どくん、どくんと激しく脈打つ心音が煩い。膝の上で固めた拳に汗が滲んでいる。大して暑くもないのに自らの肌が赤らんでいくのが見える。長年抱えた思いを、遂に口にする決心をした筈だったが、いざ呼び出して目の前にすると情けなくも思考が詰まる。ずっと俯いていたアズールは、ジェイドの身動ぐ気配で漸く顔を上げた。
「ジェイド!」
「え? はい、何でしょうか」
勢い余って、手持ち無沙汰に組まれていた両手を掴んだ。汗で濡れる肌がバレてしまって、しまったと思うが諦め、今にも弾けそうな心臓を諫める。
きょとんと丸まった瞳孔が、大人しくアズールの言葉を待っている。呑気な表情に急かされ、小綺麗に飾った言葉を渡すべく多くを巡らせていた頭をフラットにして、飛び出すままの言葉を贈った。
「一生、僕の隣に居ろ」
言い切ってから後悔した。余りに真率過ぎる。案の定、ジェイドは更に目を丸くして、正体を疑う様に何度も瞬いた。今度は冷汗がたらりと背筋を伝う。今すぐ手を離して逃げ出したい、と思ったところで、目の前の男はくすりと困った顔で笑った。
「ふふ……仕方がありませんね」
「それは、良いという事ですか?」
「はい、もちろん。僕が死ぬまで、貴方の隣にいますよ」
平常よりも弱く微笑む表情に胸が絞まる。溢れる思いに抗わないで、自分より長身の体を強く抱き締めた。痛いですよ、と笑う声が全身に響いて、アズールは泣きそうになるのを我慢した。数年越しの思慕が実を結んだのだと、実感出来ない程の感動と充足感が体中を満たしていた。
朝を迎えて、浮足立つ心のままで双子の部屋へ駆ける。逸る気持ちを抑えずにノックすれば、すぐにジェイドが顔を出した。
「おはようございます」
「ああ、おはようございます。アズール」
すでにきっちりと制服を身に纏い、完璧な笑顔を作っている。後ろでは寝惚けた顔のフロイドが半分だけ着替えている。半目のままでアズールを認めると、何か納得した顔をしてフェードアウトしていった。気を遣われたと考えるまでもなく理解し、苦々しく思い顔を顰めた。
「どうかなさいました?」
「いえ、その……迎えに来たんですよ、お前を」
当の本人は通常と変わらず、平坦な対応をしている。言ってから照れてしまって、一つ咳払いをすれば、「はて」とさも不思議げに首を傾ける。
「今日は特に何も無かったかと思うのですが。急な会議でしょうか?」
「は……あ、いや、そうではなくて……」
分からない、と目でも口でも訴え掛けられて、浮かれる足を上から地に押さえ付けられた気がした。特別な関係になれたのだし、当然、特段に特別な扱いをしても良い筈だと考えていたが、ジェイドの方は違うらしい。純粋な疑問の目に見つめられると、段々恥ずかしくなってきて言葉尻が小さくなる。
ちら、と奥からフロイドが覗く。なにやってんの、と口の動きだけで伝えられたら、もう半ばヤケクソにジェイドの手を引っ掴んだ。
「行きますよ! ジェイド!」
「え、ああ。はい……?」
掴まれた手をまた不思議そうに眺めてから、部屋の中を振り返って「行きましょう、フロイド」と呼びかける。フロイドはひらひら手を振りながら目を逸らしていた。余り関わる気がないと示したいのだろう。それが伝わったらしいジェイドは更に首を傾げて、もう一度呼びかけようとしたので、両手で掴んで引き摺って行った。
昼になり、食堂でいつも通り三人で落ち合った。しかし今日はフロイドが「カニちゃんとウミヘビくんのとこに行く」と言い残して、適当な食事を手に消えていった。余計な真似を、と思いつつ、二人になれば正直に高鳴る鼓動が血を巡らせた。
朝は結局事務的な会話しか出来なかった。今度こそ、と意気込むアズールを他所に、片割れを見送ったジェイドは「おやおや」とだけ言って普段通りに列に並ぶ。アズールもその後ろに並び立ちながら、馬鹿みたいに浮かれる心を溜息で一旦落ち着かせることにした。
