「愛しています」
言葉と同じく丁寧に置かれたティーカップに目を遣る。温かな湯気が立ち上り、質の良い香りが人工的なコロンの香を上書きする。カップの取手に指を引っ掛け、ふとヴィルの語っていたマナーについて思い出すが、目の前に居るたった一人を見上げたらどうでも良くなる。そのまま口元まで運び、淵に口を付ける。いつもながらに出来の良すぎる紅茶を舌で味わい、ちらと目線を上げる。人好きのする笑みを貼っ付けた、見飽きた顔がアズールを見下ろしている。その目は爛々と、期待だか好奇だかの感傷に染まり切っていて、思わずうんざりとした顔を作ってしまう。こういう顔をしているジェイドに絡むと碌なことがない。視線を避けて瞑目し、紅茶を味わう。ふわりとアズールの好む香りが鼻腔を擽る。温かくなった息を吐く。
「相変わらず、紅茶を淹れるのが無駄に上手いですね」
「はい。愛しています」
話を逸らすのには失敗した。片割れと違って凝り性なこの男は、一度したい事が決まると、満足するまで頑なに続ける奴だ。それがどれほど下らない事柄であっても、それこそアズールを巻き込んででも達成しようとする物だから、十分過ぎるほど理解が出来てしまっている。眉が寄ったのを自覚したが、ジェイドは変わらず楽しそうに笑ったままだ。
「……今度は何の遊びですか? ジェイド」
「ふふ。愛していますよ、アズール」
小首を傾げて微笑む姿は、普通であれば単に愛らしいだけだろうが、内面の多くを知り尽くしてしまっているアズールには素直にそう称す事は難しい。腹の底に隠し持った鋭いナイフがいつ飛び出してくるか、警戒し過ぎるくらいで丁度良いような相手だ。カップとソーサーを一度机に置き、指を組む。笑顔を崩さない時のジェイドは大抵、何かを隠している。思いだとか、感情だとか。今は恐らく、楽しみにしている心自体を利用して、何かを誤魔化そうと試みている。そう予測を置いて、言葉を練った。
「アズール、愛しています」
ティーセットの横に小さな包みが添えられる。ジェイドを見れば、笑顔が更に深まったようだ。それを手に取って眺めてみる。かさりと銀紙がずれると、甘い香りと茶色の球面が覗いた。チョコレートだ。色々と思考を巡らせてみるが、特に目ぼしい考えは浮かばない。では、恐らくチョコレートである事に理由は無いだろう。自らの思考に回り込んでくる男が相手だと分かっているアズールは、その考えの正しさを確信していた。包みを開けて、手の上に転がす。丸い表面に、可愛らしい赤のハートが飾られていた。
「ジェイド……」
「はい、何でしょう」
件の言葉が無かった事に一瞬違和感を覚えてしまった。つい言葉が止まる。勘付いたのか、ジェイドは口元を隠してくすくす笑う。気付かない振りをしながらカレンダーを確認して、つい溜息が出た。
「アズール、」
「はいはい僕も愛してますよ。ほら、こっちに来なさい」
首を引き寄せ、唇にチョコレートを当てる。躊躇ったのを見て確信する。ピアスを指で弾いて揺らす。ジェイドは眉を下げて笑い、そっと口を開けた。チョコレートがその口の中で溶けて、赤く染まった頬が愛らしく緩んだ。
「で? 愛する僕にどうして欲しいって?」
「貴方がしばらく構って下さらないので、不安になって」
喉を通っていった液体がジェイドの本音を溶かし出す。目を逸らしながら、苦笑いする様子に心が跳ねた。全く以て食えない男だ。
「薬なんか盛らなくても、忙しかっただけだと良く分かっているでしょうが」
「でも、いつも貴方は何も言いません」
「お前だってそうだろう。でも、言って欲しいなら幾らでも言いますよ」
未だ温かな湯気が視界を僅かにぼやかしている。紅茶の香を超えた先に手を伸ばし、首根っこを掴んで引き寄せる。
「愛してる、ジェイド」
こんな言葉一つで喜ぶような、純粋な男だとは知らなかった。唇を奪ったら、甘ったるい砂糖の味がした。それから、頭が一瞬ちりりと痛んだと思ったら、もう喉から空気が押し出された後だった。
「馬鹿だな、折角逃げ場を用意しておいてやったのに」
するとジェイドは目を丸くして、ふっと息を吐いて、声を立てて笑った。それは、さも睦言を囁かれた少女の如く幸福げな笑顔だった。
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