悪い夢だけ絞め殺す

 

「……っ!」
 自らの呼吸音に眠っていた意識が覚醒した。見慣れた天井を見開いて凝視する。荒い呼吸を他人事のように耳にしながら、全身が汗で濡れて気持ちが悪いと真っ先に思った。額から汗が落ちてくる。音を立てず身体を起こせば、布団の上にまで雫が落ちる。袖で額を拭う。しかし頬を伝う感触がして、汗に混じって涙が零れている事に気が付いた。
 何か、とても嫌な夢を見ていたはずだった。人間の体を得てから長く眠る様になって、夢とは大方目を覚ますと忘れてしまうものだと言う知識を身をもって体験するようになった。最初の内は知らない間に得る感覚が面白いと思っていたが、偶に不快感を伴って目覚める事があると分かってからは疎ましく感じる。特に、恐怖や不安といった感情はなかなか消えない。原因が分からない物は排除できないからだ。
 隣で眠る片割れに視線を送る。大きな口を開け、あどけない寝顔を見せる姿に少しほっとする。そして、そんな心象に嫌悪した。何かも分からない物に怯え、不安定になる自分が嫌だった。もう一度横になる。しかし、目を瞑っても、深呼吸しても、入眠できない。続きを見るのが、怖いのだ。
 一度歯軋りをして、それから身を起こす。フロイドは気持ち良さげに眠っていて、少々の事では目覚めない。傍に寄り、見下ろしてみる。不安に負けて、昔のように手を繋いでみた。フロイドが少しだけ身じろいだ。暫くそうしていたが、ざわつく心底は収まりきらない。違う、と判断して手を離した。以前はこれで収まった事もあったが、どうやら今日の夢は一味違うらしい。ずきずき痛む胸を押さえながら、とりあえず部屋を出た。

