足を踏むたび、真っ新だった白い砂浜に靴跡が凹む。さく、さく、と刻まれるリズムが耳慣れている。それが妙に懐かしい。
時刻は、時計を持って来なかったから不明だ。しかし、視界も悪い程度には深い夜の最中にいた。波が押しては返す涼やかな、重い音に耳を澄ませる。水を吸い込んだ温い砂が、二の足を踏むジェイドを誘いこむ。
海辺には似合わないスーツを着こんだまま、汚れ一つ無い革靴が砂を荒らす。さくりさくりと鳴る音が、ある一歩を境に止んだ。波打ち際まで近付いたと理解したジェイドはぴたりとそこで歩みを止めた。
暫く、そこで立ち止まっていた。潮を含んだ風を浴びる度、足先に微かな海の気配を感じる。靴を脱いで、外套を取り去って、そのまま飛び込んでしまえたらと夢想する。しかし相も変わらず、トルソーの如く立ち尽くした。
海から逃げるように視線を持ち上げた。そこには暗い空と、朧気に浮かぶ月がある。天体を覆う幕のような雲は、確か雨の前兆だったか。美しさに目を奪われるより先に何処かで得た知識が掠める。昔は純粋に空を見上げていた筈なのにと考え、少しだけ感傷に浸る。それもすぐ終わって、雨が降る前に帰ろうと視線を海に戻したら、直線上の水面から何かが顔を出していた。
遠くに見える銀色の頭は、ジェイドと同じく月を見上げていた。時折水を跳ね上げながら、それは水位を保っている。水面から細い腕が月へ向かって伸びる。
絵画染みた景色に割り込んできた存在に、思わず笑いを噛み殺した息を漏らす。途端に、ひやりとした風が吹き抜けていった。意識の外で身を固くし、背後に目を走らせる。そこには暗い岩肌が続くばかりだった。再び前方に意識を戻すと、何もいなくなっていた。
しまった。そう感じた時には判断が遅かった。背を向けずに逃げるには時間が足りない。焦る視界の全てに、巻き上がった水飛沫が散らばる。逃げを打った足首に濡れた感触が巻き付いた。脚が浮いて、背中を打ち付ける前に同じ物が腹へ回り、抵抗を諦めた瞬間に暗い海へと引き摺り込まれた。
顔が水に沈んだ。咄嗟に固く目を閉じ息を止めると、胸倉を引っ掴まれ口に柔らかいものがぶつかった。ジェイドが動けずにいると頬を引っ張られ、痛みに開いた僅かな隙間にぬるりとした感触が入り込む。同時に苦みの強い液体が流れ込み、反射的に飲み込んだ。喉を鳴らす音が鈍く響いたら、それは離れていった。足が宙に浮く感覚に軽い恐怖心を覚え、手を伸ばす。その手はすぐに冷たい体温に包まれた。
「目を開けなさい、ジェイド」
穏やかさを装った冷たい声が液体を伝って鼓膜を揺らした。懐かしさが胸を満たし、浮いた手足がその声に近付こうと藻掻く。そこで足が上手く動かせない事に気付いた。確認のためにも言われた通り目を開けようとしたが、何故か上手くいかない。潮が眼球を痛める感触が鮮明に浮かぶ。発声して目の前の存在に伝えようとしたが、口を開けるのも難しく、発声の仕方も混乱した頭では思い出せなかった。
どうしようもなくなって、もう一方の手も伸ばす。またすぐさま掴まれて、冷えた体温が海を報せる。呼吸が上手く出来ない。すると、背中に陸で巻き付いてきた感触がした。今度は優しく体を締め付けてくる。ゆっくりとお腹を押されて、息苦しさから頑なに閉じていた口が開いた。ぽこり、と空気の抜ける音がした。口腔内に水が流入してきて噎せかけたが、一度咳き込んだだけで、後は落ち着いた呼吸が始まった。ほっと安堵に息を吐いて、漸く故郷の言葉を思い出した。
「目が開けられません。あと足も動きません」
声を発したら、海へ帰ってきたのだと実感する。しかし浸る暇もなく、背中を引き寄せられ、生じた水圧に息が詰まる。繋がれていた左手が外れ、頬に手が添えられたのが触覚で分かった。相変らず恐れて閉じたままの目でそちら側を向く。何も見えないと、目の前にいるのが想定している相手であるのかすら不明瞭だ。そう思った直後、再び唇に何か触れた。今度はすぐに離れ、代わりに握られた右手が下に引っ張られた。複数の足がぶわりと水を蹴ったのが波で感じられる。人間の身体では凡そ耐えられない水圧を浴びながら、水底へと急降下していく。上手く振れない脚は波に煽られる。諦めて身を任せる事にした。
