3cmくらい、どうとでも

 

 口に運んだコーヒーの冷たさに、随分と時間が経っている事に気付いた。とうに暗くなっているノートパソコンを起動し直し、茨は読み耽っていた自助本をぱたりと閉じる。
 ソファに沈み込んでいる下肢を持ち上げるとぱきんと嫌な音がした。小さめに悪態を吐きながら痺れた腰を摩り、部屋の一角を占める本棚へ近寄る。
 数年かけてビジネス書やら実用書の類が詰めこまれていったせいで、余裕を持って購入したはずのこれも、もうすぐ満員だ。そこへ草臥れた一冊を捩じ込むと、棚が少し揺れた。何かしら落ちてくる可能性が頭をよぎって一歩下がる。しかし備えに対して何事も起こらなかった。息をついて、仕事に戻ろうとつま先の向きを九十度変えたところで、違和感に気が付いた。
「ん……?」
 顎を上げて、最上段を見遣る。数冊の見慣れない本が置かれている。紺や深緑といった落ち着いたカラーリングの背表紙だけが見え、タイトルは視認できなかった。眼鏡をかけ直しつつ、過去の記憶を探るが覚えがない。そもそも、一番上の段はぎりぎり手が届かないために使わないようにしていたはずだと思い出す。上段を掃除する際にでも誤って置いたのだろうか、と考える。
 何はともあれ、と手を伸ばす。中身を見ない事には思い出せるものも思い出せない。不要物なら捨てておきたい。しかし、やはり普通に手を伸ばしても少し届かない。
「くそっ」
 肩の高さに位置する棚に手を掛けて、少し踵を浮かせる。指先までうんと伸ばしてみれば、角に爪先が触った。もう中身よりも取る事が目的になっていると自覚しながら、ジャケットを脱ぎ捨てる。
 肩周りの動きが自由になり、先ほどよりも上部へ手が触れる。あと数センチだけ高ければ届く、と思った。

 背後に気配を感じたのは、熱心に見つめていた背表紙が奪われた後だった。
「うわっ!?」
 丁度考えていた高さに伸びてきた手が、するりと本を抜き去った。咄嗟に背中を本棚へ隠すように振り向いたら、涼しい顔で笑う弓弦がいた。
「いつの間に……」
「お邪魔しております。自宅とはいえ、背中ががら空きでしたよ。精進なさい」
「あー、はいはい」
 弓弦は紺色の表紙を軽く撫でるようはたいて、それから再度、棚へと戻す。視界の隅には、茨と同じく少し踵を浮かせるのが見て取れた。
「……自分の家なんですけど。勝手に私物を置かないでくれませんかね?」
「こちらの棚が寂しそうに空いていたもので、つい」
「もう少しで捨てるところでしたよ」
「ええ、そうですね。もう少しでしたね?」
 くす、と笑う弓弦を睨んで、わざとらしく溜息をついてやった。しかし弓弦は我関せずと翻って、机に置きっぱなしになっていたコーヒーを持って、キッチンの方へ向かっていった。
 全くもう、と悪態をついて、ソファに座り直す。題名のない本を一瞥し、それから弓弦の方を見る。途端にばちりと目が合ったが、すぐに逸らされる。
茨は暫し考えてから、口を開く。
「ひやっとしました?」
「はい?」
「どうせ、自分には届かないとでも思っていたんでしょうけど」
 ちらりと視線を向けてきた弓弦に、意趣返しにと少し笑う。
「俺もあんたとはちょっとしか違わないんで、隠し場所は考え直した方がいいですよ?」
 藤紫の瞳が僅かに揺れた。それが愉快で、自然と出てくる笑いを噛み殺していれば、弓弦がふうと息を吐いた。
「……そのようですね。まぁ、隠していたわけではありませんが」
「日記ですか?」
 そう言うと、コーヒーを淹れていた指が一瞬止まった。「やっぱり」と鼻で笑うと、冷えた笑顔が返された。
「いやあ、そんなに恥ずかしい日記なら、聞かずに読んでおくべきでしたね。そうしたら笑ってやれたのに」
「別に構いませんよ? 読まれても」
 ことりと茨の前にコーヒーを置く。温かい湯気が立ち上って、その先で弓弦が微笑んでいる。
「やましい事はございません。ただ坊っちゃまへの愛を綴っているだけですから」
「げっ」
 藪蛇という言葉が脳裏によぎる。弓弦の笑顔から目を逸らして、なんとも言えない居心地の悪さをコーヒーで流し込む。しかし飲み込んだ瞬間に、熱さとそれ以上のえぐみが駆け上がってきた。
「苦っ!?」
「おや? すみません、少々濃く淹れすぎましたね?」
「わざとだろ……!」
 苦味だけ煮詰めたような味に吹き出しそうになった口元を押さえ込み、どうにか一口だけ飲み込んだ。恨めしく睨みつけた弓弦も、自分の分を一口飲んで、顔を顰めていた。
「…………」
「……何ですか。日記、取って差し上げましょうか?」
「いや違……というか、自分で取れますんで結構です!」
「そうでしたね」
 煮出し過ぎた液体をもう一口飲んで、弓弦はカップを置いた。茨もとてもではないが飲み切れないそれを手放して、仕事の続きをと腰を据える。再び暗くなっていたノートパソコンを起動し直していると、暗い画面に映る自分と目が合った。笑っていると思っていた自分の顔は、不機嫌そのものだった。

