シェフの気まぐれキノコスープ

 

「お疲れ様です、アズール」
 ノックの後、返事を待たずして扉を開いた相手に目を向ける。貼り付けた人好きのする笑みと形式的な労いの言葉に対して、アズールも適当に「ええ」と返す。後ろ手に扉を閉じ、片手にサーブ用のトレーを持つジェイドは、機嫌良さげにアズールを見ている。その様子に違和感を覚え眉を寄せた。
「何です?」
「ふふ、そんなに疑わないで。ただ、お疲れであろうアズールに差し入れをお持ちしたんです」
「ああ、それはどうも……」
 ジェイドの手元では、白い湯気が空気に煽られて揺らめいている。しかし、近寄ってきた香りはアズールの考えていた物とは違った。いつも通り、アズールの好む紅茶の香りを期待していたが、実際に感じ取れたのはコンソメの香りだった。
ラウンジでの給仕と変わらない所作でカップがアズールの前へと置かれた。思わずそれを目で追い、白い指先がカップから離れるまで見送って、机を挟んだ正面に立つジェイドを見上げた。
「余りの食材で作ったスープです。お口に合うと良いのですが……」
 殊勝げに手を前で合わせ、様子を窺うような視線を寄越してくる。その口元には変わらず笑みが作られている。
「余りの、食材……ですか」
「ええ。食堂のゴーストから、使って良いと言われたものを」
「そうですか、ゴーストから……」
 手に取りやすい位置へ置かれたスプーンには触れず、湯気の立ち上るカップの中をじっと見る。蜂蜜色の温かなスープがアズールの呼吸に合わせて揺らぎ、カラフルな食材達を泳がせている。色鮮やかなそれらは、綺麗に刻まれた野菜の合間から時折姿を見せた。
 ばっと視線を机上のカレンダーへ向ける。先週末に赤で印が付けられている。そして、それの正体を確信する。椅子を軽く後ろへ引き、両手を広げた。
「いりません。フロイドにあげなさい」
「おや、なぜですか?」
「そろそろ忘れているだろう、とでも考えたんですか? 先週、お前が山へ行くと嬉しそうに報告してきたでしょう!」
 忘れないようにわざわざカレンダーにも手帳にも予定表にまで書いているのだから、とまでは言わず、カレンダーにだけ一瞥をくれながら告げれば、ジェイドは尚楽しげに笑う。彼の視線も一緒に動いて、印の付けられた日付に目を細める。
「はい。とても有意義な散策でしたよ。珍しい山菜、特にあまり見かけない種類のキノコが見つかったんです。鮮やかな赤色で、小ぶりな傘を持っている……」
「それ、このスープに入っている赤色のことじゃないだろうな?」
「ふふふ」
 カップから鮮やかな朱色が覗く。はあ、とわざと大きな溜息を吐き出した。対照的にジェイドは楽しそうに笑っている。アズールはそれを睨みつけながら、腕を組み背凭れに体重を乗せる。絶対に食べないという意志表示だ。すると、ジェイドはやっと笑うのをやめて、眉を下げ小首を傾げた。
「食べて下さらないのですか?」
「当たり前でしょう! こんな何が起きるか分からない物、誰が喜んで食べると?」
「そんな、折角アズールのためを思って作ったというのに……悲しいです。しくしく……」
「捨てるのは勿体ないですから、自分で食べるなり誰かに押し付けるなりしてきなさい。いいですね」
 ハンカチで目元を拭う振りをするジェイドを横目に、カップをトレーへ載せ直す。それを仕事机から退かし、コーヒーテーブルへ移す。そしてジェイドにもう一度視線を戻し、差し出そうとして動きを止めてしまう。
「仕方ありませんね……これはぜひアズールにも食べていただきたかったんですが……」
 しょんぼり、と口に出さずとも伝わる大袈裟な仕草はともかく、落ち込んだ表情が本物に見えてしまった。悲しげに寄せた眉と、珍しく繕うような笑みを浮かべる口元に、うっかりなけなしの良心がずきりと痛んだ。しかし思い直し首を振る。どう考えても、これは嫌がらせでしかない。もしくは実験体扱いだ。
「そうだ、ルークさんに食べていただくことにしましょう」
「は? ……なぜ彼なんですか?」
 トレーを持ち上げた横顔から飛び出した名前が予想の外で、つい反射的に問い返した。どうせ片割れ辺りに持っていくだろうと踏んでいたから不意を突かれたのだ。すると、悲しげであった表情がくるりと一変する。アズールにスープを持ってきた時と同じ笑顔で、嬉しそうに口を開く。
「マスターシェフの時、ルークさんに『面白い』と言って頂いたんですよ」
「ああ、想像がつきますよ。あの人は何を食べてもそう言うでしょうね」
「それに、『癖になりそうだ』とも」
「……それも彼が言いそうな事です」
 にこにこと嬉しそうに話をするジェイドに少し苛立って、素っ気なく答えていく。そんな態度を意にも介さず、彼は機嫌良く続ける。
「ですから、こちらも彼と共有するとします。笑顔で食べてもらえた方が食材も喜ぶでしょう」
「……さっきから聞いていると、ルークさんは面白いと言うばかりで『美味しい』とは言わなかったようですが。褒めるところが無かっただけじゃあないんですか?」
「それでも食べずに突き返されるよりマシですよ」
 苛立ちに任せて吐き出した皮肉は、鋭い正論で刺し返されてしまった。何も言い返せず言葉に詰まる。未だにこやかな様相を崩さないジェイドが遂にアズールから視線を外した。
