何もない一日だった。最後の授業へ向かう廊下で、少し先を歩くリドルを視線に収めながら考える。面白かった事と言えば、魔法史の授業で珍しくリドルが居眠りをし掛けた事くらいだ。後ろの席にいたジェイドが小声で名前を呼んだだけですぐに目を覚まし、わざわざ振り向いて礼を言ったかと思えば、笑っていたせいだろうか、ジェイドの顔を見て不機嫌になった。あれは中々に楽しい事件ではあったが、やはり些事だ。今は眠気の一つも感じさせない足取りで、薬学室の前を横切っている。ジェイドもその後を追う様にして廊下を歩く。
先を歩いていると言っても、歩幅の差があるせいで、普通の歩みだけでリドルに追いつきそうになった。すれ違う生徒達も、一日の終わりらしく疲れた雰囲気で覇気がない。普段からそれらしい覇気も持ち合わせていないのがこの学園の生徒でもあるのだが。そんな事を考えている間にリドルに追いついた。それどころか追い抜いてしまいそうだ。
リドルが近寄る気配に顔を上げ、ジェイドの方を見る。彼が何か言おうとした時、不意にだらだらとした足音に混じって、明確な足音が響いた。音の発生源はジェイド、そしてリドルの向かい側。早足から駆ける音に変化したのに気付き、ジェイドは視線を正面へ移した。そして、すぐに原因が目に入る。六限目の廊下では、それは明らかに異質だった。教科書類も鞄も持たず、片手に小瓶だけを握りしめ、真っ直ぐにこちらへ向けて走る獣人。その首に見覚えのある枷を認め、ジェイドはリドルを追い抜いた。
「覚悟しろ、リドル・ローズハート!」
獣人の速度は凄まじく、判断は一瞬で行わなければならなかった。まず投げられた小瓶の軌道を確認する。流石の運動能力と言うべきか、的確にリドルの顔面へ向かって飛んでいく。次に速度。突き飛ばしても間に合わない。そして、中身。極少量で、少し濁った赤色だ。顔面に投げ付けている事を考慮しても、間違いなく経口摂取を要する物。分析が終われば、ジェイドはすぐに判断をし、身構えるリドルの前に体を割り込ませた。
打撲の衝撃と灼ける痛み、それからガラス瓶の割れる音が聞こえた。
「ジェイドっ!?」
焦った声と同時にふらついた腕が掴まれる。すぐに判断の誤りに気付く。獣人族の思慮を甘く見た。否、後ろ側にいる存在にまで思考が回らなかったのだろう。これは経口摂取ではない。傷口から広がる痺れに堪らず膝をついた。リドルに掴まれている腕だけが元の場所に在る。彼は一度膝を折ってジェイドの顔を覗き見ると、彼もまた瞬間的に判断をした。腕を手離して、目の前でたじろぐ獣人族へマジカルペンを向けながら、周囲で騒めいていた生徒達へ冷静な声を飛ばした。
「アズールを呼んできてくれ! 今すぐに!」
誰かがその場から駆け出す音が聞こえた。ジェイドはふらつく体をついに支えきれず、地面に手を付いた。そして、世界ごとひっくり返る様な回転の中、リドルの言葉が引っ掛かった。
アズールって、誰だ。
未だぐらつく頭を抱え、白いベッドに横たわる。暫く意識が無かったらしく、いつの間にか保健室まで運ばれていた。ずっと視界が回っていて、意識は戻ってもまともに立つ事すら出来ない。陸に上がった頃を思い返す。あの時の方がまだマシだっただろうか。目を閉じても回転は続いている。いい加減に吐き気もしてくる。幸いにも胃の中身は消化済みで空っぽだ。授業後に食事を摂るつもりでいたため、ジェイドはかなり空腹だった。気分の悪さの半分はそれかもしれないと思いつつ、一度目を開く。白い天井がゆっくり回転している。まだ駄目だ。仕方なく入眠に向けて首を横へ傾けると、そこで漸く人の存在に気が付いた。
「目が覚めたんですか?」
ベッドの縁に額をくっつけて寝息を立てる、自分によく似た姿形の人間。その奥で椅子に腰掛けて本を読んでいたらしい銀髪の男。それ以外には誰もいない様子だった。銀髪の男は本を置いて、ジェイドの方へ近付いてくる。素早くその服装、背格好、感情を分析する。普通の制服でマジカルペンが胸ポケットに差してある。自分より背は低く、線は細い。しかし、眼鏡越しの青い目は凪いでいて、その心象までは読み取れない。敵意だけは、恐らく無い。判断を済ませると、回る視界の中、気付かれない様にマジカルペンを手に取った。
「災難でしたね。怪我は治っているようですが」
眠るジェイドによく似た人物の隣に手を付いて、底の読めない微笑でジェイドの瞳を覗き込む。何かを読み取る心算であると勘付き、さり気無く目を閉じた。
「ああ、そういえば、副作用に酷い眩暈もあるとか。かなり辛いそうですね? 可哀想に」
わざとらしく笑って、心の欠片も含まれない声色が落ちてくる。そこへ混じる嘲りを感じ取り、薄目を開けながらベッド上を滑り移動して距離を取る。また降ってきた笑い声にマジカルペンを握る手に力が入る。
「何を怖がってるんですか? マジカルペンまで持って」
「……!」
咄嗟に眩暈を抑えつけて体を起こす。すると男は驚いた表情で手を伸ばしてくる。それを避けて、彼とは反対側の床へ足を着けた。当然ふらついてベッドに手を付く。
「何をやってるんだ、お前。全く……そんなにショックだったんですか? 大事な物を失くしたのが」
呆れ顔でベッドから手が離れる。その手がポケットに入れられ、足が半歩後ろへ下がった。それだけで、敵と判断するには充分な材料だった。爪先が向きを変える前に、真っ直ぐにマジカルペンを彼へと突き付ける。
