恋愛マスターの敗戦

 

 緑の盤面に白を置く。斜め上に並ぶ三枚の黒をひっくり返したら、あ、と珍しく気の抜けた声がした。戦況は半々、しかし今の攻撃で白陣営が優勢となった。対戦相手は黒の石を手に、盤面を睨みつけている。
「……ここ、そんなに悩む場面?」
 何時まで経っても動かない盤から、目の前で固まるアズールに視線を移した。イデアの声を聞き、その眉間に皺が寄る。ああなんか機嫌悪いかも、うわめんどくさ、と一気に頭に思考が巡る。口に出したら余計に面倒だから口は噤む。
 険しい表情のままで彼は眼鏡のブリッジを押し上げ、それから盤上に石を置く。ばん、と叩き付けるかのような置き方が、アニメかゲームの演出染みていて口元が笑う。彼は目敏くそれを見咎め、睨む視線がイデアに移った。
「随分と余裕そうじゃないですか。僕には、そこまで白優勢には見えないですけどね」
 言いながらぱたん、ぱたんと白色を黒に変えていく。四枚。今度は黒陣営が一枚抜いた。「どうぞ?」と手を広げて催促してくる後輩から視線を外してペットボトルの蓋を捻る。何だかいつもより面倒くさいな、と思う。本日の部活動において、この単純なゲームを提案したのはアズールだ。それなのに全く集中が見えない。その癖、負けが見えたらこうしてひっくり返しに掛かる。甘い炭酸を喉に通しながら盤面を見る。ほら、やっぱり穴だらけだ。半分になったペットボトルを近くの椅子に置き、白の石を手に取る。
「アズール氏、今日どうしたの? クソ雑魚なんだが?」
 二つ目の角を白が埋めた。そこから連ねて小気味良く黒を白へひっくり返していく。ばきりと正面から嫌な音がして反射的に顔を上げると、アズールの手にへし折れたペンがあった。
「ひぇっ……え? 拙者の腕も折るぞってこと?」
「イデアさんがそうして欲しいのなら、してあげますよ」
「いやいやいやそれはマジ勘弁。ほ、ほら、話とか聞くからさ……何かあるんでしょ、今日のアズール氏変だし……」
 両手を上げて椅子ごとずり下がる。恐怖心でついうっかり口が滑ってしまった。アズールが数回瞬いて、真面目にイデアの方を見た。絶対に面倒な話だ。不吉にも隣でペットボトルが倒れた。アズールは粉々になったペンを丁寧に机の上に並べてから、にこ、と例の営業スマイルを浮かべた。
「それは助かります! ぜひイデアさんにご相談したい事がありまして!」
「これ壺買わされる流れでは?」
「いえいえ。本当に個人的な話なんですよ」
 机を挟んで、身を乗り出しそっと耳打ちするような格好で声を潜める。つられて机の方に身を寄せる。ふと盤面に目を落としたら、今の騒動に乗じて少し荒れていた。
「時に、イデアさん……あなたは恋愛相談がお得意だとか」
「はい??」
 盤上を整理しながら耳を傾けていたら、予想外の言葉が聞こえ手を滑らせる。口を開けてアズールの方を見ると、胡散臭い笑顔が待ち受けていた。
「ま……まあ? 拙者、多種多様なシチュエーションを履修済みですから? そこらのパンピーよりは詳しい自信がありますが? ……え? アズール氏、今から恋愛相談するつもり?」
 盤面が片付けられていく。折角優勢だったのにと思わなくもないが、今はそれどころではない。件の後輩は笑顔を少し崩して、少し真摯なトーンで肯定を示した。
「ええ、僕だけではどうにも行き詰ってしまって。『恋愛マスター』のイデアさんに、ぜひアドバイスを頂きたいんです!」
「監督生氏ー!!」
 頭を抱えて椅子に三角座りした。調子に乗ってそんな発言をした気がする。口を割った犯人への恨み言を胸中で叫ぶ。その間に机の上は片付いたらしく、ガチャガチャと鳴っていた音が静かになる。目線をそちらへ向けると、盤上には初期設定の四枚が並んでいた。
