車窓旅行

 

 がたん、と座席が揺れる衝撃に身を倒す。背中を背凭れへ強かに打って、小さく呻き声が出た。手に持っていた文庫本のページを指が滑り、僅かに折り目がついてしまった。密かに嘆息していれば、隣で緩慢に動く気配がして、「大丈夫ですか?」と声が掛かった。
「しっかりと座席に座っていないと、怪我をしてしまいますよ」
 くす、と優し気に微笑むように見せ掛けて、アズールにだけは分かりやすい調子で嘲笑する。見え透いた挑発にはむっとせず、「ええ」と背中を擦って見せる。
「先程の駅までは道がしっかり舗装されていたので、楽にしていたんですが……まさか僕に寄りかかって寝る図々しい人が、隣に座っているとは思いませんでしたからね」
「それは災難でしたね。思い切って席を移動してみてはいかがでしょう?」
「それが、残念な事にビジネスクラスの座席は完全指定制でしてね……おや? あなた、そんな事も知らずにここへ?」
 上着のポケットから一枚の名刺大の紙切れを摘まみ、ひら、と彼に見せびらかす。すると彼もまた、胸ポケットから同じ物を取り出して、アズールに見える位置に差し出した。
「ええ、そうなんです。実は僕、休日であるにも関わらず、横暴な方に無理矢理同行させられてしまいまして……ああ、僕なりに色々と計画があったんですがねぇ……」
「それはそれは……可哀想に。行き先を見れば、かなり遠いじゃないですか。どのくらい掛かるんです?」
「今日中には到着する、と聞かされていたのですが……こちらでも調べてみたところ、どうも明日の午前中まで掛かるそうで」
「……そうなんですか?」
「ええ。そうなんです」
 にこり。隣で行儀よく座るジェイドが笑う。口だけは綺麗に弧を描いているが、目は笑っていない。切符を仕舞い、慌てて鞄から時刻表を取り出した。迫る視線に圧迫されながら目的の印字まで目を滑らせる。島外に位置する都市の名前を端の方へ見つけ、右へ右へと辿っていく。彼らの最寄り駅から目的地まで、およそ半日。通り過ぎる木々の狭間に見える空は夕刻を呈していた。
「……すみません。見間違いをしていました。しかし、目当ての時間には充分間に合いますので」
「美味しいディナーをお約束して頂いていたのに、このままでは抜き、という事に……しくしく、折角の休日をひもじく過ごすなんて嫌です」
 どこからか取り出したハンカチを哀れっぽく目元に当てる。アズールは時刻表をきっちりと畳み直しながら溜息をついた。鞄に仕舞って、焦ったせいで床に落としていた文庫本を拾い上げる。
「この埋め合わせは後日きっちりと行います。あと、食事については車内販売で購入できますよ」
 表紙についてしまった埃を叩き落とし、周囲に目を走らせる。少し後ろの方でワゴンを引く乗員の姿が見えると、ほら、と指先でジェイドの肩を叩いてそちらを指差した。通路の方へ少し顔を出した彼は、「本当ですね」と珍し気に声を上げた。
「飲み物、あれはお菓子とお弁当でしょうか? 小さなワゴンに大量に載せて、不安定になりそうなものですが……」
 なかなか戻って来ない後頭部が、表情を見るまでもなく、爛々とした好奇心に満ちる瞳を想像させる。満足するまで無駄だろうと判断して、アズールは再び本を開いた。折り目のついたページが真っ先に開いた事に眉を寄せる。指で何度も折り目を撫でつけながら、続きの一文を探した。

 がたん、と再び車体が揺れた。空けていた片手を隣に伸ばすと、背を向けていたジェイドの肩を掴み、アズールの方へ引き寄せる。がたん、がたんと揺れる間、深く席に座り、高い痩躯に腕を回し抱え込んで待つ。揺れは少しずつ収まっていく。後傾姿勢で固まる背中から顔を覗き込めば、ぱちぱちと驚いたように瞬きをしながら、アズールの方を見上げた。その稚拙な所作に、ぷっ、と笑いが零れる。