 暗く閑静な廊下を少し歩いてから、寝間着のままである事を思い出す。小さく舌打ちをした。これだから眠るのは好きじゃない。壁に手を付きながら、当て所なく夜の水底を進んでいく。足音がいやに響いて聞こえて、また胸を刺す鈍痛に涙が滲む。
「……はっ、はぁ」
 立ち止まり、息を整える。今更、想像上の出来事で泣きじゃくるなど恥だ。ぎゅうと胸元を握って、ずるずる地面に引っ張られていく。壁に肩を預けて、遂に膝を付いた。呼吸の度に肺を満たす冷たい空気が心地良く、そして、とても怖いと思った。
 静謐に広がる、ただ一人だけの発する生命の音が鼓膜を揺らしている。暗い無音の中、ジェイドだけが泳いでいる。顔を上げれば、何も無い虚無が口を開けて蠢いているような気がした。
 ふらつきながらも、どうにか立ち上がる。今度は、当てのある歩みだ。壁を伝って、廊下の奥へと向かって行く。
 そして、行き慣れた扉の前へ辿り着く。壁から扉へ手を滑らせれば、心臓が早鐘を撞く。脳内で引き留める声と、背を押す声が交ざり合っている。呼吸がまた不安定になった。視界が少しずつ滲み出す。何が怖いのか分からない。そこにいるのは怪物でも何でもない、ただの幼馴染でしかない。
 ノックをしようとしたら、どうしても体が固まって動けなくなる。ドアノブを掴んだら、ぼろりと涙が落ちた。開かなければ帰ろう。考えて、目を瞑り祈りながら回すと、扉は容易くジェイドを受け入れた。予想が外れて前のめりに部屋へ転がり込む。そのままぺたりと床に座り込む。静かだ。
 暗闇に慣れた目で部屋を見回して、いつも通りの空間に安堵の息が漏れる。慣れた空気を吸い込んで、心臓がやっと正常を刻む。未だ涙の流れる目をぱちり、ぱちりと瞬きして、部屋の主が横たわるベッドの方を見た。盛り上がった布団から、銀髪が覗いている。それは規則正しく上下していて、健康な生命の存在を主張していた。
「……アズール」
 無意識に名前を呼んでいた。声が震えたのが分かって愕然とする。なんとも厄介な夢を見たのだろう。こんなにも情緒が乱されたのは生まれて初めてだ。悔しくて唇を噛んだ。俯けば膝小僧を涙が濡らすので、余計に苛立ちが加速する。一体何の夢を見たのだろう。思い出したい。でも、思い出したくない。
 思考に沈んでいる最中、近くで布擦れの音がした。動けないままで耳を澄ませる。音はどんどん大きくなって、ばさりと布を落とす音がした。それから何か落ちるような音がして、流石に顔を上げようとした。しかし、それは叶わなかった。視界が突然暗くなったかと思えば、次の瞬間には背中が締め付けられていた。
「どうして」
 耳元に自分の呼吸音以外の声が流し込まれて、意識が漸く浮上した。ふわふわと夢の海を漂っていた頭が、ここを現実だと認識した。それと同時に、体を包む温もりを知覚した。後頭部が抱きこまれて、その肩に口元を押し付ける。慣れた筈の体温を、慣れない距離で感じて、思考が絡まる。背中へ腕を回そうにも、そうしていいのか分からない。
「どうして、すぐに起こさなかった」
 髪と寝間着をくしゃりと掴まれて、感情に震える声を聞いた。唯一動く瞼が持ち上がる。はっきりと見えた視界の端に、揺れる銀髪が映る。ぽた、と落ちた涙がその肩を濡らした。届いた筈の言葉へ理解が及ばず、ただ嗚咽に似た息を漏らす。掴む力が強くなった。
 少しすると腕の力が緩んで、少し体が離れる。顔を上げると、怒った顔のアズールがいた。
「なぜ、怒っているんですか? 勝手に部屋に入ったから、でしょうか」
 純粋に問えば、眠たげに赤くした目を眇める。呆れを含む眼差しが、不安に濡れる眼を貫く。その冷たい海の色が、何故だか心に憑りつく暗い恐怖を殺していく。巣食う悪夢から逃れたくて見詰め返せば、がしりと両腕が掴まれた。もっと引き寄せられて、額をくっつけながら、アズールが言った。
「馬鹿。僕を見くびるなと言ってるんだ」
「……僕がいつ、貴方を見くびったんですか」
「今、狭量で、非情で、甲斐性無しだと言っただろう」
「言ってませんが……」
 掴まれる腕が痛んで、ぽたぽた涙が落ちていく。腕を少し振って誤魔化そうにも儘ならない。拳を固めて耐えても、痛みが終わらない。涙が零れる。胸が風穴を空けた感覚がした。それを誤魔化そうにも、笑えない。それでもどうにかして口角を上げて、いつも通りの声色を取り繕う。
「すみません。実は少々、怖い夢を見てしまいまして……ひとりで眠るのが怖くて、つい来てしまいました」
 煙に巻くばかりはよく回る口で滔々と告げていく。アズールは黙ってジェイドの顔をじっと見て、眼鏡の無い真面目な顔で頷いた。そして、少しずつ力を抜いて、腕が離された。ああ誤魔化せたかと安心してその動向を目で追うと、ジェイドに手を差し伸べる彼の姿が見えた。思わぬ行動に体も脳も停止する。やっとの思いで首を傾げると、床についていた手を握られた。
「あの……」
「今何時だか知っていますか」
 手を引かれながら、問の答えを部屋に探す。壁に掛けられた時計を見上げて、午前二時です、と答える。妙な時間に起こしてしまったと冷静になり始めた頭で考える。謝ろうとした口は、しかしベッドに腰かけたアズールを見て噤まれる。何でもないような顔で、彼はジェイドの手を引く。
「アズール、何を」
「早く寝るぞ。明日も早いんだから」
 油断の折に引っ張られれば、抵抗なくベッドに片膝を付く。そのまま止まったジェイドの背中に腕を回して、アズールの方へ引き寄せられる。ベッドに倒れる様に寝そべると、そのまま全身で抱き締められる。
 温い体温が冷えた体に沁み込む。見飽きる程見た筈の顔を目の前にして、胸が焼け焦げるかと思う程に痛んだ。涙が止まらない。シーツを強く握り締めて、深呼吸した。薄く目を開けたアズールが背中をゆっくりと擦っている。それが苦しくてたまらなかった。
「アズール」
「はい」
「アズール」
「何ですか、ジェイド」
「アズール……」
「はいはい」
 腕と脚が体に絡まって、その苦しさが温かい。柔らかい声が冷たい夢に溺れる脳を溶かしていく。何の夢を見ていたのか、はっきりとは思い出せない。それでも、何となく把握出来た気がした。
 意を決して、アズールの背に腕を回す。すると彼の腕の力が強くなった。負けじと背を締め付けて、脚を絡ませ、額をぴたりとくっつけた。
「僕は何処にも行きませんよ」
 ふと、映像がフラッシュバックする。視界から消えていくその大きな影が、他の何より恐ろしかった。体温で、触覚で存在を感じながら、そんな妄想を優しく打ち壊す現実を強く望んだ。
「絶対ですよ」
「……ふ。お前が飽きないと言うなら、その願いは勝手に叶います」
 縋るような情けない声に対して、ふっと柔らかく緩んだ表情が、冷い感情をすっかり殺した。
 ジェイドは漸く静かになった頭に嘆息して、そっと目を閉じる。馬鹿げた心象ごと絞め殺す様な腕の感覚に心底安堵してしまえば、後は眠りに落ちるだけだった。

 

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