ふと腹に小さな粒が当たる気配がする。そこで降下も止まったので、底に到着したと知る。しかし腕は前方へと引っ張られる。何度か脚が砂を蹴ってしまいながら付き従っていると、また不意に止まって、静かに手が離れた。
「あ、待って」
一瞬で不安が押し寄せた。砂にぺたりと脚を投げ出した格好で中空を手探りする。薄目を開けようと努力したが、まだ人間の頃の意識が邪魔をした。恐らく、初めて水底を心細いと感じた。
背後から波が届く。本能的に距離を測った。そう遠くない。そこに何かがいるとだけ分かった。それ以上は、絡まった頭では思い出せない。
「アズール、アズール」
きゅうきゅうと親を呼ぶように喉を絞めた。途端に前方から先程の比ではない波がやってきて、一瞬で全身が絡みつく感触に包まれた。そのまま強く引き寄せられ、視界が更に暗くなった。視界を塞いでいるが故によく聴こえる耳も、周囲の音が隔絶された事に勘付いた。そして現状を記憶から引き出して理解した。知らず詰めていた息を吐いて、自らを包む足に寄り掛かった。
「すみません。そんなに怖がるとは思いませんでした」
「僕も、思いませんでした」
「……すみません」
がむしゃらに動かしたら、脚がぺしんと床を打った。何本かの足がぴくりと動いた。暫し静かな空間だったが、がさがさと何か探す音がした後、紙をめくる音がし始めた。
目も開かない、相手も飽きて読書を始めた。手持ち無沙汰になった手が長い足を掴む。手のひらに吸盤がくっついて懐かしく思った。
――ここ数年は、海へ戻らなかった。他でもないアズールの依頼だったから、完璧に済ませるまで陸に居るつもりだった。海底でも陸上でもラウンジを続ける彼の手助けをすることが心底楽しかったせいで、そもそも戻る事自体を忘れてしまっていたのもある。偶然、気まぐれで海を見に来たら、偶然にも多忙な支配人と暇が重なるとは。
考えながら吸盤に頬をくっつける。戻って来てしまったら、陸に戻るのが惜しい心地になる気がして避けていたのに、と文句ばかり頭に浮かぶ。思考に沈み始めたらきりがなかった。
「そもそも、アズールが行けと言ったのに」
暇をするのも疲れるので、浮かんだ文句は口に出す。紙の音が止まった。
「戻って来なくていいと、言ったのに」
恨み言ばかりは流れる様に口を衝く。しかし、その先は言えなかった。ぶすりと口を噤んで吸盤に齧り付く。息を詰める気配がしたが、鋭すぎる歯が吸盤を欠けさせてしまっても、溜息一つが降ってくるだけだった。
急に頭に触れられる感触が届いて驚いた。暗闇にいると油断する。陸での生活に慣れ切っていたせいもあるだろうか。まだ、脚は動かない。頭の上を何度も手が往復する。撫でられているのだと気付いたのは、アズールが口を開いた時だった。
「もういいですよ。お前が陸に上がらなくても、他の手段は幾らでもありました」
手が頬まで滑る。ぱさりと本の落ちる軽い音の後、もう一方の手も頬を挟んだ。
「……いや……そうじゃないか」
呟いて、頬から手が離れる。今度は首を両腕に抱き締められたらしい。頬には細い髪が触れる。
「もう、陸には上がらないで下さい」
「……あんなに頑張ったというのに、お気に召しませんでしたか。悲しいです」
「違う、分かってるだろう」
腕と足で、長い身体を抱きしめられる。これでは動く脚でも動かないな、とどうでもいい思考に逃避した。それから、今度は陸上に残してきた仕事を思い出した。本来であれば、今夜中にやるべき事をひとつ、残してきてしまった。これでは怒られる、と考えたところで、やっと目の前の存在に意識を戻した。
「お前、が、いないと」
背中に爪が立てられた。少し痛みに身を捩ると、更に身体が締め付けられた。
久々の感触の、その全てが安心する。ずっと強張っていた身体が、そう認識した時、弛緩した。
「……僕には、お前が要るんだ」
震える発声が、海に融けた。それが聴覚に届いた、と思ったら、視界には暗い壁が映っていた。
ぱちり、と瞬きをする。一拍遅れて、瞬きをした事実に気付いた。それからまた一拍して、目が開いた事を認識した。眼球を隣に動かした。銀髪が視界の端で揺れている。
