「ア、ズー、ルぅ~! 開けていい~?」
聞き飽きた乱雑なノックの後で、返事をするより早く押し入るように開けられた扉に対する小言は、入室した二つの姿に霧散する。足で蹴って開けたのであろうフロイドは、上げていた片足を下ろし、肩に掛けた腕を引っ張って支える。
「ど……どうしたんですか、それ?」
インクを付けたばかりのペンも指から滑り落ち、それに構う隙間もなく、フロイドの肩に寄り掛かるジェイドの体が傾いた。咄嗟に座ったままだった椅子から立ち上がる。フロイドも一緒に傾きながら、掛け声と共にジェイドをソファに投げ出した。ジェイドはされるがまま、ソファの背凭れに体を預けてぽかんとしている。
「ジェイド……? 怪我でもしたんですか、こいつ」
「それどころじゃないっていうかぁ……」
書類の位置だけ整えて、ジェイドの寝転んだソファに近付く。一仕事終えたように汗を拭ったフロイドが、ジェイドの顔を覗き込む。ジェイドはと言えば、間抜けに口を開けて、同じ鏡合わせの顔を見て、笑った。
「同じ顔ですね」
「は?」
至極当然の事実を告げ、ジェイドはからから笑う。フロイドはそれを真顔で見下ろしていたかと思うと、くしゃりと眉を下げてアズールに顔を向けた。
「どーしよ、アズール。ジェイドがアホになっちゃった」
「はぁ?」
泣きそうな顔で頼りなく紡がれる言葉には、ただ呆けた声を上げる事しかできなかった。
落ち着いて二人をソファーへ並んで座らせ、事情を聞く事にする。深刻そうに指を組んで俯くフロイドの傍らで、ジェイドはきゃらきゃら笑って革の感触で遊んでいる。アズールはこの異常な状況に対して、既にうんざりし始めている。
「寮に帰ってる途中で、ハーツラビュル寮の雑魚が魔法薬を投げてきてさぁ?」
「ハーツラビュル寮と言えば……先日の相談者ですか。それで?」
「あー、思い出してもムカつく……ジェイドがアホになれば仲間割れするとか言ってたっけ? 誰がアホなのか教えてやらねーと」
「フロイド、天井が青いですよ」
「もーオレやだぁ~!」
珍しく真面目に、いつも通りの物騒さを織り交ぜて語るフロイドはどこからどう見ても機嫌が悪い。それにも関わらず、ジェイドは真面目に語るフロイドの袖を引っ張って、また当然の事実を指差して伝えた。頭を抱えて喚くフロイドに、柄にもなく同情する。普段とのギャップが酷すぎる。
「これ、精神退行の類でしょうかね……はあ、どうしてこんな面倒な時期を狙って!」
「仕返しのつもりなんだろ、あの雑魚からしたらあ」
今度は何を見つけようとしているのか、フロイドの袖を引っ張りながらVIPルームを見回している。試験が控えており、尚且つラウンジも盛況を極めているこの時期に、よりにもよってあのジェイドの知恵を妨害してくるとは何とも厄介な所業である。元相談者の無駄な悪知恵には感服してしまう。それを勉強の方で生かせないものか。
「まあ……事情は分かりました。解除薬を作ります。薬品は残っていませんか?」
「あ~、無理」
「そうですか……では直接、その元相談者さんから戴くとしましょう」
「じゃなくって、解除の方が無理。期限で切れるタイプだってイシダイ先生が言ってたよ」
ハットを深く被りながら、ソファーに沈むフロイドが吐き捨てるように告げた。次の作戦について思考中だったアズールは絶句する。瞬間的に部屋は静まり返った。相変わらず姿勢良く座っておきながら、二人の話にはずっと首を傾げていたジェイドは、居心地悪そうに視線を落とした。
「……何日?」
「一ヶ月」
「最悪だ……」
全て雑魚の計算通りに違いない。一ヶ月と言えば、試験も繁忙期も内包している最悪の期限だった。ふとフロイドがジェイドの頭を撫でて、その光景を異様に思いながら目で追い、漸く苦々しげに俯いているジェイドに気が付いた。
「どうしたんですか、そんな分かりやすい顔……」
「だってジェイド、アホだもん」
「そうでしたね……」
軽く頭を撫でてから、今度は背中をぽんと叩く。今だけはフロイドがしっかり者のように見える。仕方ない、腹を括るかと溜息を吐き出せば、視界の端でジェイドが硬直するのが見えた。