近くの席に並んで座り、手を合わせる。平常を意識しながら食事を口に運ぶ。ジェイドは相変わらずの量をもぐもぐ口に詰めている。それだけで琴線に抵触していくのだから重症だと思う。小さな肉団子を口に入れたところで、ジェイドもちらりとアズールを見るので目が合った。
「……どうしました?」
「どう、とは?」
「そんなに見詰められたら、顔に穴が開いてしまいそうです」
眉を下げて、優しげに目を細める。アズールは顔が赤くなるのを自覚して、すぐさま目を逸らした。口に入れていた米を飲み下して、咳払いをする。
「すみません……こう、どうも浮かれてしまって……」
「珍しい。ああ、例の商談が上手くいったのですか?」
「は? いや、違うに決まってるだろう」
流石に甘い反応など期待すらしていなかったが、馬鹿にされるか揶揄われるかという悪い想定より更に酷い返答だった。分からないフリをするなんて、あまりにタチの悪い揶揄いだ。少し強い口調で跳ね付けると、ジェイドはまた不思議そうな顔をして、そうですか、と簡素に答えてもう一つ肉団子を口に放り込んだ。
「ですから、つまり、僕はその」
「アズール。そろそろ食べないとお昼が終わってしまいますよ」
話は終わりだと言外に告げられた。しばらく夢中で食事を摂る横顔を見ていたが、諦めてアズールも食事に戻った。
放課後を迎え、教室を出てすぐにジェイドの教室を訪ねる。偶々、教室を出てきたリドルが顔を見るなり「中に居るよ」と言い去っていく。遠ざかる背中に向けてお礼を言い、教室の戸を開けた。
「ジェイド」
鞄を整理する長身に声を投げると、振り向いてまた目を丸くする。鞄に残りの教材を詰めながら、早足でアズールの傍へ寄る。
「帰りますよ」
「ええと……今日はシフトではありませんよね?」
軽く鞄の表面を払って、すらりと立つ。ふふと呆れた様な仕草で微笑む。アズールは指に引っ掛けた鞄を軽く揺らして、その目をじっと見る。彼の態度には何の衒いも無い。今朝からずっと普段通りだ。イレギュラーに浮かれるアズールを揶揄って楽しんでいる訳ではないように思える。
「用が無ければ、迎えに来てはいけませんか」
だからアズールも思うまま尋ねる。その問いにジェイドは虚を突かれたような顔をした。それから少し視線を落として、「いえ」と呟くように答える。その背後に歩いてくる生徒達の姿が見えて、何故か渋る腕を掴み教室を出た。
しばらく腕を掴んだまま歩いていると、ジェイドが軽く腕を振って「アズール」と呼び掛ける。痛いのかと考えて離し、ちゃんと手を繋いだ。
「え、あの……? アズール?」
「何です。これでも痛いと言うんじゃないですよね?」
「痛いというか……何故、と言いますか。こう言っては何ですが、アズール、今日は少し様子がおかしいですよ」
歩く速度を合わせて隣に立ったジェイドが、また呆れた様な微笑を作って覗き込んでくる。流石に揶揄われていると認識する。頭にきて、繋ぐ手を捻る勢いで握った。
「痛い、痛いです! どうして急に暴力を……」
「お前が僕を揶揄うせいだろう!」
「揶揄ってなんていませんよ。単純な疑問です」
「こっちは長年募らせてきた思いが成就したんですよ! 浮かれない筈がないだろうが!」
公衆の面前だという事も忘れて怒鳴ると、ジェイドが黙り込んだ。アズールの恐らく赤くなっているであろう顔を見詰めて、それからすっと目を逸らした。そして手を振り解く動きを見せた。照れているのかと思い当たり、手の力を常識的な強さまで緩めた。すると、何故か顔を曇らせて、腕を振る。
「離してください」
「はぁ? 嫌ですよ。お前が隣に居ると言ったんでしょう」
「それとこれとは話が別でしょう?」
「いや、むしろ一致していますが?」