「お疲れのところをお邪魔しました。では、僕はこれで」
 相変わらずの綺麗な所作でトレーを抱え、会釈した。その爪先が扉を向いたのを見て、アズールは咄嗟に立ち上がり、座っていたチェアが派手に転げる。物音に驚いたジェイドは動きを止め、目を丸くした。アズール自身も自らの行動に一瞬思考が止まる。しかしジェイドが動き出すより前に、ずかずかと固まる彼の方へ歩みを進める。僅かに身を引いた腕を掴む。
「食べなくても分かります。お前がそうやって持ってきて、ただ美味しいだけだった覚えなんてありません」
「無理強いするつもりはありませんよ。ほら、手を離して下さい」
「……それをポムフィオーレに持って行ったら、ヴィルさんに何と言われるか」
「植物園にいるはずなので、その心配はありません。さあ、手を離して」
「サイエンス部の活動でしょう、ならトレイさんがいますよね。お前は彼にも味の感想を求めるつもりでしょう。後でリドルさんに怒られるのは御免ですよ」
「黙っていて下さると思うんですが……わかりました、ルークさんだけにしますから」
「いや、例え植物園でも体調を崩したら伝わるでしょう。勝手な事をして僕に迷惑を掛けるなら――」
「アズール」
 窘める静かな声色にやっと口を噤んだ。自らの行動の幼稚さくらいは自覚している。手を離す事も顔を上げる事も出来ず、ただ目の前のカップを見つめる。すると、小さな嘆息と共に、腕が振り解かれた。惜しむように摘んだ袖先が、トレーを置く腕にぺたりと触れる。再びテーブルの上に落ち着いたカップに視線を落とすと、ジェイドの爪先がアズールの方へ向き直った。
「このキノコは少し独特の風味を持っています。苦味であったり、辛味であったり……人によっては苦手、と思うかもしれません。しかし後味は不思議と甘くて美味しいんです」
 液面に小さな朱色の頭が浮上する。優しく滔々と流れる声に耳を傾けながら、無意識に固めていた拳を解く。
「……それでも良ければ、食べてみて下さいませんか?」
 そっと視線を上げると、柔らかい眦がアズールを見ていた。一瞬言葉を詰まらせて、それから一度咳払いをした。そして、はあ、と大きく溜息をついてみせた。
「仕方がありませんねえ。今回だけですよ」
「はい。貴方の慈悲に感謝します、アズール」
「……くそ」
 どっかりとソファに座り、スープと改めて対峙する。少し冷めて湯気も緩くなってしまったが、まだ十分に美味しそうな香りが漂っている。傍らに立って見守るジェイドに一度目を遣って、期待の眼差しが向けられているのを視認してからスプーンを手に取った。野菜やキノコがふんだんに煮込まれたスープへと差し込んで底から掬い上げ、意を決して口に運んだ。
「……どうですか?」
 咀嚼すると、たしかに忠告された通り、苦味のような辛味のような独特の奇妙な風味がした。それをどうにか噛み砕いて飲み下す。すると、舌の上に心地良い甘みが残った。これは美味しい。そう思いながら頷いて顔を上げると、期待に目を爛々と輝かせるジェイドの緩んだ表情があった。
「貴方のお気に召すと良いのですが。……アズール?」
 感想もしくは文句を告げようとして開いた口を閉じる。下手をしたら崩れそうな表情を硬くして、胸元に添えられていた手首を掴んで引っ張った。油断をしていたらしいジェイドは素直に身体をアズールの方へと傾ける。近付いた後頭部に手を伸ばし、力一杯引き寄せる。
「んっ」
 ぶつけながら唇を合わせ、舌で隙間を抉じ開ける。許容するような、諦めたような顔でジェイドが僅かに口を開く。そこへ舌先で残りのキノコを押し込んだ。
「……っは、お嫌いでしたか?」
「いえ」
 息継ぎもそこそこに悲しげな笑みを浮かべてみせるジェイドを真正面から見ながら、閉じなくなった口をゆっくりと開いた。
「ひたは、ひびえはひは」
「ぷっ」
 口元を押さえてジェイドが一歩下がる。眉間に皺が寄るのも隠さず、アズールは再び席を立った。笑いを堪えて震える胸倉を掴む。
「ひっへへははっへいはひはへ!」
「ふっ、ふふっ、何と仰っているのか分かりません。もっとゆっくりお話しして頂いても?」
「……はー……」
 深呼吸をすると舌がびりびりと痛みを認識する。未だ残る甘さは毒を誤魔化すための物だと理解して、甘みにすらも腹が立つ。しかし、楽しそうに笑うジェイドを見ていたら、段々と怒りも冷えていった。
「あ、ふふ、僕も舌がひびえへひまひは……」
「ふん、いいひひへふほ」
「ふふふっ」
 痺れが効いてきたのか、ジェイドもアズールと同じように口を開けたまま喋り始める。口元を手で隠す事もなく笑う姿に、引き留めた事を心から満足する。
 はたと思いついて、痺れたままの舌を動かす。
「はふふははっはへふほ」
「え? ……ふふ」
 悪く無かった、と告げた時点で笑顔を見せられたので続きは飲み込んだ。この男の察しの良さはむかつくくらいに完璧だ。
 舌を痛めるような物で無ければ、幾らでも、僕が。などと一生口に出せないであろう言葉を転がしながら、ひりつく舌を唾液で慰め、スプーンをカップに差し込んだ。

 

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