虹を架けたら - 1/2

 

 開け放たれていた窓から、涼やかな風がノートを捲った。頬に触れたからりとした感触で、雨が止んだ事を知る。随分と長いこと降り続いていた雨は、同じく滞在を続けている間にすっかり晴れていた。
 書き取り続けていた古代呪文を一通り眺めてから、墨で黒くなったノートを閉じる。課題の範囲はとうに超えていた。人もまばらな図書館の窓際で小さく欠伸をする。雨が頬に当たる感覚が気持ち良いと、わざと閉めなかったせいで周囲の本が濡れていた。軽く風魔法をかけて、心ばかり乾かした。
 教科書とノートを束ねて机に角を落とし整えながら、先刻まで耽っていた思考を思い返す。知らず溜息を漏らして、ちらと図書館の出入口に目を向ける。そろそろ、ラウンジの開店時間だ。ノートを掴んだまま、動きを止めた。
 その扉の向こうから、顔を覗かせる事を期待している。探しましたよ、と呆れながら呼びに来てくれる姿を待っている。そんな自分に気が付いたのは、もうずっと前の話だった。そして、そこに危機感を覚えたのは、ついこの間の事だ。
 僅かによれた教科書の表紙に視線を落とす。フロイドに貸してしまった、と告げた時の顰め面を思い出す。それから困ったものを見る目で、慈悲の言葉と共に手渡された光景が鮮明に浮かぶ。胸の奥が詰まるような感覚がして、また息を吐く。
 ――このままでは。
 静かに席を立ち、渇いた風を運んでくる窓を閉じた。靡いていたカーテンがぴたりと止まる。机に残していた教科書の類を鞄に詰め、黙々と勉強をする生徒の側を潜り抜けて図書館を出る。周辺の廊下も閑散として、懐かしい海の底を思わせる。外敵は存在しなくとも、冷たい場所だ。昏い廊下を歩き始める。

 少し進んだところで、曲がり角から人影が現れたのが見えた。かつんと踵を鳴らす高らかな音は、限りなく聞き慣れた物だった。思わず足を止めて、引き返し影に隠れる。潜んで様子を窺うと、彼は真っ直ぐに進み図書館の扉を開けた。それから少し見渡して、溜息を吐きながら扉を閉じた。そのまま来た道を引き返す背中を見送る。
「どこまで行ってるんだ、あいつ……」
 舌打ち交じりの声を聞き取り、身を固くした。その言葉の奥の柔らかな温度を感じ取ってしまった。ブレザーの上から心臓の辺りを掴む。この感覚の名前は知っていた。彼と、アズールと懇意になってから、自然と知るに至った。
 昔からアズールの事は好ましく思っていた。しかし、ずっとそれだけだった。それが変わったのは、いつからだったのか、もう思い出せない。ただ彼に好意を伝えられた日から明確に変化したのだけは理解している。そして、それがジェイドにとって、好ましい事ではない事も分かっていた。
 図書館から人が出てきたのを見てから、漸く足を動かし始めた。すぐにラウンジへ向かわなければ間に合いそうもない。早足になりながら、あまり人のいない廊下を進む。
 アズールが存外に気を掛ける人物であるのは、今に始まったことでは無い。懇意どころか友人関係と呼べるかも分からない頃から、いなくなったジェイドとフロイドを探すのは彼の役割だった。もちろんお互いに探す事はあるが、見つけるのは大抵アズールだった。それを当然と受け取るようになって、自然と熱中する事を諦めなくなった。
 しかし、もしも。
 スピートを緩めて角を曲がる。そこにも人は少なかった。そろそろ帰寮の時間なのだろう。道を妨げる物もなく、速度を落とさず進む。鏡舎へ近付くにつれて、喧騒が始まった。海の底から顔を出した時の、世界に音が広がる感覚を思い出す。初めて海面を出た時、フロイドはもちろん、アズールも目を輝かせていた。