「はー……まさかあのアズール氏が恋愛って……どこにそんな暇があるわけ?」
 日々、勉学どころかカフェ経営に手を出して駆け回っている姿を見ているイデアからすれば当然の感想だった。そんなタイプにも見えなかったのに。重い溜息と共に姿勢を戻し、盤面に向き直った。
「で、相談って何? どうやって手を繋いだらいいのか、みたいな?」
 軽く馬鹿にしながら問う。適当に今度は黒の石を選び、直列位置に置いた。一枚白をひっくり返すと、すぐに相手も鏡合わせに並べてきた。
「手を繋いで、どうなるんです?」
「え? その段階? やば……」
 予想以上に厄介な相談を受けてしまったらしいと後悔し、爪を噛む。また眼鏡越しの鋭い目に睨まれて溜息が出た。
「拙者なんのアドバイスをさせられてるの? え、告白したいとかそっち系?」
「告白……そうか、その手が……いやでも今更だな……」
「……アズール氏? あのー、もしかして告白してないのに付き合ってるとか思い込んでる奴?」
「違います」
 否定の句と同時に石が叩き付けられる。ぱたぱた黒が白に塗り替わっていくのをぼーっと見詰める。
「付き合うとか、そういう話ではないんですよ。僕とあいつは、その……そう。将来を約束した仲なんです」
「……許嫁?」
「そ……いえ、婚約者、の方が近いですね」
 学生の身で婚約か、と考えて、つい先日の騒動を思い出した。あの時は散々な思いをして、学生結婚だのゴーストの寮長になればいいだのと揶揄われて随分と恐ろしい気分を味わった物だ。それと比べ、目の前で盤面を見下ろしつつはにかむ男は、望んだ相手と婚約をしている。この差は一体何だとこの世の理不尽に思いを馳せた。
「はー、どうせアズール氏の相手なんて良い所の儚げ美人なお嬢様でしょリア充爆発しろ」
 腹いせに見逃してやっていた角を取って一気に一列奪い取る。しかし、それをにこやかに見詰めているアズールに、先程の自分が連ねた言葉が真実だったらしいと悟り歯軋りした。
「そんな人生勝ち組のアズール氏が拙者に何の相談があるって言うんだ……」
 無気力に歪んだ背中を更に沈め、机に片肘を付き頬を乗せる。駄菓子を探しポケットを漁るが何もなかった。
 適当に投げた問いのせいか、急に静かになった。胡乱に目を向けると、真剣そうな青い目が盤面を見下ろしていた。その視線が戦況を見詰めているわけではないのは流石に分かった。机上に置かれた手指が忙しく組み直される。それを暫く無心になって注視していると、遂に決したらしいアズールが口を開く。
「変わらないんです」
「……何が?」
「関係性が、出会った時から同じなんですよ。元々、向こうが面白がって近付いてきたんですが、それが今も変わらなくて」
 イデアの脳内では、儚げ美人のお嬢様人魚がガリ勉人魚のアズールに近付いてくる場面が浮かんでいた。ガリ勉人魚だったかどうかは知らないが、その時のイメージにおいてはそうだった。それが今も続いている、とその二人が成長したイメージを浮かべながら首を傾げた。
「友達っぽいってこと?」
「まぁ……はい」
「それこそ手を繋ぐとか、キスとかしたいってこと?」
「…………まぁ」
 妙に歯切れ悪く答えられるが、イデアはあまり気にせず相槌を打った。確か、正にといったシチュエーションの漫画を読んだ事がある。というか、割と良くあるシチュエーションだ。友達以上恋人未満、というワードはラブコメの鉄板である。自信満々に腕を組み、背筋を正して座った。
「なるほどなるほど、鉄板のシチュですな。そういうのは大体、何らかのイベントが発生して進展しますぞ」
