サラダと冗談

 

 消灯後のラウンジはひどく静かだった。丁寧に歩いても足音が耳につく。鬱陶しく思いつつ、キッチンの明かりを付ける。ぱちん、と聞き慣れた筈の些細な音がうるさい気がした。
 調理台やカウンターに目を向けて汚れが無い事を確認しつつ、冷蔵庫を開く。屈んで、中の野菜を手に取っては回し見る。
「うわ」
「どうしました?」
 奥の方から取り出した人参が腐っていた。思わず声を上げたら、背後から足音と共に声が降ってくる。そちらに腐敗した部分を見える様に突き出せば、「おや」と眉を下げて微笑んだ。
「確認担当の方がいらっしゃる筈なんですけどね」
「ちゃんと期限の近い方から使うよう指導しておいて下さいよ」
「承知しました」
 腐った人参を処理してから、適当にトマトとキュウリを取り、調理台に置く。それらをさっと水で洗い、包丁を取り出す。トマトに包丁を通しながら背後の方へ意識を向ける。かたん、と小さく物音がする。カウンター席に着いたらしい。
「何かお手伝いしましょうか?」
「いや、いいです」
 綺麗にスライスしたトマトを、白い皿の上へ円形に並べる。ディルを散りばめて、今度はキュウリを切る。
「本当にサラダだけで足りるんですね?」
「はい」
「今ならスープとパンも付けられますけど」
「ふふ。魅力的なお誘いですが、遠慮しておきます」
 透けるほど薄く輪切りにしたキュウリを、トマトの上からランダムに並べていく。もう一度冷蔵庫を開いて、クレソンとモッツァレラチーズを持ち出す。クレソンは食べやすいサイズに千切り、チーズは一口大に切る。
 くあ、と堪え切れずに欠伸をした。すると、くすくすと笑う声が聞こえて、睨みながら振り向いた。
「生理現象です」
「ええ、ふふ。すみません。僕のために無理をして頂いていると思うと申し訳なくて、つい」
「お前は申し訳ないと笑うんですね、悪趣味な事です」
 皿の上にぱらぱらと切った物を乗せて、軽く手を洗う。棚からボウルを取り、調理台の上に常設されているオリーブオイルを匙で測り入れる。酢と塩、胡椒を混ぜる。こちらは目分量だ。出来たドレッシングは盛り付けた皿に仕上げとしてさらりと掛けた。
「ほら、出来ましたよ」
 そのまま振り向いた位置のカウンターに、機嫌良さげな笑顔で座っている。目の前に皿を置くと、目尻を下げて「ありがとうございます」と告げる。手元にフォークを置いてやる。
 彼は早速フォークを手に取って、トマトとキュウリを突き刺した。開いた口から鋭い歯がそれを齧り取る。その後は静かに咀嚼をして、ごくりと喉を動かし、にこりと笑う。
「美味しいです」
「当然ですね」
「アズールも一口いかがです?」
 三つ又の切っ先が、野菜とチーズをまとめて突き刺す。それを彼は持ち上げて、正面に立つアズールへと伸ばしてくる。
「要りません。カロリーオーバーです」
「そう言わずに。一口だけですから」
 ね、と駄目押しのように首を傾げられて、顔を顰めた。暫く一口のサラダと睨みあってから、それが動かない事を悟り、溜息を吐く。
「味見だけですよ」
 口を開けたら、待っていたフォークはすぐ運ばれてくる。唇で挟んでフォークから引き抜き、咀嚼した。新鮮なトマトの食感が良い。オリーブオイルの香りも丁度良い塩梅だ。頷きながら飲み込む。
「やはり調理の手間もなく、万人受けをする味……メニューにしても良さそうですね」
「おや。メニューになってしまうんですか?」
「何か問題でも?」
 脳内勘定をしていた所で、カウンター越しに色違いの双眸と目が合う。随分暗い空間でも、その片目は眩しいくらいに浮いている。もう一口、ジェイドの口腔にサラダが吸い込まれる。それを味わう様に、ゆっくりと噛みしめて、目を閉じた。
「いえ、ただ……僕だけのメニューで無くなってしまうと思うと、寂しくて」
「はっ。寂しいなんて感情、お前にもあるんですねぇ。初めて知りましたよ」
「本当ですよ」
「はいはい、そうですか。なら止めておきましょう」