 人混みを掻き分けて、オクタヴィネル寮へ繋がる鏡に触れる。独特の眩暈と共に、ひんやりとした空気が訪れる。海に沈んだ寮は、どこより冷たい。
 ラウンジの前まで来ると、扉に寄りかかったフロイドが欠伸をしながら伸びていた。その眠たげな眼がジェイドを捉えると、少し瞼が持ち上がる。それから、ジェイドの背後の方をちらりと見遣って、首を傾げた。
「アズールは?」
「おや、まだ戻ってきていないのですか?」
「うん。ジェイド探しに行く~っつって出てった。まだ探してんじゃね?」
 ポケットから鍵を取り出しながら、ふらふらと姿勢を戻す。鍵をジェイドに投げて寄越そうとする動作を見せたが、ぴた、と止めた。
「探しに行ってあげたら?」
「必要ないと思いますよ。いないと分かったら、勝手に戻ってくるはずですし」
「えー、でもぉ……校舎の中グルグル回って疲れて戻ってきて、文句言われんのヤだぁ」
「それもそうですね……」
 心底嫌そうな顔をするフロイドに、その光景を想像して苦々しい気持ちになった。長いお説教はフロイドほど経験もないが、たまにさせられる正座は意外と辛い。
「オレ開けとくから行ってきてよ。ちゃんと開店するかはわかんねーけど」
「うーん、仕方がありませんね……」
 不安を煽る文言を付け加えるフロイドに息を吐けば、少し楽しそうに笑う。今日は機嫌が良さそうだと判断して、「任せましたよ」と告げて踵を返した。機嫌が悪いフロイドを一人で残す方が説教をされてしまいそうだが、この調子なら恐らく開店くらいはするはずだ。

 通ったばかりの鏡を潜り、再び喧騒の中へ戻される。そこをさっさと通り抜け、静かな校舎の方へと戻っていく。アズールが探しに行きそうなところを頭の中でピックアップしていく。まずは近場から見ていく事に決めて、教室を目指した。偶に復習に熱中して教室に残っている事があるため、彼の選択肢のひとつであるはずだ。
 教室までの歩き慣れた道を進みながら考える。こうして、いつもジェイドを探しているアズールは面倒ではないのだろうか。善意でやっているはずもないが、楽しんでやっているとも思えない。面倒だと思いながら、必要だからやっているに過ぎない行為だ。それに甘えている自分達は、彼が突然、この役割を放り出したらどうするだろう。フロイドは恐らく変わらないだろうが、自分はどうだろうか。
 このままでは、きっと、そんな些末な事でさえ耐えられなくなる。
 教室の扉を開けて、中を覗いた。しんとした空気だけが漂っている。誰の気配もしない。しかし、微かに甘いコロンの香りがした。また心臓がずきりとする。教室に入り、香りの跡を何となく追いかける。自分の着いていた席の傍で、少し香りが強まった。机に手を触れながら、嘆息した。ここまでしてくれるのは慈悲でもなんでもないのだ。それはただ、彼の合理的な性質ゆえの事。ジェイドを傍に置いて、その手で触れてくれることさえも、そうだとしたら。
 首を振って机から手を離す。彼はいつも愛着を否定するけれど、そこにある微かな柔らかさは嘘ではない。好きだと告げた言葉に嘘がある事は、今まで一度も疑わなかった。我ながら参っていると思いながら、さっさと教室を後にする。
 廊下を歩き、次は錬金術室へ向かう。研究ノートに夢中になって時間を忘れる事もあったから、それ以来、彼はそこに探しに行く事もあった。向かう傍ら、ようやく生徒達とすれ違う。彼らもあの日のジェイドと同じく、教室へ残っていた口だろう。
 錬金術で綺麗な宝石が出来た時、フロイドは真っ先にアズールに持って行く。それはジェイドも同じだった。あの輝く瞳が、どんな宝石よりも美しくて、何度でも見たくなるからだ。フロイドと違い突発的に出来るわけでは無いから、いつも最後は怪訝に見られてしまうが、貴方のために作ったとはただの一度も言えないままでいる。
 そんな事を言ってしまえば、それこそ、終わりだ。こんな綱渡りの様な関係性は、いとも簡単に崩れ去る。
 錬金術室は鍵が掛かっていた。最後の生徒が戸締りをしていったらしい。そこでも微かなコロンの香りが残っていた。ぐるりと視界が一瞬揺らぐ。翡翠の宝石を渡した時、嬉しそうに触れてくれたのは、それが美しく高価だったからに他ならない。期待など初めからするつもりは無かったのに、いつから、こんなにも傲慢になってしまっていたのだろう。
 今度は図書館、と思ったが、恐らくあの場所には戻っていないだろうと判断し、植物園を目指す事にする。暗い中、外に出るのはあまり好ましいことでは無いが、今は仕方がないと教師も見逃してくれるだろう。
 もうそろそろ夜と呼ばれる時間になる。流石にアズールも寮に戻っているのではと考えたが、そう思えば益々戻る気は薄まった。このまま、居もしないアズールを探し回っていた方が、今の思考は簡単に落ち着くだろう。
 思えば、アズールと親密になってからも変わった事はなかった。これまで通り、彼の傍に控えるだけだ。それでジェイドは満足して、あちらも特に何も言わなかった。これ以上と言われなくて良かったな、と今になって思う。もしこの先を求められていたら、離れる事すら難しかったかもしれない。
 恋とは、愛情とは、心を弱くする。簡単に出来ていたはずの事が、たった一つの感傷で難解になってしまう。いつか、さようならと告げられる日が、こうも恐ろしくなろうとは思わなかった。