「イベントとは何です?」
「例えば、その子が襲われてる所を助けるとか」
 真っ先に頭に浮かんだ、これまた鉄板なイベントを口にしたら、アズールの表情が苦々しげに歪む。
「そのイベントは起こりませんね」
「え? なにゆえ?」
「まず襲われる事がないですし、例えあっても僕が助ける前に終わります」
「えっ……?」
 一瞬、脳内の儚げ美人が暴漢に腹パンをする光景が浮かんだがすぐに打ち消した。恐らくこっちだ、と黒服の男に囲まれるお嬢様の姿を浮かべた。その特殊性も考慮してアドバイスをしなくては、と思ったところで、案外乗り気な自分に軽く引いた。
「あ、じゃあ更にベタに壁ドンとか……」
「無理ですね」
「えっ、これも? ああ、周りのSPが止めに来るとか?」
「SP……もありますけど、そもそも相手の方が大きいので」
「……え? アズール氏よりでかいの?」
「何ならイデアさんより大きいですよ」
「やっば」
 もうイデアの脳内では巨人の儚げ美人がアズールに壁ドンされて気付かずに蹴っ飛ばす様が浮かんでいた。流石に二次元すぎる。
「あーでも分かる。アズール氏、細長い子好きそう」
「えっ、そ……そうですか?」
「あと真面目な……ギャルゲー的に言えば敬語キャラの尽くしてくれるタイプ」
「なっ、いや、そんな……そんなに分かりやすいですか……?」
目を逸らし狼狽えるアズールに勝ち誇った気分になる。これが経験の差だ、と胸中で威張ってみる。それに、様々なシチュエーションを見てきたイデアには、二次元染みた相手を知ってもまだ案があった。不敵ににやりと笑うと、アズールが怪訝げに見遣る。
「主人公より大きい攻略対象なんて最近は良くある属性の一つ。その場合に起こるイベントと言えば――床ドン!」
「ゆ、床ドン……?」
「要は押し倒すって事ですな」
 言い換えた途端にアズールの顔が赤くなった。想像でもしたのだろうか。それから大きく首を振って机を叩く。
「駄目に決まってるでしょう!」
 勢いのまま盤上に白が置かれた。今日一で良い手だった。次に取るつもりだった手を考え直しながら、意外なくらい純情な反応をする後輩にも軽く引いた。
「とにかく、幼馴染キャラとかの攻略には必ずと言って良い程そういうイベントがあるんだよ。友達から男として意識してさせる的な……アズール氏もなんか、ほら、目の前で林檎を握り潰してみるとかどう?」
「それは既に見せた事があります」
「ええ……なんで……」
「頼まれたので」
「何その子……お似合いだよもう、勝手に爆発してくれ……」
 隙の少ない白の駒を目で追い、追い詰める一手を脳内で試行する。また爪を噛む。そして決断し黒を置き、一枚だけ白を返す。これで引っ掛かってくれれば。そう願いつつ顔を上げると、アズールが意外そうに目を開いた。
「そこでいいんですか?」
「え? うん……何?」
「いえ、構いませんよ。ただ……」
 にっこり、とこれまた隙の少ない笑顔が見えて、終わりを悟った。
「クソ雑魚だと思いましてね」
 さながらチェックメイトを言い渡す様に、鷹揚に角へ一枚の白が盤に並んだ。ひっくり返すまでもない。黒の負けは確実だった。イデアはがくりと肘を倒して机に突っ伏した。今日は厄日だ。
「どんだけ根に持ってんのアズール氏……そんなんじゃ婚約者に鬱陶しがられますぞ」
「僕、好きな人には優しくするタイプなんです」
「あー完全に余計な事言ったわ。はいはいリア充乙」
 仕返しのつもりでぼやいたら倍返しのダメージを負った。ゲーム盤を真横から見る。それ越しに見えるアズールのやけに晴れやかな笑顔が腹が立つほど清々しい。
