罰とズルと青春色

 

 足裏の全体で地面を蹴る。殆どが惰性で動いているだけの脚を前進させ、ぜえぜえと息を切らせた。
「もう、限界ですか?」
「お、まえも、だろ」
 ふらついた姿勢をどうにか保って、同等にぐらつく長身を睨む。取り繕った声色だが、明らかな疲労を滲ませている。それも当然だ、と思いつつ背後を振り向く。目の前の男によく似た兄弟が、全速力で駆けてアズール達に手を振っている。
「あいつ、化け物か……?」
「僕達が遅いんですよ」
 汗でべたつく体操着を緩めて手で仰ぐ。炎天下で走り込みなどと気が狂っているとしか思えない。遂に立ち止まってフロイドを待つ事にしたら、少し先を走っていたジェイドも止まる。考える事は同じだ。
「オレあと一周~!」
 しかし待ち人は一陣の風と共に通り過ぎた。呆然と目で追うと、アズール同様にへろへろのジェイドは笑顔だけは上手に作って、駆け抜けるフロイドとハイタッチを交わしていた。この光景を見るのも三度目だ。どうにか一歩だけでも進もうとしたが、余りの疲労で手を膝につく。
「フロイドがあと一周、という事は……三度抜かされた僕達は、あと四周あるようですね」
「うるさい……余計な事を言うんじゃありません」
「ただの事実ですよ」
 屈むのだけはどうにか堪えて、息をつく。せめて水が飲みたい、と思い胸元に手を伸ばしたが、空を切った。意識せずに舌打ちをすると、くす、と笑われる。
「ズルをしないように、とバルガス先生のご意向で、没収されているのでしたね」
 顔を下げていても、刃物に似た歯を見せ笑う表情がありありと浮かぶ。息を整えるついでに苛つきも吐き出す。この男は、分かっている事を質問する事が好きなのか、と以前に問われていた事があったが、アズールはよく理解している。今もこうして、分かりきったことを説明してくすくす笑っているこいつは、単純に性格が悪い。ただでさえ”補習”などに掛けられた事実が腹立たしく落ち込んでいる最中だというのに、と考えて、だからこそかと思い直す。本当にたちの悪い奴だ。
 息を荒く呼吸して、どうにか回復を試みていると、不意に魔力の気配がした。驚いて上体を上げたら、顔面に思いっきり冷水がぶっかけられた。
「ぅぶっ!? お前っ、何するんだ!」
「怒らないで、貴方が干からびてしまいそうだと思っての気遣いです」
「どこが……!」
 ずぶぬれになった体操着を一枚脱ぐ。頭を振って水を切りながら、少し冷えた頭で、つい先程の話を思い出した。
「お前、マジカルペンも無いのに魔法を使ったんですか? こんな無駄な事に?」
 心配や驚愕より先に呆れがやってきて、それが顔に出る。アズールの思考と感情を汲んだジェイドはくすりと笑い、首を振る。そして、背後に手をやったかと思うと、次に見えたその手にマジカルペンを握っていた。
「ああ……良くやりましたね」
 すぐ脳裏に浮かんだのは、補習に集められたアズールとジェイド、フロイドがマジカルペンを渡した時の映像だ。ジェイドは真正直に渡したが、確かフロイドは『忘れた』と嘘をついていた。そして、風と共に通り過ぎていったフロイドとの数度の接触。落ちる所まで落ちていた感情が水面に浮上してきた。口元には笑みすら浮かぶ。
「お褒め頂き光栄です」
 ジェイドは普段通り、恭しく腰を曲げる。しかし、ぴしりと伸ばしていた脚ががくりと折れた。そのまま地面に膝を打つ。驚いて目を丸くするジェイドに、腹の底から笑った。
「あっはっは! お前が僕に膝を付くなんて、補習も悪くありませんね!」
「元気ですねぇ、アズールは……」
 何事もなかったかのように立ち上がり、膝を払う。動作のひとつひとつが丁寧で綺麗なジェイドが、今はその鱗が剥がれ落ちかけている。とても愉快で笑っていると、ぴきりと腹筋が痛んで、蹲った。
「いっ……た!」
「おやおや……笑い過ぎて腹筋を痛めるなんて、アズールは本当に面白いですねぇ」
「それはどうも。まあ、お前ほどではありませんけどね」
 割れそうに痛む腹筋を擦りつつ、どうにか立ち直す。そこで、目の前に差し出されていた手に気付いた。
「何です、今の手は」
「はて、何の事でしょう?」
 素早くその手は背後へ納められてしまった。追及を避けるべく別の手がマジカルペンを振る。微小な魔力の気配と共に、疲れ切っていた肺や心臓が気力で満ちてきた。アズールはやれやれと両手を振って、回復した脚を進めた。同時にジェイドも先を行く。少し早足で、その背中を追い越し、並ぶ。
「何ですか?」
「有能なお前を褒めてやろうと思いましてね。僕の事をずっっっと気にして頂いて嬉しいですよ、ジェイド」
 軽く背中を小突いたら、一瞬だけぎょっとした。しかし、すぐに偽の笑顔に取り繕われる。
「アズール……それは自意識過剰、という物ですよ」
「そうですか。ではいつも以上にお前の足が遅いのも気のせいなんですね」
 珍しく汗の垂れる涼し気な顔を見上げる。じとりと細めた余裕の薄い目が見返してきた。見慣れない表情に、じわじわと熱い感覚が上る。
「そんな目で僕を見ないで下さい」
「どんな目ですか」
「僕の口からはとても……」
 戯れのように言いつつも、熱を帯びた自覚があるから目を逸らしてやる。その時、少し前方から、聞き慣れた叫び声が聞こえた。思わず顔を見合わせると、ぷ、と笑いが飛び出す。暑さでやられているのだろう、何だかずっと楽しい。これではまるで、雑魚の謳う”青春”のようだ。
 それから肩をぶつけながら走って、汗だくで倒れるフロイドを見つける。本気で切れかけている彼に、まずジェイドが崩れ落ちた。希少な大爆笑が聞こえて、アズールもつられて腹を抱える。
「なに笑ってんの」
 風の保護が外れてやっと暑さに襲われたらしいフロイドが這いずりながら、転げる二人のもとへ近付く。アズールは未だ痛む腹を擦りながら、震えて蹲るジェイドの腕を掴んだ。
「ほらっ、逃げますよジェイド! あと四周もあるんですから!」
「ふっ、ふふふっ、はい! すみませんフロイド、こちらは後程お返します」
「後じゃ遅ぇんだよ!」
 脚を縺れさせながら、校舎周りを疾走する。持ち前の胆力で起き上がったフロイドも後を追ってくる。これでは追い付かれるのも時間の問題だ。
「ジェイド!」
「はい、何ですか?」
「それを僕に貸して下さい!」
 手を差し出せば、すぐに意図を解したらしいジェイドがペンを置く。足を止めずに振り向き、鬼の形相で駆けてくるフロイドに見せる様にペンを振り上げた。
「あー! ちょっと、ふざけんな! アズール!」
「では、お先に失礼します」
 律儀に礼してふらついたジェイドの腰に腕を回す。商売道具の笑顔を貼って、無慈悲に魔法を振り下ろした。