「……すみません、僕の不注意で、こんな」
今度はアズールがぎくりとした。先程までの言動から、完全に精神退行であると疑わなかった。しかし、今、バツが悪そうに目を逸らしているのは子供の表情ではない。
「何の魔法薬を被ったんですか?」
「えーっとぉ……ムノーになる薬?」
「……最悪ですね」
頭に浮かぶ、如何にも頭の悪い顔を脳内で何度も潰す。不安に揺れる二色の瞳に、重い重い溜息が零れた。
◇
それから数日経ち、ラウンジでは慢性的な人手不足が発生していた。ラギーの手に掛かっても『足りない』と言わしめる状況では、数度店を閉める事態が起きていた。問題を起こされても困るという理由でVIPルームに格納していたジェイドも、その事実くらいは理解していた。
「少し待っていて下さい。キッチンの応援に行きます」
「あ……」
書類を一旦放置して、席を立つ。ソファに座り文字の大きな本を読んでいたジェイドの横を通り抜けようとすると、コートの袖がくいと引かれた。
「僕が行きます。アズールにはこちらの仕事を……」
「やめて下さい。お前……自分が何枚の皿を割ったか覚えていないんですか?」
「……五枚?」
「十七枚だ、馬鹿!」
叫んだアズールに、ジェイドは困ったように眉を下げて「おや」と呟いた。その手を振り払って、固まる笑顔を睨みつける。
精神退行ならまだ良かった。最悪な事に、ここにいるのは稚魚ではなく、仕事の出来ないジェイドである。口ばかり立って、人を馬鹿にした態度で笑って、失敗してもいつもの笑顔と気の無い謝罪をするだけだ。初日はまだ可愛げがあったのに、何故だか三日目にはもう無能なジェイドが完成してしまっていた。
舌打ちをして背中を向けると、小さく息を呑む音がした。これもだ。普段なら隠せているであろう感情表現が割と顕著に表出してくる。普段からちょっとした動作で怯えているのかと思うと複雑な気分になる。
「じゃあ、大人しく待っていて下さいよ。絶対に、何も、するなよ!」
「承知しました」
「……言ったからな!」
恭しく胸に手を当てた仕草を最後に一睨みして、アズールはVIPルームを後にした。
繁忙期のキッチンはとんでもなく多忙を極めていて、休む暇もない。こんな最中に皿を割られては堪らないので、残してきてよかったと心底思う。普段のジェイドには確実に抱かない煩わしさに、アズールの方が荒んできている。余りにも疲れてしまって、ジェイドの紅茶が恋しくなってきた。
「あの……アズール」
その時、忙しないキッチンを無遠慮にも覗き込む姿が映った。いやにのんびりした動作で、アズールに手招きしている。
「……ジェイド? どうしてここに」
「すみません、その」
口ごもる姿に嫌な予感がした。これは一昨日にも見た仕草だ。あの、皿を大量に割った惨状を思い出す。
「なんです」
「……すみません、僕」
「何をしたんですか」
軽く唇を噛んだジェイドの肩を押して、まずはキッチンから追い出す。そのまま背中を押して、VIPルームまで押し戻した。ホールにいるフロイドへ合図を送ると、面倒そうにキッチンへ引っ込んでいった。
アズールも共にVIPルームへ入ると、ジェイドはちらちらと顔色を窺い始めた。本格的に何かをやらかしたと悟り、苛立ちが募る。
「あ、の」
「……はい」
「すみません、出来ると、思ったんですが」
「…………はぁ~……」
目も合わせずにへらりと笑う口元が、への字に曲がる。ジェイドらしからぬ表情が、疲弊していたアズールのストレスを倍増させた。踵を鳴らしながら、ジェイドの視線の先を追えば、先程置いてきた書類の山が崩れていた。
「ああっ!? 何をやっているんだ、お前!」
思わず叫んで書類に駆け寄る。それはもう手遅れで、無情にも倒れたインクが大切な書類達を濡らしていた。すぐさまマジカルペンを取り出し、インクを退け紙束を避難させる。最近に習ったばかりの特殊な洗浄魔法を練って振り、やっとどうにかインクが薄くなった。しかし慣れない魔法のせいでブロットは溜まり、その上、既に記入を終わらせていた部分のインクさえも流れてしまう。