 ようやく役目を果たす画面がメーラーを起動したところで、ソファの片側が沈んだ。横目で見れば、微妙な距離を保って弓弦が隣に座していた。
「なんですか……」
「緑色の表紙は、確かに坊っちゃまの事を書いた日記です」
「……そうですか、ええ、それが?」
 目が合わないまま、弓弦は昔から考えられないくらい穏やかに言う。それが嫌で素っ気なく返したら、小さく笑う気配がした。
「でも紺色の方には、あなたの事を書いていますよ」
「……はあ?」
 思わず声を零すと、弓弦が今度は明確にくすりと笑った。馬鹿にされたようで気に障り、わざと刺々しく声を上げた。
「なるほど! つまり自分に対する愛が綴ってあると?」
「そうですよ」
「いやはや是非とも見てみたいもので……え?」
 我が耳を疑って、茨は弓弦の方を見る。すると、茨を見る藤紫色に自らが映った。
「ですから、読んでも構いませんよ、と」
 何を言っているんですか、嘘だろ、などと屈折した返答を用意していたはずの口元は、何とも嬉しそうに持ち上がっていた。
 振り払うべく咳払いをひとつしてから、自らのペースを取り返す。
「じゃあ、今ここで読んでもいいですか? 自分、気になって仕事に集中出来ませんので!」
「お好きにどうぞ」
 にこりと完璧に微笑む、その綻びを茨は見逃さなかった。どうせ届きはしないと思っている余裕が透けていた。
 茨はすぐに立って、本棚のそばへ寄る。ぐっと腕を伸ばし、踵を思いっきり浮かせた。そうして伸び切った指先が、背表紙の角に引っ掛かった。指でそのまま角を弾いて、浮かせたそいつを手繰り寄せる。
 紺色を確りと手の中に掴んで、振り向く。どうですかと目で語りかけてやる。視線をずらして唇を噛んだ弓弦がやけに愉快で、苦いコーヒーの意味も言葉の真偽も、それだけで理解できた気がした。
 これ見よがしに真横に座って、肩をぶつける。睨んでくる弓弦の目を避けて、持ち主同様に堅い表紙を持ち上げた。
「3センチくらい、どうとでもなるんですよ。弓弦」
 彼の丁寧な筆跡が見える。綴り出された言葉に唸らされる事になるのは、もう寸刻後の事だった。

 

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