「……え?」
目は逸らさない。弱っている事は悟らせない。歯を食いしばり眩暈を堪え、背筋を伸ばした。腕が震える事すら律して、ひっくり返りそうな胃も喉も無視して、その男を見据えた。
「リドル・ローズハートを、呼んできて下さい。今すぐに、この男も連れて」
「な……に?」
「早く」
男は目を見開き、唇を戦慄かせる。それから、傷付いた様な顔を作った。マジカルペンを軽く振る。酷い吐き気に襲われたが構わずに、魔法石へ魔力を込めた。青い光が収束していく。
「やめろ! 分かった、出て行く! だから……お前は寝て待っていて下さい」
魔力を放つ直前だった。それなのに、彼の言葉に本能的に従って魔力を治めた。その事実に背筋が寒くなる。危険だ。今すぐ排除すべきだ。そう思うのに、何故か一歩が踏み出せず、結局マジカルペンは手放した。すると、その男は安堵した表情を見せて、未だ眠るもう一人の腕を引っ張った。
「ほら、行きますよ。フロイド」
「んー……」
まだ起きていないらしい。目を瞑った状態で、引っ張り上げられるままに立ち上がると、銀髪の男に寄り掛かった。体格差で銀髪の男が呻き声を上げてふらつく。どうにかそれを支えながら、引き摺る様に扉へと向かって行く。退出を確認するまで視線で追っていると、扉に手を掛けた男が振り向いた。思わず身構えると、それを寂し気な目で見て、そのまま黙って保健室から出て行った。
扉の閉まる音が残響する。一人になった保健室で、ずっと詰めていた息を細く吐き出す。やけに息苦しい。ベッドに投げ出していたペンを胸に差して、そのまま横たわる。目を閉じようとして、然し出来なかった。また、いつ先程の様な人間が現れるか分からない。外敵から身を隠し続けるのは得意だった筈なのに、今は人間であるせいで眠れない事がストレスに感じた。仕方なく身を起こし、男が座っていた椅子に置きっぱなしになっている本を手に取る。魔法薬学の論文集だった。専門的な内容で、一般の学生では理解するのも難しい。椅子に座り、少し内容を浚って、男の正体をまた疑った。
それにしても興味深い内容だと思い、暫く読み耽っていると、扉をノックする音がした。素早く本を閉じて椅子から立ち、マジカルペンを手に取って、待つ。
「ジェイド。リドルだけど、入っていいかい」
「あぁ、リドルさん。お待ちしていました。どうぞ」
一つ断りを告げて開かれた扉の先に、寮服姿のリドルが立っていた。ほのかに甘いクリームと薔薇の香りが漂っている。マジカルペンを戻して、それから両手を前で組み、敵意を消してみせると、リドルがぱちぱちと瞬いた。
「すみません、パーティーの最中に」
「何で知って……いや、それより、キミ……大丈夫かい?」
彼は荒れたベッド、揺れる椅子、そしてジェイドと視線を走らせた。その目に、何がどう映ったのか分からないが、真面目な彼らしく心配している事だけは理解出来た。大方、庇われた事を気に病んでいたのだろう。だからこそ、いつもなら絶対に抜け出したりしないパーティーを抜けてきた筈だ。いつもなら有り得ないし、何なら今も有り得ない事ではある。そうと言うつもりが無かったらしい態度からも、その対応のイレギュラーが良く分かった。
「大丈夫、とは? 僕は一体、何の魔法薬を被ってしまったのでしょう」
それはつまり、それだけジェイドが酷い状態に置かれているという事を意味している。本当ならパーティーが終わった後にすぐ、もしくはジェイドの方を呼び出せばいいだけの事。実際、普段のリドルならそうした筈だ。ジェイドを相手に大事な規則を破るという事は、それ自体が規則を守る事に繋がっている。今すぐに、何かを伝える必要があって、そうしなければ規則違反以前の問題という話になる訳だ。
リドルはその予想通り、深刻な表情をしていた。腕を組んで、少し顔を伏せた。流石に、そこまで渋られるといくらジェイドであっても不安になってくる。このまま話を聞くのが億劫になりつつ、知りたいので黙って待った。
「……それは、、記憶に作用する物で」
ぽつりと話を始めたリドルは、決心をした様子で顔を上げ、普段通りの凛とした表情を見せる。異常の中に通常が見えると安心する。ジェイドも常の顔を作り、聞き返す。
「記憶ですか? そういえば、先程ここに来た銀髪の生徒も、大事な物を失った……だとか話していましたね」
「ああ……本当に、忘れているんだね」
痛ましげな眼を向けられてたじろぐ。本当の事を話しただけだ。しかし今の口調から、ジェイドは自身の失った記憶に察しがついてしまう。
「もしかして、僕、あの方達と知り合いなのでしょうか?」
可能性、というよりもほぼ確信して問えば、リドルは目を見開いて、それから心底悔しげに唇を噛んだ。あの時僕が、と呟いている様子が真に迫って深刻で、やっと事の重大さを想像する。
「リドルさん、僕が浴びた魔法薬は……」
「……そうだよ。その人物にとって、一番大事な物を忘れてしまう魔法薬だ」
背後でぱさりと何か落とした音がした。振り向いたら、椅子からあの論文集が落ちていた。同時にぐうと腹が鳴る。リドルはまた数回の瞬きをして、これまでの真面目な顔が思いっきり顰められた。
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