「乗り物ではきちんと座席に座りなさい、危険ですからね?」
 意趣返しに思いきり嘲笑する。彼はしばたいていた目を瞑って、抱き留めるアズールの腕を振り解く様に座席へと納まった。未だ笑いの発作が収まりきらずに、もう一度笑ってやろうと口を開く前に、二人の座席横へワゴンが到着する。
 乗員は二人の方へと目をやると、丁寧に腰を折り、目線を合わせながら「いかがですか?」と問いかけた。入眠しかけていたであろうジェイドが声に気付き目を開いて、ちらりとアズールを確認した後、乗員の方へ向いた。
「お水とそちらのお弁当を二つずつ頂けますか?」
 こちらもまた丁寧に目を合わせ、分かりやすく目的を指で示しながら伝える。乗員は示された物を恭しくワゴンから取り出して、そちらをジェイドへ手渡した。ジェイドはポケットから財布を取り出して、数枚の硬貨を差し出し「ありがとうございます」とお辞儀する。それらを慇懃に受け取った乗員はワゴンを引き、前の座席へと向かって行った。
 前方を向き直したジェイドは膝上に二人分の弁当を置いて、アズールへ水を一本差し出した。アズールは本を片付けてからそれを受け取り、備えつきのホルダーへ突っ込む。ジェイドもアズールに倣い、ホルダーへと水を挿し入れた。前の座席背面部に設置されているつまみを弾き、簡易的なテーブルを出せば、また物珍しげにぺたぺたと触りながら真似をする。
「はは、あなた稚魚に戻ってしまったんですか? 僕は子守をしに来たつもりは無かったんですけどねぇ」
「ふふ。僕、陸には不慣れなもので。あなたと違って、調査をする猶予もありませんでしたし」
 ぱちん、とつまみを上げてテーブルを引っ張り出す。シーンだけ切り取れば、隣人の行動を真似たとは誰も思わないであろう、澱みの無い動作だ。また優美にも思える仕草で弁当を一つ、簡易テーブルの上へ移動した。
 ジェイドは期待感を満面に浮かべ、プレゼントの包装でも開けているかのように紐を解いていき、そっと蓋を開けた。隣から覗き込んでも、なかなかに良い彩りだと分かる。弁当だというのに、僅かな湯気まで上がっていると気付き、事前に知識を仕入れていたアズールもやや目を瞠る。
 嬉しそうに手を合わせる彼を横目にテーブルを軽く払って、アズールも彼と同様にすべく、ジェイドの方に手のひらを向ける。すると、彼はまるで不思議そうに目を丸くしてみせて、「何でしょう?」と困り顔で首を傾げた。
「何って、それですよ。いつまでも膝に置かれては食べられないでしょう」
「はて、『それ』とは? こちらにあるのは僕のお弁当だけですし……一体、何を差し上げたらよろしいのでしょう?」
「は? いや、だからそっちの……」
 膝の上で温まる箱を指差しながら顔を見て、言葉を切った。半円を形成する唇に気付けば、瞬時に意図を理解する。自らの表情が歪むのを自覚しつつ、一応と思い財布を取り出す動作をすれば、ジェイドが首を振った。
「とってもお腹が空いているんです。いくらお金を頂いても、こちらは渡しかねます」
「……ああそうですか。分かりましたよ。そもそも、僕の勘違いが招いた空腹ですからね。そんな僕が空腹で苦しむのも当然の報いですね」
 見慣れた困り顔から目を背けて、乱暴にテーブルを畳んだ。前の座席に誰もいないのは確認済みだ。ふん、と鼻を鳴らして窓の方へ目を向ける。普段は都市開発の為された地域ばかりに足を運んでいるためか、山間を通り抜けていく景色は新鮮に思える。
 暫く流れていく緑色をぼんやり眺めていれば、ジェイドと違って変わらない風景に飽きが来る。意識を向ける先が無くなったタイミングで、ぐう、と胃腸が空腹を訴えた。眉間に皺が寄る。