廊下で手を繋いだまま引っ張り合う二人の姿は随分と目立った。偶然廊下を歩いていたジャミルから通りすがりに鼻で笑われ、一気に機嫌が地に落ちた。一旦引っ張るのを止め、手を離した状態で寮まで帰る事にした。
寮に戻り、「では」と部屋へ戻ろうとするジェイドに驚いて再度腕を掴み引き留める。
「今度はなんですか」
「それはこっちの台詞です。この流れで自室に帰る奴があるか」
「じゃあ、どこへ行けばいいんです?」
全く以てムードもへったくれもない男は、心底理解出来無さそうな顔で問う。いい加減に苛立ってきたアズールは掴む腕をそのままに、引き摺りながら自分の部屋へ向かい始める。
「アズール、離して下さい。アズール」
部屋へ近付くにつれてジェイドの足取りが重くなる。行き先に気が付いて怖気づいたのだろうか、と少し愉快に思いながら引っ張る。攻防に時間を掛けて漸く扉の前に立つと、ジェイドに腕を思いきり引っ張られてバランスを崩した。
「うっ……わ! 何するんだ!」
「こちらの台詞です。何をしているんですか、貴方。恋人が出来た翌日に、僕を部屋に連れ込むなんて」
尻餅を付いてしまって、じんと尾骶骨が痛む。目尻に涙が滲む。それでも意地で手を離さず、転ばせてきた本人の手を支えにして立ち上がる。
待てよ、今何を言われた?
「貴方の隣にいるとは言いましたが、流石に痴話喧嘩の原因にされるのは困ります」
彼は憂欝げに溜息をつき、じりじりと後退していく。暫し呆然として、それから言葉の意味を理解したら、「はあ!?」と素っ頓狂な声が出たのも致し方ない。ジェイドの思考に勘付き、信じられない思いで逃げる体に寄って、胸倉を掴んだ。
「あ、ちょっと、アズール」
「お前! 昨日の返事はそんな適当な意味で言った物だったのか!?」
「は……?」
頭に血が上って、またもや怒鳴ってしまう。廊下の遠くで怯える寮生が見えて、はっと冷静になる。一度手を離して、改めてジェイドの顔を見る。本当に、何故叱られているのか解せずに眉根を寄せていた。アズールはふぅと息を吐き出した。
「ジェイド、お前、どういうつもりで『死ぬまで隣にいる』と答えたんですか?」
すると何度か瞬きをして、ふむ、と顎に手を当てる。
「どういうつもり、も何も……そのままの意味ですよ。今後も貴方の隣でサポートをする、と」
「……はい? ……それだけですか?」
「ええ。いけませんでしたか?」
にこ、と微笑むジェイドに頭痛がして眉間を揉んだ。今この瞬間に、あの一世一代の告白の意図が何一つとして伝わっていなかったらしい事が発覚してしまった。今日のアズールに対する言動の違和感の原因はこれだった。
「一生隣に居ろと言うのは……そんな軽い意味ではなくてですねぇ……」
「僕としては、軽いつもりは無かったんですが」
「そっ……うだとしても、ですよ!」
一生という言葉の重さだけは伝わっているようだが、それではまだ勘定が合わない。正直に言えば、アズールも”恋人”になったつもりは特になかった。ただ”特別”になれれば良くて、だから関係性に名前をあえて付けないまま完結させようとしていたのは間違いない。そして、それがフロイドに『バレバレ』と言われたアズールの好意を何年も向けられて尚一切気付かない鈍感な相手へ、正しく伝わる筈も無かった。
アズールは反省をする。そして昨日のように手を握り、目を覗き込む。
「僕は、お前の特別でありたいんです」
「特別……ですか? 今以上に?」
「ええ、今以上に。僕にとってはずっと、お前は何よりも特別なんです」
真剣に、不純物が混じらないように意識して目を合わせる。ジェイドも見詰め返してくるが、そこには理解の色がない。これでは伝わらない。
「お前の事が大事で……他の何にも奪われたくないんですよ」
「大事……」
「能力が、ではなくて、お前がですよ。勘違いしていそうだから先に言っておきます」
