覆われていた。降り注ぐのは紛れもなく雨だったのに、地面を覆いつくすのは透明な表面だった。
「……ジェイド」
零れた声までもが、凍り付く様な空気だった。冷たい魔力が全身を覆っている。その中心で、真っ直ぐに立つ背中から、目が離せなかった。
魔力の放逐と共に凍り付いていく雨は美しかった。地上へ向けて懸命に降り注いでいた雨粒は、地上へ到達する前に氷と化して跳ねた。雨樋の真下で、霰となってゆく水滴と魔力の渦中でペンを振るう姿を、ただ呆然と眺めていた。
翠色の髪が凍り付いていた。だから、彼が振り向いても、それが揺れる事はなかった。凍り付いた全身を、静かに僕の方へと向けた彼が、いつものように美しい所作で頭を下げた。
「お待ちしておりました。アズール」
こつ、こつと氷を砕く足音が耳に心地いい。平常と変わらない態度の彼が、純粋な笑顔を浮かべて傍へ寄る。
「御覧の通り、本日は生憎の”雪”でして……」
するりと胸ポケットにペンを差し入れて、それから優美に手を差し伸べてきた。手袋の先が微かに凍り付いている。顔を上げたら、完璧な笑顔でこちらを見下ろす双眸が近くにあった。
「僭越ながら、僕がデートのお相手を務めさせて頂きます」
瞼が下りて、胡散臭い笑顔を形成する。いつもうんざりした心持で眺めていたそれを前にして、何故だか酷く動揺した。焦れたように凍った手が僕の手を取る。作られた彼の余裕が僅かに綻んでいる。
雪なんて降っていない、今日は雨だ。そうやってしまうのは簡単なはずだった。どうしてこんな馬鹿な真似をするのか、と疑問をぶつけて黙らせてしまうのも選択肢の内にあるはずだった。しかし、今はそのどちらも出来なかった。微かに澱の溜まったペンを見る。
どうせデートなんてしても、恋やら愛が得られるとは毛ほども思っていなかった。だから、適当にそれらしい会話で煙に巻いて終わらせようと思っていた。そんな気持ちを、彼は見透かしていたのだろうか。
手を握る。凍った指先を溶かすように握れば、ぱきりと氷の壊れる音がした。
「こんな天気で、出かけられる訳ないでしょう」
「そうですね。配慮が足りませんでした」
彼は変わらず、にこりと微笑んだ。そこには何の感傷も見られない。ふと、彼の睫毛に小さな氷柱が出来ているのに気が付いて、手を伸ばす。少しだけ驚いたように瞼が持ち上がったが、いとも簡単にそこへ触れ得た。
指先が触れて、氷柱が溶けだす。ぽたりと睫毛から水滴が落ちた。
「……冷えたでしょう。僕の部屋へ来なさい」
ポケットに差したマジカルペンを隠しながら、凍り付いていた彼の手を引く。丸くなった目が、顰めた顔の僕を映している。彼は少し戸惑って、それからぽたりと落ちてきた雫を拭って、くすりと笑う。
「期待しています」
その言葉の、そしてこの行動の理由も、全てが好奇心だけでなければいいと願ってしまうのは、僕が大人になった証左となるだろうか。少しだけ熱を取り戻した手を引き鏡に触れながら、熱烈な揶揄いに迎えられる覚悟を決めた。
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