「拗ねないで。ほら、口を開けて下さい」
 笑いながら諫める声に更に皺が深く刻まれる。それを正す事もせずに振り向くと、アズールの唇に温い感触が押し付けられる。ふわりと出汁の香りが鼻腔を擽り、食欲を煽った。眼球を下へ動かして見遣れば、機械的に成形されただし巻き卵があった。空腹も限界点に近く、特に抵抗せずに口を開けて押し込まれるがままになる。箸が出て行くと同時に咀嚼する。香り通りの一般的な出汁の味が広がった。数回噛み砕いて、喉に流し込む。空腹のあまり食道を流れていく感覚が分かった。
「どうです? 美味しいでしょう?」
 そんなアズールの様子を見ながら自慢げに言う。アズールは一度首肯して、ホルダーから水を抜き取って蓋を回し、空腹を誤魔化すように多めに飲んだ。
「……余計に空腹感が増しました。どうしてくれる」
「おやおや。もしやアズールも夕食を抜いていました? 配慮が足らず、申し訳ありません」
 全く以て謝罪の意図が感じられない、大袈裟な口調にアズールは眉間を揉む。
「一緒にここまで来たんだから知っているだろうが」
「そうでしたか。どうも午後からの記憶が曖昧でして……誰かさんが空腹を訴えかけていた何も知らない僕を急かし、いきなり列車へ乗せた事が関係しているかもしれません」
 話をしながらも箸で野菜を摘まむ。小さめに開けた口へ放り込んで、数回咀嚼し、ごくんと飲み込んだ。その口が空いたのを見て、次の一口へ続く前に言う。
「さっきから急だと言っていますけど、僕は事前に予告していたはずですよ。今週末は視察の予定があるから空けておけと」
「全く覚えがありませんね……もしやフロイドへ間違えて通達していたのではありませんか?」
「有り得ない。何をどうすれば間違えられるんです? しかも大事な用を言いつけるのに」
 妙な言い訳をするなと呆れて強く言い切れば、ご飯を口へ詰め込もうとしていたジェイドが一時停止し、ふふと機嫌よく笑う。対照的にも空腹ゆえ不機嫌なアズールはまた水を胃へ詰め込む。
「言われてみれば、そんな気がしてきました。今回は逆恨みだったかもしれません」
「『かも』ではなく『そう』なんだよ。はぁ……でも、今日分の摂取カロリーが必要分を下回ったおかげで、明日は視察が捗りそうですよ」
「ええ、そうですよ。僕よりもあなたの方が味覚は鋭いですから」
「まったく、有能な補佐官ですね。余計な所まで気が回る」
「いえいえ。それほどでも」
 そこで話は一度区切られる。その間にアズールは水を呷り、遂に空になったペットボトルをホルダーへ戻し隣を見遣る。そちらでは小さなテーブルの上に、空になった弁当箱が積み重なって置かれている。蝶番部分に負荷が掛かり、やや撓垂れている。
 口内の物を飲み下したジェイドが「ご馳走様でした」と両手を合わせ、ハンカチで口元を拭った隙を見計らい、アズールは隣席のホルダーから水を取った。
「あっ、やめて下さい。干からびてしまいます」
「僕も干からびそうなんですよ。胃が」
 伸びてくる手を避けながら蓋を回す。かちりと音がすれば、本気で奪い取る動きに変わる。急いで蓋を取り、身を捩って口を付けた。そのまま傾けて一口飲めば、ああ、と小さな嘆息と共に追跡する腕が去っていった。
「なんてひどい。翌朝干上がっていたらあなたのせいです」
「お互い様でしょう。それに、またワゴンは回ってきますよ」
「ああ良かった。では、その際にはお菓子も買いましょうか。次は一緒に食べましょうね」
「夜中にお菓子だなんて冗談じゃない。僕はもう寝ます」