そう言えば困り顔を見せたので予想が当たったなと息をつく。そこには戸惑いが混じるだけで、まだ本質を理解はしない。アズールはまだ言葉を選んで口を開く。
「お前が隣にいれば、それだけでいい。そうでなければ、僕は幸せになんて到底なれません」
「……なぜ?」
「だから……お前は僕の特別で、大事な存在だからです」
「なぜ、僕がいないと幸せになれないのですか?」
純な表情で訊いてくるジェイドに、赤くなったり青くなったりする自分が分かる。あと何度、一世一代を与えればいいんだ。本当はただ一言、口にすれば伝わるであろう言葉を持っていたけれど、どうしてもそれは言いたくなかった。拗らせてきた思いを平易な物にしてしまいたくないという面倒な意地だ。
後ろ足で扉を蹴り開けて、まるで蛸壺のようにジェイドを引き摺り込む。油断していたジェイドはよろけながら部屋にあがって、アズールはすぐに扉を蹴って閉めた。ばたん、と大きく音が鳴る。その音にジェイドが動揺を見せる。戸惑いに揺れる目がアズールを向いた。
「アズール? そんな乱暴にしては、扉が壊れてしまいますよ?」
だからだろう、どうでもいい話題で意識を逸らそうとしている。その腕を更に引っ張って、部屋の中へ導いていく。ジェイドは足を縺れさせながら付いてくる。踵が木枠に当たった。腰を落として、思いきりジェイドの腕を引き寄せた。
「うわっ……」
力一杯引いたからか、一瞬痛みに顔を顰めた。倒れてきた体を受け止めて、背中から倒れ込む。ぽす、と柔らかいスプリングが二人を包んだ。アズールの腹に乗り上げる体勢になったジェイドが退こうと動く。その肩を掴んで横倒しにすれば、衝撃に備えて目を閉じた顔が目の前になる。
あんなに緊張していたのが嘘みたいに、今の心は凪いでいる。恐る恐ると言った様子で目を開いたジェイドの耳に触れて、にこりと微笑む。ジェイドは胡乱げにそれを見詰めて、困ったようににこりと微笑み返した。
口元を隠そうと動いた手首を掴み、身を起こしてシーツへと押し付ける。そのままジェイドの腹へ馬乗りになれば、さあ、とその笑顔が青ざめる。聡明な彼の頭は、恐らく正解を弾き出しただろう。しかし今更気付いても、もう遅い。
「結局、最初からこうすればよかったんですね」
「待って下さい、アズール。話し合いましょう」
「どれだけ待って、話し合ってやったと思ってるんですか?」
指を絡めて固く握れば、今度は頬に朱が差した。アズールにとっても、もうそれだけで答えは十分だった。
「なぜお前がいないと幸せになれないのか……でしたね?」
「いえ、もう分かりました。答えて下さらなくても結構ですよ」
「どうぞ遠慮なさらず。この気持ちがほんの数瞬で理解しきれる筈もないですから!」
緩やかに足掻く脚を縫い留める様に絡ませて、邪魔な布団を蹴飛ばした。ああ、と嘆く声が彼の口から零れる。そこへ顔を近付けると、反発する磁石のように顔が逸れた。思わず手の力を強くしながら、更に近付いて頬に歯を立てた。
「ひ、何するんです!」
「全部教えてあげますから、ほら、さっさと観念してこっちを向け!」
「お断りします」
ジェイドの腕に力が籠って、シーツに 押し付けていた手が浮いた。負けじと体重を掛けて押さえ付ける。ふと我に返って現状を俯瞰し、一体何をしているんだと思う。しかし、視界に映る赤い頬と、さり気無く握り返されている手に、結局心は浮ついてしまった。 横目で様子を窺ってくるオリーブと目が合った。それだけで、昨日貰った肯定の言葉よりも、真っ直ぐに思いを貫かれた。今なら浮つくアズールに不機嫌になった理由も解る。今度こそ泣いてしまうかもしれないな、と考えながら、固く結ばれたネクタイに噛み付いた。
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