「しかし、イデアさんのお話は参考になりましたよ。ありがとうございます」
「拙者のアドバイス何も役に立ってないんだが……」
 机に頬をくっ付けたまま、手を伸ばし指先だけで駒を取っては重ねていく。マグネットでぺたぺたくっ付くのが今は鬱陶しく思えた。
「要は意識をさせればいいんでしょう? まずは普段とは違う行動を取って様子を見てみるとします」
 アズールはそう言いながら席を立つ。そのまま颯爽と婚約者に会いに行くのかと感心していたらロッカーから箒と塵取りを取り出しただけだった。それはそれで感心すべきではあるが、机に散らばるペンの破片を集める姿が残念に思えて仕方がない。
「ちょっと聞きたいんだけどさ、アズール氏、これまでどういうアプローチしてきたの?」
 今しがた恋愛に関して疎そうだと思わされ、これほど地味なアドバイスに喜んでいる様子を見れば心配にもなった。その実、もし失敗してイデアのせいにされては堪らない、という考えが大半だが顔には出ない様にする。アズールはゴミを捨てながら、そうですね、と話す。
「色々と試しはしましたよ。出来るだけ共に行動をするよう心掛けたり、部屋に呼び出したり……まあ仕事のついでですが……」
イデアも倒れたペットボトルを片し、ゲーム盤を折り畳む。へえ、と相槌を打つ。まさかそれで終わりじゃないだろうと言う思いを込めて話者を見る。
「この前なんて、わざわざ休みを同日にしてみたんですよ。でも、あいつと来たら! 僕も休みだと伝えたら『良かったですね』と言って、一人で山へ行ってしまったんですよ!」
「山……? 昔話か?」
 久々に丁寧に片付けた気がする机の上を手で払う。黒のプラスチック片が手を突っついて背筋が冷えた。
「あっぶな……」
「最近はもう、あいつの好きなきのこについて研究してみようかと血迷っていたところなんです。本当に助かりましたよ」
「はい? きのこ? ……アズール氏の婚約者、某国の姫だったりします?」
「はあ?」
 ロッカーに掃除用具を戻し、呆れ顔で振り向かれた。その顔がしたいのはこっちなんだが。とは言わず、「なんでもない」とだけ返しておいた。
 それにしても、アズールの話す相手が全く想像が付かなくなってしまった。彼がお嬢様と行動を共にしているのを見た事がない。いつも隣には大きな双子を連れているくらいだ。そういえば、最近は副寮長と常に連れ立って歩いているのを見かけた事を思い出す。本当に実行していたんだろうか、と疑問を抱いた。私よりもそいつがいいのね、と空想上のお嬢様がぷりぷり怒っている。
 やたら鮮明に妄想をしつつ、動かしていた机椅子を元の位置に戻していく。横目でアズールを見れば、片付けに参加せずスマホを触り始めている。どうせ、今しがた話題にしていた子にメッセージを送っているのだろうと思い舌打ちが出た。彼がスマホを仕舞った頃には、教室はほぼ元通りになっていた。負の感情から来る集中力は凄まじい物だ。
「すみません、片付けていただいて」
「別に? 出したのは拙者ですし? こっちにはリア充的な用事なんてありませんし?」
 一応片付け忘れがないか適当に教室を見渡す。そこで、がらりと教室が開け放たれる音がした。同時にがつんと椅子を蹴る音もした。振り向いたら、蹲って悶えるアズールと、扉を開けた格好で立ち止まる副寮長、ジェイドの姿があった。
「あー……大丈夫? アズール氏」
「平気です」
 便宜上、声を掛けておく。気丈にも言葉通りにすぐ立ち直り、彼の醜態を見て口元に手をやり笑う薄情な補佐役の方へつかつか歩いていった。
「お疲れ様です、アズール」
「ええ」