 手を付いていたカウンターから離れ、嘘くさく微笑む彼に背を向けた。棚からガラスのコップを二つ、持って戻る。カウンター上に並べると、ジェイドの感情の読めない目がアズールを見上げた。コップにまず氷を流し入れ、冷蔵庫から取り出した炭酸水を注いだ。そこに数滴、レモンを垂らす。ぱちぱち弾ける泡が綺麗に見える。二つのコップのうち、一つを持ち上げたら、ジェイドも鏡合わせにコップを持ち上げた。そのまま無言でこつんと鳴らし、レモンサイダーを喉に流し込んだ。
「好きですよ」
「レモンサイダーがですか」
「ええ」
 一瞬の期待感を気取られないように飲み込む。喉の奥でぱちりと弾ける炭酸に眉を寄せると、ジェイドがにこにこと笑う。
「貴方とこうして過ごすのも、好きですよ」
「そうですか」
「ええ」
 少しの沈黙を過ごして、再びサラダにフォークが突き立てられた。健啖家の割に丁寧な食事風景を眺めながら、またサイダーを飲んだ。
「僕も、嫌いじゃないですよ」
「おや? 随分とご機嫌ですねえ」
「そういう所は好きじゃありませんけどね」
 まあ嘘ですけど、とは続けずに、炭酸ごと胃の奥に押し込んだ。彼は「ひどいですね」と楽し気に笑う。
 空になった自分のコップに炭酸水を注ぎ直しながら、また欠伸をする。丁度サラダを飲み込んだところだったらしいジェイドが、笑おうとして、大きく口を開けた。一瞬心臓が跳ねたが、すぐに閉じたのを見て、彼もまた欠伸をしたのだと知った。仕返しのように笑うと、彼は口元を隠しながら微笑んだ。
「うつってしまいました」
「違います。お前も眠たいだけですよ」
「ふふ、そうかもしれません」
 空になった皿の上にフォークを置き、「ご馳走様でした」と手を合わせる。簡素に頷いてから食器を下げると、ジェイドも席を立った。
「片付けは僕がしますよ」
「じゃあ、お願いしましょうか」
 軽く手を洗ってから、入れ替わりでアズールがキッチンを出て、ジェイドが入った。ジェイドの座っていた席に着く。大分、夜も深い。眠気に頬杖を付いて、食器を洗う背中を見つめる。
 唐突に首を擡げた幸福感に、思わず笑いを零した。
「何ですか?」
「いえ、別に?」
「そうは聞こえませんけどねぇ……」
 声色だけで、眉を下げて笑う顔が思い浮かぶ。困り顔を鮮明に想像しながら、笑みが浮かぶのを止められなかった。
「さて、明日は何にしましょうかね」
「おや……珍しい。僕のためにまた時間を割いて下さるのですか?」
 頭の中に浮かべるのは、簡単で、ラウンジメニューに無いもの。どうせ、あの言葉が冗談めいた物だとは知っている。今の言葉だって、そうだ。少なくとも、アズールはそう思っている。
「ええ、もちろん。お前のためなら、いくらでも惜しくはありませんよ」
 だからこそ、アズールも同じような言葉を打ち返す。するとジェイドはいつも、くすくすと笑って、少しだけ嬉しそうな声色で「ありがとうございます」と呟く。
 水音が止んで、ジェイドの手が皿を拭く。美しく磨かれた陶器を丁重に食器棚に戻す。
「そろそろ寝ましょうか」
 真っ直ぐ伸びた背中に声を掛ける。心の奥底で『もうすこし』と粘る声からは目を逸らし、飽くまで平常通りの顔を作る。ジェイドは当然頷いた。
「……ああ、そうだ。アズール」
「なんです?」
「冷蔵庫の中身をチェックしておきませんか? 腐敗した食物は、他の食物も腐らせてしまうそうですよ」
「そんなの……」
 いつでも出来る。すぐアズールの脳内には合理的な言葉が浮かんだが、口を噤んだ。代わりに、殊勝な顔を作って頷いた。
「ありがとうございます。一人では時間が掛かってしまうので、時間の無駄かと思いまして」
「ええ、そうですね。人数の多い方が効率的です。流石はジェイド」
「恐縮です」
 席を立ち、再びキッチンへ入る。本当は先程、既にチェックは済ませている。それにジェイドが気付いていない筈もない。それでも、知らない振りをして冷蔵庫を開ける。隣でジェイドも真面目な目をして中を覗き、野菜を手に取る。
「好きですよ」
「在庫整理がですか?」
「……ええ」
 アズールの首肯と同時に、ぷ、とジェイドが吹き出した。顔を顰めつつも、別に咎める気はしなかった。
「笑うな」
「無茶をおっしゃる」
 それでも咎める振りをして、笑いに震えるその手を握った。

 

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