「お、ま、え、は! じっとしている事も出来ないのか!? どこまで無能なんだ!」
「す……みま、せん」
「あぁ、もう! 面倒事を増やす補佐役なんて――」
募った不満が口を衝く寸前、扉がまたばたりと開いた。二人揃って目を向けると、何故か手がクリーム塗れになったフロイドがいた。
「店閉めといたあ」
「は!? 何を勝手に!」
「オレに任せたの、アズールじゃん。しーらね」
余りの衝撃に不満が遷移した。アズールの怒りを一身に受けてしまったフロイドは不機嫌に舌を出している。そのまま去っていくフロイドに、アズールは呆然とソファに倒れ込んだ。
余りにも疲れた。無能すぎる補佐役にも、その穴を埋める気分屋の所業にも。そのまま、諦観の最中でぼうっと天井を眺めていると、ジェイドが視界を遮るように顔を覗き込んできた。思わず溜息が出る。
「なんだよ」
「提案があるのですが……」
「聞きません。どうせろくでもない事しか今のお前は思い付かないんだから」
「僕が戻るまでの期間、他の方を補佐役にされてはいかがでしょう」
青い天井から視線を黄金色に戻したら、にこりと微笑まれる。鈍く働きの悪い脳味噌をのろのろ動かして、今しがたの言葉を咀嚼する。なるほど、確かに一理ある。どう考えても今のジェイドは補佐役には相応しくない。有能であり、尚且つ現状は自分を裏切らないと思ったからこそ、彼を補佐役に抜擢したに過ぎないのだから、一理あるどころか納得するしかない。
例えば、ジャミル・バイパー。スカラビア寮の副寮長にして寮長カリムの従者。ジェイドと同じくオールラウンダーな性質で、有能。嫌われている事がネックではあるが、対価を支払えば可能性は十分にある。
例えば、イデア・シュラウド。イグニハイド寮長にして稀代の天才。ラウンジの業務は彼の性格上無理だとしても、スケジュール管理や書類の手伝い程度であれば了承してくれる可能性がある。対価次第では、彼の弟のオルトを貸し出してもらえるかもしれない。
どちらにせよ、何にせよ、今のジェイドよりはマシである。普段のジェイドであれば、今しがた思考した程度の事は提案と同時に伝えてくる筈だ。これらの当然な選択肢も思いつけない無能に頓着する必要はどこにもない。何なら部屋に閉じ込めておいた方が良い。
「どうでしょう?」
「…………お断りします」
「えっ? 何故です?」
目を見開いて、まん丸くした聡明さの欠片もない双眸が見下ろしてくる。それにまた苛ついて、舌打ちをした。
何故って、そんな事、自分が一番知りたい。
「はあ……紅茶を淹れてきます」
「いえ、それくらいは僕が」
「だから! 火傷したのも忘れたんですか、この馬鹿!」
ついて来ようとするジェイドを振り向いて思いきり睨む。「おや?」と驚いたように微笑みながら、自らの絆創膏だらけになった手を繫々観察し始めたジェイドに、心底呆れた。呆れたのはジェイドに対してでも、自分に対してでもあった。
あまりにも非効率的な心象だ。普段のジェイドよろしく有能な男を、目の前の馬鹿を差し置いて傍に置く事を、可能性としてでも考えたくなかった。そんな事で傷付く様な男だとは思っていない。ただ、自分が嫌なだけだ。その理由が分からずに心が蟠る。
「……ありがとうございます、アズール」
それを知ってか知らずか――今は恐らく後者であろう――綻んだように微笑んで、ジェイドは控えめにアズールの手を握る。アズールはそれを振り解く事も握り返す事も出来ずに、ただ固まって、今すぐにでも忌々しい魔法が解ける事を祈った。
◇
待ちに待った一か月後、ラウンジは完全に閉店していた。バイトの寮生達も、フロイドとアズールも、体力や気力が無かったせいだ。そんな中、VIPルームで突っ伏していたアズールの目の前に、華やかな香りの紅茶が置かれた。
飛び起きた先にはいつも通りに微笑んでいるジェイドがいて、フロイドがいる事も忘れ、ストールを引っ掴んで抱き締めた。
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