 まるで何事も無かったかのように慇懃に微笑むジェイドに、アズールも同様に返す。そのまま去っていくと思われて、二人に「それじゃあ」と手を挙げた。しかし、イデアの手は中途半端な位置で止まる。
「…………何でしょう? これは」
 何を思ったか、リア充手前の後輩は扉を閉めたかと思ったら、どん、と音を立て副寮長の体の脇に腕を置いた。イデアは急な出来事に後退り、両手で口元を覆った。宛ら野次馬だ。
「あ、アズール氏? 流石にそこまで怒らなくても……」
「怒ってません」
「怒ってるじゃないですか」
 大層な握力の腕に阻まれて苦笑いしている普段物騒な男に、今回ばかりは同情の念を送った。自分より小さいとは言え大きめの男に壁ドンをされるなんて、安いラブコメでももっとマシなシチュエーションがある。
「…………ん?」
 そこまで考えて、ふと、ある気付きをした。困り顔で扉に張り付く長身痩躯。その背はイデアよりも大きい。加えて、確か彼らはアズールの幼馴染。そういえばハッピービーンズデーに、イデアの作成したシューターとの取引に彼が持ってきたのは貴重なきのこだった。やって来るタイミングもやけに良い。今しがたの連絡を受けたのは、もしかして彼なのでは。
「……え、マジ?」
 もう一歩後退ったら踵がプラスチック片を蹴っ飛ばした。まだ残っていたらしい。しかしイデアの脳内はそれどころでは無かった。
「あの……すみません、イデアさん。この人、どうにかして下さいませんか?」
「へぁっ? あ、はい。アズール氏、あんまり押し過ぎも良くないんで一旦離れてあげ……」
 熱心に壁を押し続けるアズールの肩を叩こうとして、はた、と思い留まった。これは正しく”襲われている”からの”助ける”という状況。自分がフラグを立ててどうする。躊躇って中空で手を彷徨わせていると、首を傾げられる。
「イデアさん?」
「あ、あんまり拙者の方見ないで……」
「おや、照れていらっしゃいます?」
「やめて! アズール氏怒ったら面倒なんで!」
 勢い良く仰け反ったせいで背中を机の角に強かに打った。ぐえ、と潰れる蛙の声が出る。せめて出入り口以外でやってくれ頼む。幾ら念を送ろうとも、状況は変わらなかった。
 アズールが遂に動いた。片方の手を上げ、ジェイドの頬を撫でる。叫びそうになったが飲み込んだ。件の婚約者(仮)はきょとんと目を丸くして、本当に困った顔で笑っている。そこでアズールの相談の意図を解した。なるほど、鈍感属性持ちか。
「イデアさん、話が違うじゃないですか。こいつ、全然効きませんよ」
「いや拙者は床ドンって言っ……ああ待って帰ってからにして! 拙者には今日発売の新刊を買いに行くというクエストが――」
 同情心を抱き掛けた所で、アズールがジェイドの腕を掴んだ瞬間に全て吹っ飛んでいく。なんと行動力のある男だろうか。とにかく教室から出たいという一心で横を通り抜けようとしたが、残念ながら運動能力が不足していた。咄嗟の事で反応しきれなかったらしいジェイドの投げ出された脚に引っ掛かって、思い切り廊下に向かって顔面から突っ込んだ。ああなんて厄日なんだ。
「うう……」
「いたた」
 痛む鼻柱を押さえて体を起こす。薄目を開けたら、全身の血の気が引いていった。ただでさえ青白い顔が真っ白になったような錯覚をする。なんと、巻き込み事故を起こしてしまっていた。あろう事か、後輩の婚約者(仮)を押し倒すという形で。
「イデアさん」
「ひいっ!」
 ぽん。肩に手を優しく置かれた。情けなくも悲鳴を上げて飛び上がる。振り向くのが恐ろしくて固まっていると、視界には倒した状態でイデアとその背後を見上げるジェイドが映る。これはこれで嫌な予感がする。案の定ギリギリと肩を破壊する勢いで掴まれて叫ぶ。