 暗い外は、再び雨が降っていた。それは小雨だったが、夜の雨はとても寒い。しかし傘は差さず、そのまま植物園を目指した。
 もし、ここにアズールが居たら、風邪を引いてしまうと怒ってくれるだろう。体調管理も出来ないなんて、と小言交じりに、それでも慈しみを込めて触れてくれるのだろう。それは、ひどく恐ろしい、と思った。
 植物園には明かりが点いていた。一瞬どきりとしたが、否定する。サイエンス部が残っている事もあるのだ。少しだけ深呼吸をして、足を進める。扉に手を掛けた所で、息が詰まった。ここにアズールが居たら、どんな気持ちを抱くのか、既に分かってしまっている。まだ得てもいない感情に、怯えていた。
 一度、扉から手を離す。少し離れて、夜空を見上げた。美しい星が瞬いている。時折落ちていく光を探すのは楽しかった。顔だけ出して見上げた初めての夜空は、本当に時間を忘れて眺めたものだ。
「……あ」
 雨が止んだ。その時、ジェイドの視界に七色の筋が映った。月明かりに照らされ、昏い空に、美しい虹が掛かっていた。は、と切羽詰まった息が出た。頬に温い液体が伝う。
 本の中で見た事のある、夜の虹は、本当に綺麗だった。そう思ったら、あの空色の瞳に、この虹を架けたいと真っ先に思ってしまった。次から次へと涙が零れる。全身が熱で溜まっていく。そして、どうしようもないほど、もう取り返しがつかないほど、彼を想っていると気付いてしまった。
 絶望に似た感情が胸に風穴を開ける。あの唇が別れの言葉を紡ぐ事に、もう耐える事は出来なくなっていた。笑って、見送る事が出来なくなった。最後には一人で生きていくつもりで、それが出来る自分で居たいと思っていた。がくりと膝を付いたら、もう涙は止まりそうになかった。
 きい、と目の前の扉が開く。咄嗟に俯いて涙を拭うが止まらない。
「……ジェイド?」
 頭上から落とされた低い声に心臓が暴れる。拭って誤魔化す事は出来ないと分かって、そのまま顔を上げる。涙で濡れたジェイドの顔を正面に捉えた空色が小さくなる。にこりと笑ってやる。
「こんな時間までお疲れ様でした」
 嘘っぽく笑うと、彼はいつも面倒事に会ったと適当に流す。それを利用しようと思った。しかし、その目はぐらぐら揺れながら、ジェイドに近付いてきた。目の前まで歩いてきたアズールの手が、震えるままにジェイドの頬に触れる。指先が優しく、零れる涙に触れた。
「ねえ、アズール。空を見て下さい」
 半ば茫然と涙を拭う指を掴んで、空を指す。示すままに彼の目が空を向く。その空色に、月虹が架かった。きらきらと輝いた。その目は、再びジェイドを映す。涙で汚れた、みっともない顔が浮かび上がる。
「綺麗でしょう? 月虹、と言うんです。月の光に反射して架かる虹なんですよ」
「……ええ、綺麗ですね。とても」
 アズールの両手が頬を包む。笑顔のままで対峙しても、その目はずっと揺れている。
「好きですよ、アズール。心の底から。貴方を離したくないくらい」
 だから、今すぐに切って下さい。
 じっと揺れる瞳を見つめた。その目が今にも泣きそうに歪んで、ぎゅうと頬を摘ままれる。痛いと文句を口にする前に、手が離れて勢いよく抱き締められた。腕が背中に巻き付いて、痛いくらいに握られている。どくりどくりと拍動する心臓が共鳴した。また涙が零れて、空に架かる七色が滲む。その様が美しいから、息を呑んで、喉が引き攣る。ひ、と渇いた音節が零れだした。それから何度もしゃくり上げる様に喉が震えた。呼吸が苦しいと思ったら、髪が掴まれる様に撫でられて、息を吸った。
「ふ、ふふ。今日は随分と、ご機嫌なんですね。こんな所で、暇を持て余す、なんて、珍しい」
「お前が来ると知っていたら、ここには居ませんでしたよ」
 吐き出すような返答に息が止まる。全身の血が逆流してしまいそうなほど冷たく、震えてしまう指先が堪らなく嫌だった。
