分厚い羽毛布団に覆われた机の下で、足の指先が溶けていくような感覚を以て、初めて自分が冷えていた事を知った。使い慣れない様式の机の下で軽く膝を抱え、嘆息する。ほんの呼吸で曇った眼鏡を煩わしくも拭いていると、軽く笑う息が聞こえた。真正面の発生源を睨むと、にこやかな表情でオレンジを差し出される。
「どうぞ」
「違う」
「残念です。良いお味なのですが……」
さくりと音を鳴らして果実が突き刺される。残念そうに眉を下げつつ、一度はアズールに差し出された件の果実は彼の口へと吸い込まれていった。庶民的なその光景と、彼の背景はあまりに不釣り合いで、つい見つめてしまう。
今、VIPルームのど真ん中には、雰囲気に合わせた革張りのソファやガラス製のテーブルに代わって、”炬燵”が置かれていた。撤去されたアズール自身で選んだ家具達は、今日だけ部屋の隅で息を潜めている。
事の発端は数日前、学園の購買部であるミステリーショップで行われた新春セール。目玉商品であるミステリーバッグをアズール達も御多分に漏れず購入し、そしてフロイドが引き当てたのがこれだった。バッグの中を覗き込んで、ガラクタの中に一枚のチケットを見つけた瞬間は歓声を上げたものだったが、その正体が訳の分からない商品の引換券と知った際の落胆は割と凄まじかったとアズールは記憶していた。
サム曰く、炬燵とは東洋の暖房器具であるという。いつだったか監督生が欲しがっていた、と彼の友人が呟くのを聞き、ガラクタ処理のついでに売りつけようと考えていた。しかし、こうして足を入れているとそんな考えも薄れてしまう。かなり、居心地の良い家電であった。
「はぁー……温かい……」
「ふふ……そうですねぇ」
あまりに心地良くて、だらしなくも机に俯せてしまう。ジェイドはそんなアズールを見ても、特に咎めず同意を示す。それどころか、オレンジを食べる手を止めて、机へ共に俯せた。珍しいと思い彼の方を見遣ると、眠たげにゆっくり呼吸していた。
微睡むジェイドを見ていると、居心地の良さに足を取られていただけのアズールまで段々と眠くなってきた。飽きっぽいフロイドは早々に『暑い』と言い残して出ていった、二人しかいないVIPルームは静かで、それも眠気を助長する。こてん、と目の前で頭が揺れるのが見えた時、アズールの意識もゆっくり落ちていった。
◇
――寝苦しい。
ふと意識が浮上してきた時、アズールはそんな不快感を覚えた。体勢が悪いのだろうと頭や脚を座りの良い位置を探して動かすが、不快感は消えない。いつの間にかマットに倒れ込んでいた体を起こした時、急速に原因を理解して一気に目が覚めた。せり上がってきた感覚は、人間の本能だった。目が覚める間際に陶器の便器が見えた気がしていたが、恐らく気のせいではない。欲望が夢に現れたのだろう。
あまりにも居心地がよくて、立ち上がる事が億劫になっていたのがいけなかった。二人で紅茶を飲んで片付けをしたきり、ずっと炬燵に籠っていた事が原因だ。炬燵を設置して真っ先に入ったフロイドが世紀の発明品だと賞賛して、アズールも賛同したがこれはいけない。ジェイドが目を覚ましたら撤去しよう、と心に決めつつ、億劫な足を炬燵から引き抜こうとした。
その時、アズールの脚部に何かが巻き付いた。驚きに悲鳴を上げかけたが飲み込んだ。巻き付くそれは、炬燵から出ようとするアズールを引き留めるようだった。恐る恐る、羽毛布団をそっと捲ると、二本の脚がアズールの脚を固めていた。
「……ジェイド!」
「は、……おはようございます」
自由な片脚だけで身を乗り出して、向かい側で倒れているジェイドを覗き込んだ。名前を呼ぶと同時に閉じていた瞼が開いて、すぐに焦点をアズールへ合わせてきた。寝惚けた様子で、緩慢に彼も体を起こす。
「起きましたか」
「ええ。少し体が重いですが……」
「そうですか。僕は脚が重いですね」
「足ですか?」