 宣言通り、背凭れに身体を預ける。ジェイドは「残念です」と大して残念そうでもない声音で言うと、肘掛に手を置き、アズールの方へ身を乗り出した。思わず背凭れによりくっついて避けたが、彼の目標はアズールではなかった。アズールを飛び越えた先にある窓へ、その目は向けられている。気が抜け、ずる、と滑った。
 黙す熱心な横顔につられて外を見る。すっかり夜になっていた風景は、夕刻よりも暗く山間の景色を楽しむ事は難しそうだ。しかし、太陽の代わりに空へ光が浮かんでいた。明るい月が柔らかな光で世界を照らし、空には陽光を反射する海面のような星々の光が散っている。そして、なるほど、とアズールは腑に落ちる。ジェイドの好む景色だ。
「席、代わります?」
「え? ああ。お邪魔でしたら是非」
「いや、別に邪魔とは思いませんが……その体勢を長時間続けるのは明日に響く」
 肘掛に乗せられた手を指で叩いて示せば、納得した様子で離した。それから通路に顔を出し、人通りがない事を確認すると、席を立ち通路へ移動した。アズールも通路に一度移動する。すれ違う様にジェイドが奥の方の座席へ座ったのを見てから、アズールは顔を上向けて表示板を探す。現在の駅を視認しながら、その隣にあるお手洗いの標識を認めると、早速窓に齧り付いていたジェイドに声を掛けた。
「お手洗いへ行ってきます」
「はい、どうぞ。お水を大量に飲んでいましたから、いずれそうなるだろうと思っていました」
「ついでに水を買って来てあげますよ。十本ほど」
「ああ、八本はアズールの分ですね。お願いします」
 視線だけ寄越して流暢に返す応酬に興を削がれて、「はいはい」とだけ言って座席を離れた。
 隣の車両に設置されていた簡易トイレで手早く用を済ませてから、通路をきょろきょろと探す。すると、丁度奥の車両にワゴンが見えた。財布を確認しつつ向かう。声を掛けると、先程とは違う乗員が振り向いて、「何にします?」とにこやかに告げた。「水を二本」と指差してから以上と言おうとした所で逡巡する。乗員はアズールの言葉を少し待ってから、どうしますか、と問う。頷いて、アズールはワゴンの下部を示した。
 代金を支払った後、腕に袋とペットボトルを抱えてジェイドの待つ座席へと戻る。覗き込めば、想像通り、未だジェイドは夜空へと目を奪われていた。特に何も言わずに席に座ると、少し揺れた。それで気が付いたらしい彼はアズールを振り向く。その目の前に水で満ちたペットボトルを一本差し出した。
「ああ、ありがとうございます。……おや? そちらは?」
 ペットボトルを受け取り、早速蓋を外したところで、ジェイドはアズールの手元を見咎めて目を細める。
 ビニール袋の中には、いくつかの駄菓子やスナック菓子が詰め込まれている。アズールはそこから小さめの駄菓子を一つ手に取って、笑顔を形作る鼻先へと差し出した。
「あまりにお腹が空いて、眠れそうになかったので、うっかり買ってしまいましたよ。カロリー計算も怠ってしまったので協力して下さい」
「ふふふ……かしこまりました。こちらへお渡し下さい。今、計算をいたします」
 水を一口飲んでから蓋をしたジェイドが中心の肘掛を示す。がさがさ音を立てながら置いてみれば、とても悪い事をしている気分になって、思わずにやける。
 手に取る物を決めあぐねていると、先にジェイドが袋へ手を入れて探る。それから、中でもとりわけハイカロリーであろう事が一目で分かるスナック菓子を取り出して、アズールへ見せびらかすように両手で持った。
「こちらなどいかがでしょう? 夜中の間食に丁度良いかと」
 普段であれば、それを単なる皮肉や嫌味と受け取ってやり返すか無視を決め込む場面だった。しかし今は違うとはっきり分かる。アズールはにやりと口角を持ち上げて、両手を差し出した。
「いいですね。今日はお前の提案に乗ってみるとしましょう」