「僕も、こうなると知っていたら、貴方と、こんな風には」
 くいと吊り上げた口角に塩辛い水が降る。月虹は煌煌と二人を見つめている。瞳の全てに虹を架けるように見開いた。
「ねえ、別れませんか。きっと何も変わりませんよ。僕達に恋や愛は向いていない」
 ふ、と笑いながら口にしたら、随分と心臓が痛んだ。痛みにうめく代わりに笑い声をもうひとつ落とせば、肩を掴まれて身体が離れる。真正面から見詰めたアズールの瞳は、いつになく真剣で、弱々しく見えた。
 彼の言葉を待つ。その口は微かに開いて、ぴたりと閉じた。そのまま髪を梳くように触れられたかと思うと、思いきり引き寄せられた。
 目を閉じる事は、出来なかった。視界の全てに青空が広がる。咄嗟に背けようとした頭は押さえつけられ逃げ場を無くす。その奥に見える熱情が、冷え切っていた脳を焼く。漸く離れたと思えば、すぐに食らい付かれてしまう。呼吸が難しく、吐くばかりになって息が苦しい。両手で肩を押しても、体重を掛けられては上手く出来ない。片手を取られ、そちらへ意識を向けている間に首筋を指先が擽った。思わず開いた唇に、ぬるりと熱い質量が押し入った。ぞく、と背筋に走る感触に眉を寄せる。
 アズールの思考が理解できなかった。急に得体のしれない物に思えて、目を逸らせなくなる。その空色には、ジェイドの瞳だけが映されている。心臓が脈動で主張する傍ら、不安ばかりが浮かんでいく。
 いつか、どこかで手離すものに、こんな触れ方をしないで。温かい体温が移る度に、ぎゅうと心臓が締め付けられる。姿勢が保てなくなって地面に倒れる。やっと唇が離れ、呼吸をし始めた所で再びアズールの顔が迫ってきた。咄嗟に唇を掌で隠した。
「ま、待って、下さい」
 思いの外、荒い呼吸の最中で言葉を次ごうとする。しかし口元を覆う手さえも奪われて、地面に押し付けられるまま再び唇が落とされる。自由な脚で腿を蹴ると、眉を寄せながら膝で押さえつけられた。もう一度、舌が口内へ滑り込んでくる。抗議の視線を送っても、くすりと楽しそうに微笑まれ、口蓋が舐め上げられた。無意識に跳ね上がった腰が掴まれ持ち上げられた。その先は不味い、と分かって全力で身を捩れば、漸く振りほどく事が出来た。見上げたアズールは悪びれもせず微笑んでいる。
「な、にを、して」
「嫌でした?」
「な……」
「確かに、僕達に恋や綺麗な愛なんて似合わないと思います。そんな物、お前は受け取る事もできませんから」
 体の横に手を付かれ、もう一方の手がシャツに入り込む。そしてゆっくりと釦が外されていく。
「やめて下さい、こんな所で……」
「こんな所でなければいいんですか?」
 先程までの殊勝な気配はどこにもない。今、目の前にあるのは、底抜けに強欲な男の笑顔だけだ。
 そして、空色が宿す”得体のしれない物”の正体を知った。本当はずっと傍に居たいのだと言えば、彼は笑顔で頷いてくれるのだと、理解した。だからこそ、それはとても、恐ろしい。
「お前が僕の手を取ったんだ」
 温かい手が肌をなぞる。その温度を知ってしまった。それが冷えてしまう事が、もっと恐ろしくなってしまった。
「この僕が、手離してやる訳ないでしょう」
 ――ああ、だから嫌だったのに。
 瞼を落としたら、残っていた雫がぽとりと伝った。目を開けると、偽り一つも無い、嘘くさい笑顔が見下ろしていた。
「僕の部屋とお前達の部屋、どっちがいいですか?」
「……貴方の部屋でお願いします」
 先を求めるその瞳が、不安に焦がされる心を溶かす。夜空に架かる虹を見つけて、貴方に会いたいと思ってしまったのだと告げたなら、笑い飛ばしてくれるだろうか。
 自らを見下ろす空色に反射する虹を見て、微笑みながら、ジェイドはそっと口を開いた。

 

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