 ぱ、と場面が切り替わる。一気にしんとした空間に放り出され、戸惑う様に心拍がうるさい。炎天とは真逆の冷気に包まれた部屋に辿り着いたと知り、気を抜いて膝を折った。
「はぁ~……疲れた……」
「お疲れ様でした」
 にこ、と笑顔に覗き込まれる。平常通りの表情になったな、と思った直後、その額から汗が垂れる。少し笑って拭ってやると、気恥ずかしげに眉を下げた。
「これからどうします?」
「まずはシャワーを浴びます」
「ふふ、そうですね」
 汗や水でびしょびしょになった服を雑然と脱ぎ、真っ直ぐシャワールームに向かう。籠に服を投げ入れたところで、振り返った。
「来ないんですか?」
「え?」
「どうせ入るなら同時の方が効率が良いでしょう」
 壁を指で鳴らして急かすと、一度汗を拭ってから、「ではお言葉に甘えて」と脱衣所に足を踏み入れる。その腰を抱いて足で扉を閉めたら、困り顔の微笑がアズールを見下ろした。
「お行儀が悪いですよ、アズール。まったく……急に元気になって、貴方は面白いですね」
「おや、お前は違うんですか?」
「ふふ。意地の悪い質問だ」
 背中に腕が回されたのを確認してほくそ笑む。アズール同様にずぶぬれになっている体操着を脱がせていると、またジェイドがくすくす笑った。
「随分と機嫌がいいですね」
「いえ、こんな事をしていたらフロイドに怒られそうだと思いまして」
「ふん。ズルをするからこうなるんですよ」
 脱がせた服はアズールの物と一緒くたにして、熱に灼かれ赤くなった手を引いた。
「まあ、怒られるのはアズールだけですから」
「じゃあ、今からお前も怒られるようにしてやりますよ」
「おやおや、怖いですねぇ」
 水を張ったバスタブに腰掛ける。全身が真っ赤になっているジェイドの肌を撫でると、擽ったげな声が落ちる。
 見つかったら確実に激怒されるだろうな、と思いながらも、赤い指先に唇を落とす。額に同じ物が返された時には、止める理性などとっくにどこかへ飛んで行っていた。

 

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