朝からずっと雨が降っているのは知っていたが、どうせ小雨だからと傘は持たずに外へ出た。存外に酷い湿気と肌に纏わる雨粒は鬱陶しく、早くも憂鬱な気分になる。しかし翻す選択肢はなく、そのまま校舎裏の森へ直進した。
誰もいない小道を歩く。道中で授業終わりのチャイムが頭上から聴こえてくる。髪が水分を吸って重くなってきたのを適当に掻き上げる。葉や草を踏んだ音にも水が含まれていて、手入れしたばかりの靴が汚れるのを眉を顰めて見下ろした。
足を止めたのはすぐだった。森を入りやや横に逸れたその場所では、青々とした低木が茂っている。この辺りだろうか。ある程度の見当を付けてここまで歩いてきたものの自信はあまりない。
微かに凹みの見える低木の傍へ屈んで、じっと目を細めて観察する。小さな水滴で視界が狭い。鬱陶しくて眼鏡を捨て去るように取り外し、胸ポケットに引っ掛けた。そして再び低木の隙間を覗き込んでみるが、今度は視界がぼやけて見えない。仕方なく、一度息を吐き捨てて、それから藪の中へ手を突っ込んだ。
例に漏れず水滴を纏った葉が手袋を濡らしていく。不快な心地を抱きつつも、そのまま枝の間を探る。指先を伸ばして、隙間がある方向へ探索を続ける。しかし、この木は外れだ。舌打ちをしつつ、隣の低木へ、今度は躊躇わず腕を入れる。ハッピービーンズデーや魔法の訓練やらで抉れたのであろうその木は、逞しくも抉れた場所から葉を伸ばしている。それを適当に掻き分け、葉に覆われた内部を探る。これも外れ。
それを何度も繰り返している内に膝が痛みを訴えたので、一度立ち上がる。そこで膝が汚れている事に気が付いて、また舌打ちをした。適当に手で払いながら、この事態を引き起こした雑魚の事を思い出す。それだけで苛ついて、傍の大木を蹴った。
苛々する。つい先刻、教室で言い負かしたばかりの間抜けな顔がありありと浮かんで青筋が浮かぶ。相談には乗ってやったし叶えてやった。契約も完全に合意だった。以前の様な無茶な内容でもない。それなのに、自らの要領の悪さを契約のせいにした。これだからバカの相手は嫌いだ。怒りに任せて、他人のポケットに手を突っ込んで、窓から投げ捨てるなどという暴挙に出る行動力は別の事へ生かせばいいのだ。
「……ああ、くそ。いけない」
怨念ばかりに憑りつかれて良い事など無い。それを一番知っているのは自分だった。当然、制裁は後から幾らでも加えるが、今はそれが最重要ではない。もう一度、近くの藪へ屈んで手を伸ばした。
「…………あった!」
それから何時間が経っただろうか。気が付けば雨は止んで、心地良い風だけが吹いていた。予想通り、藪の奥でその感触を漸く捕まえた。びしょ濡れの手袋の指先でそれを掴んで、どろどろに汚れた腕を引っ張り出す。
崩れ切って目元を隠していた髪を払って、手の中へ戻ってきた物を食い入るように見つめる。泥が付いて汚れた表面を指で拭えば、金色の文様が淡い木漏れ日に反射した。ほっと息を吐き出して、少し傷の入った年代物のコインを両手で握り締めた。
「良かった……」
慣れた硬い感触を掌に感じる。それは冷たい筈であるのに、自分の体温よりも温かく思えた。
胸に抱く様にして暫くそうしていると、不意に足音が聴こえた。音が間近まで来たところで、軽く顔を上げて目線を遣る。やはり見慣れた顔がそこにあった。一度薄く口を開いて、眉を下げて微笑んで、それから涼しげに笑う。
「件の方はこちらで対処しておきましたので、ご安心下さい」
ちら、とアズールの手元に金色の瞳が向くので、得心する。しかし、その内容が納得のいくものであるのか分からず微妙な表情で頷いた。内心を理解したのだろう相手はまた困り顔で微笑んで、「然るべき処置を取りましたよ」と付け加える。
「仕事の早い事で結構ですね」
礼を述べる為に口を衝いたのは捻くれた言葉だった。一言も満足に言えないのか、と胸中のどこかでぼやく声がする。気にしないとでも言うように微笑まれて、無意識に手の中の物を握る力が強くなる。
「それ程でもございません。貴方こそ、随分と楽しんでいたようで」
「ええ、それはもう、時間も忘れるほどね」
「もう放課後ですよ」
何度も聞いたチャイムの音である程度は予想していたから、別に驚きもせず「そうですか」と返した。そこで屈んだままである事を思い出し、やっと立ち上がって膝の汚れを払った。するとジェイドは腕や裾の泥を払う。今度こそ適当に礼を言おうとした所で、その手が頬に触れた。心臓が強く拍動して間抜けな声が漏れそうになるのを飲み込むと、指が目元の泥を拭い去って、すぐに離れていった。
「こんなに泥を付けて……まるで幼い子供のようですね」
「うるさいな……」
軽く馬鹿にした笑い声が寄越されて、動揺した自らを隠すように睨みつけた。ジェイドはただくすくすと笑って、手袋に付着した泥を叩いた。
「それにしても、貴方のお金に対する執着は凄まじいですねぇ」
「……何を今更」
「まさか教師の評価やテストを放り出してまで、たった一枚のコインを探しに行くだなんて……流石に呆れてしまいます」
そういえば、今日は錬金術で小テストがあったのだった。抜かりなく手帳にもカレンダーにもチェックを入れて記憶していたというのに、今の今まで失念していた。
普段通りに完璧な笑顔で指摘するジェイドの目が、確かな呆れを含んでいるのを認めた。またコインを握り締める。どうせ、そんな事だろうとは思っていた。
「……何ですか?」
「いいえ。別に」
風がさらりと彼の髪を流していく。その光景は海の中とまるで変わらない。コインと共に手の中へと落とされた感情が、未だ鮮烈なままで涙が出そうだ。何も知らない顔をして、手を差し出してくるこの男が、憎らしくて堪らない。
「では、戻りましょうか。ラウンジまで遅刻してしまいますから」
彼の背後で日が傾いている。あの日もこんな時間だった。本当は完璧に覚えていて、わざと忘れたふりをしているのではないだろうか。無意味な想像をして笑う。
「そうですね。泥まみれで接客する訳にはいきませんし」
コインをポケットに突っ込んで、わざと泥だらけの手でそれを掴んだ。微かに表情が歪んだのを見逃さず、また捻くれた口を開く。これだから何時まで経ってもこの想いが渡せないのだとは知っているがどうしようもない。満更でも無さそうに応酬を返す方だって悪い。
繋ぐ必要もない手を握る。前を歩く綺麗な背中へ、いっそ告げてしまったらどうなるだろう。脳内でシミュレートするも結果は芳しくないので黙って歩く。後で例の雑魚へやった対処の詳細を教えてもらわなければ、と思考を切り替える。どうせ甘い対処しかしていないだろうから、正当なお返しをしなくてはならない。
ふと枝で裂けた袖が目に入り、思わず笑いを噛み殺した。こいつが気付くまでは、僕はたった一枚のコインの為に怪我をする守銭奴のままなのだ。
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