煌めくは彼の光

 

 視界や聴覚の全てを満たす青色に包まれていても、それはきらきらと輝いていた。子供心にその価値を正しく理解できる程、水の中を泳ぐ小さな雫は美しかった。閉じた瞳の奥から零れてくるその宝石は、悲しげな色をしているのに、なぜだか強く心惹かれた。
「……きれい」
 うっかりそう零したら、美しい宝石がまた溢れてきた。手に取ろうとして伸ばした数本は長い尾に叩かれた。美しい物は簡単には手に入らないものだと思っていたら、いつの間にか二色の瞳が開いていた。
 水に揺らぐ世界の中でも、その瞳が揺れているのがよく分かった。また宝石が零れていって、目の前に光がぱらぱらと広がっていく。
 欲しいと思った。思えば、それは初めての渇望だったのかもしれない。何度もまた見ようとしたけれど、どうしても上手くいかず、結局それっきりになっている。
 だから、そんな些細な光景を、今でもずっと忘れられないでいる。

「ねー、いつまで見てんの」
 ショーウィンドウを眺めるアズールの肩が、軽い調子で叩かれる。ガラス越しに見える同じ顔の並びは、それぞれ”面倒”と”面白そう”を体現している。
「買うもん買ったんだし、早く帰ろーよ」
「まあまあ、久しぶりの外出で浮かれているのでしょう。もう少し付き合って差し上げませんか?」
「ヤだ。オレ疲れたぁ」
 左右から聴こえる文句、嫌味、愚痴。耳慣れたものだが、それでも多少頭にくる。上がる肩を諫めるために息を吐き、視線の対象を元の場所へ戻した。
 その棚は、色とりどりの輝きを切り刻んで陳列している。一際目を惹く真紅、心落ち着かせる青藍、神秘的な藤紫。それが四角だとか丸だとか、様々な形に加工し装飾されて、気高くも売れるのを待っている。どれも人工灯を反射して、綺麗と言われるためだけに鎮座していた。
「フロイドったら……」
 背後で嘆息する声が聞こえて意識を遣れば、いつの間にか片割れが消えていた。散々文句を言っていたから、先に帰って行ったのだろう。常から間々ある事だ。余り気に留めず、視線をガラスの内側へ走らせる。
 白色の宝石に目を留める。ムーンストーン。透き通る白の中に青色の光が浮かんでいる。違う、と視線を外す。ダイヤモンド。飛び切りの値段が表示され、一際強い輝きを放っている。違う。また視線を外す。ホワイトトパーズ。透明な真白の球体。似ているけれど、違う。
 そうして暫く宝石を目を滑らせながら見ていると、静かに控えていた右腕がくすりと笑って言う。
「貴方、宝石に興味なんてあったんですね」
「どういう意味です」
「いえいえ、他意はございません。ラウンジの装飾にでもお使いになるのですか?」
 見るまでもない微笑を浮かべているであろうジェイドの声を聞き流して、一点に目を留める。
「……あった」
 ガラスに手を置いて、じっと見つめてみる。真白の球体。透明感のある艶めいた表面。間違いない、と思う。探していた物が、遂に見つかった。しかし、確かに美しいその宝石が、何だか物足りない気がする。
「真珠ですか。”人魚の涙”とも言いますし、寮の雰囲気にも良く合いそうです。まぁ、少々値は張りますが……」
 いつの間にかジェイドが隣に立って、同じ物を覗き見る。そちらを見れば、興味の欠片も無さそうな目がそこにあった。光に反射する黄金の中に、ぎらつく宝石が散りばめられている。その隅に、一層輝く透明な球体が見えた。
「おや……どうしました? 僕の顔が何か?」
 それを手に入れたくて伸ばした手は、いとも容易く肌に触れ得た。黄金が瞠目した拍子に、宝石が零れ落ちる。手のひらで頬を覆い、零さないように拭う。
「……欠伸でもしました?」
 幼気な胸中が明かされないよう、誤魔化しに分かりきった事を尋ねてみる。ジェイドは珍しそうな顔を一瞬見せて、「お恥ずかしながら」と何でもない顔で答えてみせた。ハンカチで残った涙を拭い取って、にこりと微笑む。アズールは手に残る水滴を握り込みながら、そんな光景を『勿体無い』と思いながら笑う。
「そこまで長時間付き合わせた覚えはないんですがねぇ。もしや寝不足なのでは?」
「実は、このところ快眠なんですよ。誰かさんの我儘に付き合っていると、良い具合に疲弊するもので」
「それはそれは、親切な人もいるものだ」
「ええ、本当に」
 口元を隠して笑う様に、心臓の奥が疼くのを感じる。見たい。あの輝きが欲しい。何度も夢想するだけなのはあまりに幼稚だ。
 ガラスに背を預ける。ジェイドの死角で密かに財布の中身を確認する。覗き込もうとする頭を遮って、丁寧に体の前で組まれていた手を掴む。
「ここで待っていて下さい。購入してきます」
 一瞬、不思議そうな顔で瞬きをしていたが、すぐに頷いて「かしこまりました」と微笑んだ。アズールの意図を深く汲む明晰さを、今は少しだけ憂慮している。どうか深意には気付かず笑っていてくれと願いながら、馴れた体温から手を離した。

