知らぬ間に居眠りをしていた。予鈴ががらんとした教室中に反響する衝撃でやっと目を覚ました時には、もう夕方であった。
連日、対策ノートの作成に精を出すあまりに睡眠やら食事の管理を少々怠っていたせいだろう。ぼやけた目を乱雑に擦りながら苛立ちを込めた溜息を吐いて、先程まで突っ伏していた机の上を探る。滲んだ視界で見える白いものはノートと教科書の紙面であろう。その横に転がる細長いシルエットは文房具だ。ひとつずつ確かめるように目を滑らせていくが、目当ての物が見つかる前にまっさらな木目に到達した。
「……?」
もう一度、ぼかされた机に木目以外の物体が視認できる範囲を端から探す。ノート。教科書。文房具類。見知らぬ物体。自分の机の範囲から飛び出した位置に見つけた灰色の物体を触ってみると、柔らかい布の感触が返ってきた。誰かの忘れ物か。紛らわしいと一瞥して手を離し、今度は少し退いて広く机を眺める。ノート。教科書。文房具。見知らぬ物体。今度は逆側に赤い物体を見つけたので一応持ち上げて見る。また布の感触が返ってくる。そこで、この布類がマフラーである事に見当が付いた。人間は冬になると寒さに耐えられず、こういった武装をする。陸に来て知った文化のひとつだ。
思考が飛んだがすぐに立ち直る。再度、机の上をなぞる様に見詰めて、諦観を込めて息をついた。ぼやけた目をまた擦る。どうやら、この視界をクリアにする補助具を――眼鏡を遺失したらしい。
満足に見えないままで、ひとつずつ丁寧に触りながら机に広げていた物を鞄にしまい、席を立った。長い事、妙な体勢で眠っていたせいか背中や腰が軋んでいる。正直に言えば人間の身体を舐めていた。二度と徹夜はしないと誓って、重すぎる頭を振った。時計を確認しようにもぼやけていて明確な物は分からなかったが、窓の外が暗くなり始めているのを見れば放課後である予想くらいは付いた。
まさか、ずっと身に着けている物を無くすとは思わなかった。もしかしたら稀有にも居眠りする僕を見て、魔が差した輩が盗んだのかもしれない。スペアも用意していないのは迂闊だったか、と軽く後悔しながら見えづらい歩き慣れた廊下を歩く。把握し辛い遠近感を、普段の感覚を思い出す事で補いながら、すれ違う生徒を避ける。どうせ肩がぶつかっても、余程の阿呆でなければ、相手を見て黙るだろう。
たまにふらついたりぶつかったりしつつ、深刻な視界でもないと判断してどうにか寮まで到着した。鏡を通り、慣れた色が広がった途端に分かりやすく安堵する自分に溜息が出る。今度からはスペアを用意しなくては。そう思い、鞄を持ち直したところで、不規則と規則的な二つの足音が聴こえてきた。つられるように音の方向へと足を向ける。談話室の端の方へ、一際背の高い双子の姿が映った。
「あ、アズールじゃん。すっげー前髪跳ねてる!」
「お疲れ様です。随分と遅いお帰りですね。やはり夜遅くの作業は避けた方が良いかと……」
顔を見るなり、大爆笑するフロイドの声。平坦なようで、語尾が上がり気味なジェイドの声。視覚が不明瞭な分、聴覚は普段以上に正確に働いている。まして付き合いも長い二人だ。声色だけで、表情も想像するまでもなく脳裏に浮かぶ。
「つーか、アズール? メガネ、どうしたの?」
体を揺らしながらひょいと覗き込んでくる。一房の黒髪が右耳の前でピアスと共に揺れている。
「……盗難に遭いましてね」
答えに窮して、事実かどうかは不明だが可能性のひとつとして考えられるそれを口にした。すると、覗き込んでいた影はくるりと後ろを向いて、真っ直ぐに立つ片割れと顔を見合わせた。
嫌な予感がする。そう思った直後、フロイドらしき人物は一歩退いて、ジェイドらしき人物と並ぶ。それから、手を取り合ってくるくる踊り始めた。
「は? ……何をしてるんです?」
訳が分からず零したが、すぐにその意図を察した。よく似た人物達がぐるりと回って、かわるがわる左右に入れ替わって、さらに舞っていた髪も乱れて右だか左だか分からない。最後にぴたりと止まってから、両耳を隠すようにピアスを外して、二人揃ってこちらを向いた。
きっと僕は酷く疲れた顔をしていたに違いない。双子は可笑しそうに笑って、一定の距離を保ったまま、いつも通りに見下ろしてくる。
「どうしました? そんなに険しい顔をして」
「ふふふ。アズールの顔、超おもしろーい」
「あはは! 全然似てねえ~!」
左右からお互いを真似する声がする。正直に言えばクオリティはまずまずで、僕相手には一瞬でも騙せるレベルではない。ないが、今は如何せん視界が悪い。僕のほぼ正面にくっついて立っているせいで、声が重なった位置から降りてきて左右の判別が難しい。そもそもこんなおふざけに付き合ってやる義理もない。真剣にこのクイズの解法を考え始めた脳を止める。
「僕は部屋に戻って替えの眼鏡を持って来ます。先にラウンジに出ていなさい」
「え~、やだ。めんどくさい」
「お前は特に似てないんですよ!」
似せる気も無いようなジェイドの怠そうな声に思わず声を荒げる。すると双子は楽しそうにけらけら笑う。頭痛がして額を押さえた。こいつらなんてスルーして、さっさと部屋に戻れば良かった。
「仕方ないですね。では、一度だけ答えてみて下さい」
「どっちがジェイドでー」