未だ睡魔と格闘しているであろうジェイドは、何度も瞬きをしながらアズールを見た。いつもなら寝起きすらもその様子を見せないジェイドが、気だるげにしているのを目の当たりにすると、炬燵が如何に厄介な道具か分かる。絶対に片付けると決意を固くしながら改めてジェイドをにらみつけると、「ああ」とようやく納得した様子で、フォークを手に取った。
「どうぞ」
「違う」
「おや? 喉が渇いたのかと思いました」
そう言って、差し出したオレンジをまた自分で食べる。ひどくマイペースな彼の言動に、さすがに苛立って机の上に乗っていた右手を抓った。
「痛っ! アズール、そんな事をしなくても僕は目覚めています」
「じゃあ足を離せ!」
「足? …………あ」
鸚鵡返しに呟いて、それから驚嘆したように目を丸くする。それから一拍置いて、引き留めていた足はいとも容易く離れていった。いつの間にか熱くなっていた脚を擦りながら溜息をつく。
「すみません。まだ寝惚けていたみたいですね」
「そうですよ、全く。寝ぼけて巻き付くだなんて稚魚じゃないんですから」
アズールは呆れた顔を作って、やれやれとわざとらしく両手を広げる。続けて謝罪を述べようとしていたジェイドの口はぴたりと止まった。それに気付いたアズールは、珍しく動揺を見せたと思い調子に乗った。今度は「やれやれ」と声に乗せて言う。
「僕を親代わりにされても困りますよ」
「……ええ、申し訳ありませんでした」
「もうこんな事はしないで下さいよ。さて、では僕は用を足してき――うわぁっ!?」
最後にあからさまに嘲笑して、今回の舌戦は完全勝利の体で席を立とうとした。しかし、それは出来なかった。立とうとした脚は絡め捕られ、そのまま炬燵へと引き摺り込まれた。
勢いよく体勢を崩し、またマットに倒れる。咄嗟に頭を庇ったおかげで怪我は無かった。それでも強かに打った背中が痛みを訴える。そして、同時に膀胱も微かに悲鳴を上げる。
「何するんだ!」
「すみません。僕、貴方がいないと寂しくて……まだ精神が未熟なので」
炬燵を挟んで、しくしくと下手な泣き真似が聞こえてきた。打ち負かしたと思い込んで油断した。そんな後悔と共に、再び訪れるあの感覚に全身が冷えた。
「離せ、ジェイド!」
「嫌です。一人にしないで」
「ああもう! 今はそれどころじゃないんですよ!」
「酷い言い草ですね。僕よりもトイレの方が大事なんですか?」
「ええ、今は!」
見えない布団の中へ腕を突っ込んで、巻き付く脚を引き剥がそうと掴んだ。途端に、またあっさりと脚は解放される。それどころか手を振り解く様に逃げられて、妙に悔しい気持ちになる。
苦々しくも再び体勢を整えて、机に向かって座る。ジェイドは既に姿勢良く、アズールの正面で微笑んでいた。
「知っていますか、アズール。煩悩を乗り越えると苦しみから解放されるそうですよ」
オレンジをもう一粒飲み下して、空になった皿にフォークを置く。
「煩悩……」
「例えば、お腹が空いただとか、眠たいだとか、用を足したいだとか、そういう欲望の事です」
「乗り越えるも何も本能じゃないですか」
何もない皿に目を遣りながら、呆れた調子で言う。アズールは抱えていた膝を解いて、床に足を立てる。当然、ジェイドも一緒に立つと思って、アズールは億劫ながらも炬燵を出る。そんなアズールを、ジェイドは微笑のまま見上げるばかりで、立つどころか手まで炬燵に突っ込んでいる。怪訝に見下ろされても、ジェイドは動く気配がない。
「僕に片付けろと言うつもりですか?」
「まさか。僕は煩悩とやらを乗り越えてみようと思っているだけですよ」
炬燵で丸まっている事こそ煩悩に負けているのではないか。一瞬過った言葉は、とりあえず飲み込んでおく。ジェイドが怠惰にしている様は貴重である。
「まあ、せいぜい頑張って下さいよ」
しかし、観察するにもまずは用を足さなければならない。一緒に紅茶も飲んで、それどころかオレンジまで摂取していたジェイドが催さないのを羨ましく感じつつ、温かかったVIPルームを後にしようとした。