 店内には女性客が溢れている。ちらほらと見える男性客も、大抵傍らに女性を連れている。噎せ返るような甘い空気に怯みながら、狙いの物へ一直線に向かった。
「彼女さんへのプレゼントですか?」
 ショーケースに指を置いて真剣に覗いていると、すぐに店員に目を付けられた。簡単な作り笑顔を向けられて、あぁ目元が繕い切れていないぞ、と完璧なそれと見比べて考えてしまう。アズールは脳内のそれを手本にして、完璧な笑顔を向けて言う。
「ええ、そうなんです。大切な恋人に、プレゼントがしたくて」
「そうなんですね。でしたら、こちらのダイヤモンドなど……」
「ああ、いえ。これで無ければ駄目なんですよ。真珠でなければ」
 隣のショーケースに手を翳す前に首を振る。もう一度、真白の泡に視線を戻した。あの日見た輝きは、ここにはない。
 それでも、アズールはそれを指した。値札には目も呉れず、気付けば柔らかく微笑んでいた。
「あいつを泣かせてしまうくらい、とびっきりの贈り物がしたいんですよ」

 店員のお辞儀に見送られて、店を出る。すぐに綺麗な姿勢で待つジェイドの姿を見つけた。通りの方から彼へ向かう視線を感じ、ずかずかとその長身痩躯に近付いた。アズールに気が付くと、慇懃に微笑みながら手を差し伸べる。
「お疲れ様です。良い物は買えましたか?」
「ええ、おかげ様で」
 荷物を持つという意思表示であることは分かりきっていた。しかし、アズールはその手に自分の手を重ねた。ジェイドの動きがぴたりと止まって、それから、少しぎこちなく笑う。
「ダンスの誘いでは無いのですが……」
 落ちていく手を追い掛けて握る。困ったように表情を失くすジェイドに、なるべく嘘くさく見える様に笑顔を見せる。
「実は、あなたにプレゼントがあるんです。受け取っていただけますね?」
「プレゼント……?」
 片手で紙袋を持ち上げる。意図を汲んだジェイドがそれを受け取る。彼の腕に掛かった紙袋へ手を差し入れ、小さな箱を取り出した。
 二色の瞳が、じっと手元を見つめている。窺う視線は彼らしいと面白く思う。握った手を引き寄せて、手の甲を上へ向けさせる。
「知っていますか? 人間は、たっかい指輪を買って、たっかいレストランを予約して、歯の浮くような台詞で結婚を迫るそうですよ」
 確と手の中に納まる箱を支え、自由な指で開閉式の蓋を押し上げる。小さな蝶番が折り畳まれる。ジェイドの目が、大きく開かれた。
「……そうすれば、お前は僕の物になりますか?」
 静寂が過る。周囲のざわめきだけが耳に届いて鬱陶しい。心臓も恐怖心にばくばくと鼓動して煩かった。それでも目だけは絶対に逸らさないで、ジェイドの止まった表情を見る。
 不意に、瞬きをした。黄金色と橄欖色が微かに揺らいだ瞬間に、それが訪れる事を知った。
 箱を取り落とすのも構わずに、その目元へ手を伸ばす。慌てた様に掴む手も引き連れて、頬を覆う。ぽた、と雫が零れた。太陽光に反射するそれは、この世の何よりも美しいと、何の衒いもなく考えた。
 両目からぽたぽたと流れ落ちるそれを、一粒でも地面に渡したくなくて、握る手をも外して両手で頬を包み込んだ。腕を掴んでいた手から、ふっと力が抜けて、アズールの手の上に重ねられた。
 ずっと外にいた二人の手は冷たい。それなのに、触れた場所だけは温かかった。
「貴方を僕にくれるなら、それだけで充分です」
 手の中に落ちてくる宝石が、彼の瞳に反射した。ああ、綺麗だ。口に出しそうになった時、気が付いた。あんなにも美しく思えたのは、人魚の涙ではなかった。
 荷物も全て投げ捨てて、その瞳に近付いて、奥に宿る光を見た。好奇や、生命や、愛情のような、彼がアズールに渡すものの全て。輝いて見えたのは、きっとこれだったのだ。
「僕と結婚してくれますね、ジェイド」
「ええ、もちろん」  愛しい光を受け取って、ずっとどこかで渇いていた欲が満たされた気がした。空になった財布と真珠の指輪を踏み潰して、世界でただ一つの宝物を強く強く抱きしめた。

 

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