「どちらがフロイドでしょう」
段々と混乱してきた。フロイドの声でジェイドが喋って、ジェイドの声でフロイドが喋って。交互に喋りかけられると余計に訳が分からない。普段、どれほど視覚に頼っているかが浮き彫りになる。顔だけでなく声だって似ていないから、いつもは目を瞑っていても判別できる自信があったが、なぜか無駄に上手く声の左右を攪乱してくるものだから始末に負えない。右側がゆらゆら揺れていたかと思うと、静止していた左側もゆれる。ここまで意識的に似せられたら混乱するのも当然だと思う。僕が何を以て双子を判別しているのかが大体理解されているのも癪に障る。
「ねーねー、アズールー」
「ふふ……どうやら難しかったみたいですね」
「えー、ひでー。オレ達のこと好きじゃねーの?」
別に振り切って部屋へ戻っても良かった。しかし、元々視界の悪さに辟易していたのもあり、なんだか意地になってしまった。無視しても間違えても嘲るに違いない。一度だけの回答、それを当ててすっきりしてやる。
目を瞑って声を聞く。研ぎ澄まされた聴覚は、重なったふたつの笑い声を微かに左右へ振り分ける。しかし、それだけでは足りない。今度はぼやけた視界で、似たシルエットを少し見上げる。似た様な姿勢でゆらゆら揺れているが、片方はやや背筋が伸びている。足元に視線を向ける。いつもはあがっているフロイドの裾もジェイドに合わせてきっちりと下がっている。しかし、少しだけ片方には皺がある。今度はネクタイを見る。こちらはフロイドに合わせて、どちらも胸元を開けている。しかし、シャツのよれ方が違う。
「アズール、なんか気持ち悪いんだけどぉ」
「はあ!?」
「まさに爪先から頭の先まで、舐めるように観察されていますね。大分居心地が悪いです」
「うるさいな! そもそもお前達が言い出したんでしょう!」
嫌そうな顔が目に浮かんで苛ついて、勢いで二人の手首を引っ掴む。左側の手が急速に引っ込もうとして、右側の手は固く握られた。そこで、二人の腕を絞らんとしていた動きを止める。今の一瞬で、混乱していた頭が視界とは裏腹に明瞭になる。
今しがた予測は付いた。後は確認作業だった。左手を離して、右側の手を両手で掴む。握り拳を開かせて、指を触る。
「あっ、ちょっと……アズール?」
「え、何してんの?」
指の先は柔らかく、全体的に細長い。鼻を近付けたら、土の匂いに混じって微かに紅茶の香りがした。間違いない。確信を得て、自信満々に顔を上げた。
「今、僕が手を握っている方がジェイドです! 後ろにいるのがフロイドでしょう? どうですか、正解でしょう! ふん、僕に分からない問題なんて――」
「アズール、アズール」
「はい? なんです?」
フロイドの腕が頭上に伸びてきたかと思うと、どすんと鼻の頭に衝撃が乗った。思わず目を瞑ってしまった。
「痛っ! 何をするんだ、フロイド!」
「それジェイドの台詞なんだけど」
「……え?」
目の前には、呆れ顔のフロイドが明瞭に映っている。驚いて数度、ぱちくりと目をしばたいた。それから蟀谷付近に指を持って行くと、触り慣れたフレームがそこにあった。
「あ? な、お前が盗んでたのか!?」
「ちげーって! アズールが頭にくっつけてたんじゃん! ばーか!」
「頭!? そ、そんな馬鹿な……!?」
フロイドの反論に素っ頓狂な声を出してしまった。頭上に眼鏡を乗せて、ふらふらと廊下を歩いていたなんて間抜けすぎる。思わず頭を抱えそうになったところで、ふと握ったままの手を思い出した。
「すみませ…………え?」
謝って手を離そうと、顔を上げたら、真っ赤な顔がそこにあった。呆然とそれを見上げていると、ジェイドの背中側でフロイドが欠伸をした。
「別にアズールがジェイドのことを好きでも何でもいいけど、オレがいないとこでやって?」
続けざまにそう告げて、にこりと笑った。気が付けば談話室が騒がしくなっているのに動揺して周りを見れば、はっとした様子で寮生達が散っていく。残った寮生達はひそひそと僕の方を見て何か言っている。
「び……っくりしました。まさか、衆人環視の中でこんな事を……」
ぼそぼそと普段より小さな声でジェイドが呟く。こんな事ってなんだ。背後で寮生が“手の甲にキス”だとか言っているのが聞こえた。何の話だ。
もう訳が分からなかった。一体何について騒がれているのか、ジェイドが何に動揺しているのかも分からない。ただ僕まで顔が熱くなってきた。ただ双子のクイズに答えたかっただけなのに、と考えて阿呆らしくなった。どうでもいいクイズにむきになっていた事実が恥ずかしい。そもそも、こうして手を掴めば一発で分かった事だ。つるりとした指先を撫でると、ジェイドが小さく唸った。また残りの寮生達が騒ぐ。
「……あなた達、ラウンジの準備は終わったんですか!? こんなところで油を売っている暇があったら掃除なりして来なさい!」
ぶつりと切れて、思わず声を荒げる。びくりとした寮生達は後退って、それから固まっている。苛ついてまた口を開こうとしたら、フロイドが再び呆れた声音で僕の名前を呼んだ。
「とりあえず、手ぇ離してからにしなよ」
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