「痛い痛い痛いやめて下され! 拙者の肩が取れてしまいます!」
「人の婚約者を押し倒しておいて、良くもまあ被害者面が出来たもんですねぇ?」
「え? 僕ってアズールの婚約者だったんですか?」
 混沌とし始めた争いの渦中に落とされた発言に時が止まる。正にザ・ワールド、術者だけは首を傾げて笑っている。
「……やっぱりアズール氏の妄想オチ?」
 やっとの思いで口を開くと、背中に強烈な頭突きが為されて体勢が崩れる。倒れ掛けたら両手で首を掴まれた。
「ちょ、死ぬ! 首はダメだから!」
「ああ〜、もう! お前……お前はー!」
「うぐぇっ……」
 容赦無く揺さぶられて脳まで揺れる。意識が落ちる事を諦めた所で、別の手が首を掴む手を外させてくれる。突然に酸素が供給されて噎せ返った。涙が出てくる。滲む視界の中央には、それはもう楽しそうに笑うジェイドがいた。
「もしやアズール、稚魚の頃の約束のお話をしていらっしゃいます?」
「あ? ああ、そうですが?」
「ふっ……ふふ。そんなの、もうとっくに忘れている物だと思っていました……ふふふっ」
 背後からは不機嫌な声が降ってくる。正面では死ぬほど笑うご機嫌な姿がある。堪らなく居心地は悪いし、何なら今からの展開に嫌な予感が迸っていた。
「今更、冗談だったなんて言っても無駄ですよ。イデアさんに紹介してしまいましたからね」
「おやおや、外堀から埋める……というやつですか。怖い人」
「はあ、全く……すみませんね、イデアさん。うちのジェイドがご迷惑をお掛けしまして」
「僕ですか? 巻き込んだのはアズールでは?」
 目を固く閉じて弱々しく首を振った。現在進行形でご迷惑は掛けられている。知り合いが自分を挟んで甘い空気になるなんて誰が想像できるだろうか。これが三次元。これが理不尽な現実。今すぐに自室へ引き篭もりたい。しかし背後から掴む手と正面で転がる長身がそれを阻む。
「そうだ、キスでもしておきます? この前のイデアさんのように」
「未遂ですが……」
「そうですね、折角ですから。ほらジェイド、どうぞイデアさんの肩を持って起き上がって下さい」
 前後から肩を掴まれ、ジェイドの顔が無遠慮に近付いてきて悲鳴を上げた。同時にくすくす聞こえてくる笑い声でわざとである事が完璧に理解できたがどうしようもなかった。
 助けてオルト。この際ケイトでもいい。誰でもいいから助けてくれ。
 祈る様に手を合わせて目を閉じている間に、無慈悲なシャッター音が鳴り響いた。目を開けたら、同じクラスのリア充陽キャがスマホ片手に笑顔で佇んでいた。
「#修羅場 #イデアくん大ピンチ! ……って感じ?」
終わった。短い人生でした。両手を胸の前で組み、そっと目を閉じた。遺産はオルトに譲渡してくれ、と小さく呟いたら、「なんて?」と無慈悲な聞き返しが行われ、そのまま形振り構わず逃げ出した。
 呼び止める声にも足を止めずに走った。このまま購買まで行く。最後の最後に気になって振り向いた。ケイトはもう興味を失くして去っていく姿が見えた。問題の二人は床に倒れたまま、キスもせずにただ目を逸らし合っている。イデアが抜けた事で改めて向き合い、恥ずかしくなっているのだろう。要らぬ分析をして脳髄が叫ぶ。
「……リア充爆発しろ!!!!」
 頭を抱えて蹲る。NRCで純愛なんかするな。溢れ出る嫉妬心やら何やらを吐き出し終えるまで動かない気でいたが、微かに聞こえる話し声が辛すぎて、喉が焼けるのも構わず走って逃げる事を選択するのだった。

 

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