「不戦勝ですね」
「……は?」
嘲笑混じりに呟かれた言葉に、ドアノブを回したはずの手が離れる。振り向くと、ジェイドはわざとらしく「おや、聴こえましたか」と笑う。
随分と単純になってしまっている自覚はあった。しかし、どうしてもジェイドに喧嘩を売られたままで背を向けたくなかった。憎たらしく微笑む幼馴染を睨みつけて、足を止めてしまった。
「なんだ、お前も我慢していたんですか? では先を譲りましょう! 遠慮なくどうぞ」
「いえ、そういう訳にはいきません。だって貴方、ずっとそわそわとしていたじゃないですか。お先にどうぞ」
「まだ余裕です」
踵を返し、どっかりと炬燵の前へ陣取る。それから炬燵に足を突っ込んだら、ジェイドの指先とぶつかった。すると、決壊したようにジェイドが笑った。
「笑うな! お前が煽ったんだろう!」
「まさか乗って下さるとは思わず……く、ふふふ」
「本当、良い性格してますよ」
ついに膝に頭を埋めて笑い始めたジェイドに、急に恥ずかしくなってきた。震えながら笑っている姿に、先程の煽り文句も虚言だったのではないかと疑った。本当に催していたら、笑っただけで危険だとアズールは知っている。自然と顔を顰め頬を噛んで、笑い続ける足を蹴った。
「あっ、ちょっと待って、アズール」
「何がですか」
「あ、あまり……蹴らないで下さい。こう見えて、結構危ないんです」
「…………そうですか」
戯れ程度に軽く足首を蹴る。すると、ずっと涼しげに微笑んでいたジェイドが急に肩を跳ねさせて体勢を崩した。三角座りしていた彼の重心が後ろに動く。
この時点で、アズールは既に暑さにやられていた。自らの尿意もそっちのけで、炬燵に更に足を突っ込んでジェイドの逃げた膝をつつく。軽く悲鳴を上げて炬燵から逃げる足を、初めとは逆の立場になって引き摺り込んだ。
「待って下さい、本当に……アズール!」
「なんです? まだ余裕があるんでしょう?」
明らかな焦燥が混じり始めた声に、感じた事の無い高揚感を覚えていた。脚を絡め捕って、悪戯のように足をつつく。呻いて、ジェイドは机を引き寄せる様に突っ伏した。
遂に丸まって息を乱した姿に、やっと罪悪感が生まれる。仕返しも十分に出来たと満足もしたところで、巻きつけていた足を離す。
「分かったでしょう。乗り越えるもんじゃないんですよ、これは」
鼻で笑いながら、机に張り付いた肩を軽く叩く。その刺激でも辛いのか、触れた場所からびくりと跳ねる。じろりと腕の隙間から、濡れた二色の目が覗いた。その目に、どきりと、心臓が跳ね上がった。
見た事の無い、涙の膜を張った瞳に、見知らぬ感情が揺さぶられた。思わず生唾を飲んで後退った。それを、その目はただ睨んで、それから、にやりと細められた。
「変態」
掠れた声が罵倒する。それに対抗するどころか、言葉が詰まって、ただ息を呑んだ。頭は正常に働かないし、体は固まって動かない。あまりの恥辱に全身が沸騰するように熱い。ぱくぱくと口を動かしながら反論の言葉を探していると、ジェイドは満足気に微笑んで、立ち上がる。
勝者の笑みを浮かべながら、空の皿を優雅に持ち上げ、炬燵から赤くなった足が抜け出した。
「僕はこちらを片付けてきますので、どうぞごゆっくり」
くすくすと笑いながら彼は出ていった。そして、茫然とマットへ倒れ込んだ。
完全敗北を悟り、嘆息した。この敗北は煩悩のせいだ。苦しみからの解放とやらに興味はないが、勝負に負けるとあっては話が別だ。静かになった部屋で天井を見上げながら、煩悩の消し方について懇々と考え続けた。
――後日、オンボロ寮に炬燵が設置されると同時に、煩悩の消し方について調査しながら学園を走り回る監督生の姿が見られたという。
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