絡みつく蛸の足をどうにか振り解いて、暗色の背中に手を触れる。あやす様に数回、優しく叩く。
「アズール」
一度名前を呼ぶと、首に回っていた腕が解けた。肩を掴んで離れていった顔を覗き込む。暗い眦に水の粒が浮かんでいる。そこに手を伸ばして指の腹で拭う。するとぎょっとした様子で遠のいていった。
「危ないですよ! 人間と違って、お前には爪が――つ、めが……」
咄嗟だったのだろう、飛んできた窘める言葉は消えていく。涙で濡れた空色の双眸が大きく見開かれた。ふと、その足元に目を遣る。人間向けの、水泳の教え方、と銘打たれた教本が落ちていた。思わず笑ってしまった。
一気に眉に皺が寄り、見慣れたアズールの顔になった。同時に拘束してきていた足も解ける。笑顔を隠さないままで、アズールを追って少しだけ泳ぐ。ちらと視線を脚――尾鰭に遣った。無意識に、泳ぎ方を思い出したようだった。
「アズール」
「うるさい。まさか全部演技だったんじゃないだろうな」
「ふふ、そんな事はありませんよ。本当です」
今度は逆に、ジェイドが俯くアズールの頭に抱き着く。未だ動きにくい尾鰭は投げ出して。懐かしい銀髪に頬を寄せた。
「僕もです」
蛸壺の床に落ちたままの尾鰭に、ぺたりと吸盤がくっついた。
「貴方が必要、みたいですよ。アズール」
「……そうですか」
「ええ、そうですよ」
腕が背中に回った。そういえば表皮に鱗があると今更思い出して、抱き締める位置を頭から肩にずらした。冷たい色の空と目が合った。
細められた双眸からまた雫が上る。そちらに視線を動かしていたら、動きの鈍い尾鰭が少しだけ動いた。そこに数本の足が引き留める様に巻き付いてきた。
「おやおや……まだ泣き虫なんですねえ」
「お前の代わりに泣いてやってるんだ」
「ふふ。ありがとうございます」
涙を拭う必要がない、という感覚をやっと取り戻して、ただその背を撫でる事にした。硬い皮膚を感覚の鈍い手で触れ、鰓で呼吸をする。もう、一人で陸には上がれないと確信をした。海に戻るのに、こんなに苦労をするのは一度でいい。
「……本当に、ありがとう、ございます」
言葉が落ちた。思考が緩んでいる。上手く、何も誤魔化せないと分かった時には遅かった。陸にいた影響で、随分と判断力も鈍っている。上がる雫が二つになったのに、アズールも気が付いたのだろう。ふっと笑う気配がして、同じように、優しく背を撫でた。
「お前は、人間じゃないんです」
足がジェイドの尾鰭を持ち上げる。何度か上下に動かして、泳ぎ方を教えているようだった。教本を思い出しておかしくなる。
「人間じゃないんだ」
言い聞かせるような言葉が染みていく。次第に尾鰭の感覚が戻ってくる。不意に足が離されても、尾鰭は床に落ちなかった。試しに尾鰭を動かして、アズールの胴に巻き付いてみたら、アズールが嬉しそうに微笑んだ。
「お前に二本の脚は似合いませんね」
「貴方もたった二本では足りないでしょう?」
「ええ、二本だけでは力不足ですよ」
絡んでいた尾鰭を離す。同時に身体を包んでいた手足も離れた。目を合わせて、ジェイドはくるりと反転する。水圧を押し出して、狭い壺の口から這い出せば、焦がれた故郷が広がっていた。続いてアズールも慣れた様子で壺を抜け出し、隣に並んだ。
「さあ、行きますよ。お前がいない間に、こちらは随分と酷い有様です」
「そんな軟弱な経営をする方でしたか?」
「だから……、お前が要ると言ったんですよ」
「ああ、そういう意味だったんですね。てっきり僕は」
尾鰭を打って波を放つ。下を泳ぐ魚が本能から逃げていくのが見えた。隣を泳ぐアズールの手を引いて、真っ直ぐに、慣れたラウンジに身体を進める。過ぎていく景色の速さも久しぶりだった。
「貴方の心の方、かと」
「そうだと言ったつもりなんですけどね」
「おや? そうなのですか? 嬉しい、僕もです」
「白々しい」
深海を泳いで、北へ北へ進む。どんどん寒くなっていく水にも郷愁を覚えるのみで、二匹の魚は、陸を離れて暗い海へと消えていく。
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