 広げていた手の内へ降りてきた袋に、不思議な背徳感がせり上がり、笑いを噛み殺す。夜中で、しかも空腹で、疲労している事によってハイになっているのかもしれない。鈍い頭で冷静な自己分析を下しながら、袋の口を開いた。

 ◆

 一際大きな揺れが来て、はっと目を覚ます。数度瞬きを繰り返して、それから窓より差し込む朝日を認識した。少し気分が悪い。お腹を擦っていると、ふと昨晩の事を思い出す。冷静になった今、仕事の最中に何をしているんだと頭を抱えたくなったが、それ以上に楽しく過ごしたという記憶と感情が残っていて、不快な膨満感をやり過ごすように息を吐き出した。もうすぐ目的地だ。未だ隣で寝息を立てるジェイドを起こそうと隣を向き、そしてようやく、片付けの済んでいない座席の惨状に気が付いた。
「ジェイ……」
 名前を呼び、肩を揺すり起こそうとしたが、その顔を見てやめる。すぅすぅと心地良さげな寝息を立てて眠る姿は、何だか久しぶりに見た気がした。アズールは手を引っ込めると、上着を脱ぎ、それを脱力する長い体に掛けてやってから、散らばるゴミを静かに袋へ掻き集めた。

 ダストボックスへ袋を放り込んだところで、駅名をコールするアナウンスが響く。そろそろ到着するようだ。転ばないように気を付けつつ座席へ戻ると、眠っていた客達が次々と目を覚ましているのが見える。ジェイドも同様であろうと想定しながら戻ると、席を立つ前と変わらない体勢で寝息を立てる姿が目に入り、「あれ」と声に出た。
 隣に座り、荷物を粗方片してから、眠るジェイドの方へ視線を移す。もぞ、と身動ぎしたかと思うと、ずれかけていたアズールの上着を握り引き上げた。よっぽど眠たいのだと明らかに示す一連の所作に、笑う前に心配をする。
「……そんなに働かせすぎた覚えはありませんよ。どうせ趣味の方で寝不足になったんでしょう」
 寝息の合間に、起きていれば聞こえるであろう声量で囁く。上着を握っていた指がぴくりと動いた。それから少しして、瞼がゆっくりと持ち上がる。ぼーっと上を見ている彼から何か言われる前にと上着を引き剥がす。「あ」と声を漏らし、ジェイドの目がアズールの方へ向く。
「おはようございます」
「ええ。もうすぐ十時ですよ。寝坊助さん」
「えっ?」
 手持ち無沙汰に握ったり開いたりを繰り返していた手が、急に目覚めたように座席を叩いて身を起こす。それからスマホを確認して、暫し動きを止めていた。後頭部に変な寝癖がついている。希少すぎるジェイドの様に、抱いていた筈の心配を笑いが上回った。
「お、お前、髪跳ねてますよ……はははっ!」
「…………」
「ふふっ、何です、その顔は。拗ねてるんですか?」
 ジェイドは黙ってむくれた顔のまま髪を無心で撫で付ける。その間、視線はずっと窓の外へ向いていた。今は明るい昼前の太陽が照らし出している。鮮やかな緑色と空色のコントラストは実に良いロケーションだ。
 寝癖がやっと直り始めた頃、ふとジェイドが肘掛の方に目を向けた。それから片付いた簡易テーブル、ホルダー、アズール、と順番に見る。
「すみません。アズールに後片付けをさせてしまったみたいで」
「ん? ああ。あれは僕が買ってきた物ですし、構いませんよ」
 上着を着直して、乱れていた服を叩きながら整える。”申し訳ない”という表情を作っていたジェイドも、いつもの顔に戻って居住まいを正した。もう一度、繰り返しのアナウンスが鳴った。ジェイドは元より片付いていた鞄を膝へ乗せると、また窓の外を見る。
「見て下さい、アズール。海ですよ」
 スマホで視察先の確認をしていると、そんな言葉と共に袖を引かれる。やや鬱陶しく思いつつも顔を上げてやると、彼は窓の向こうを指差している。確かに、昨日の景色とは違っていた。山を抜け、今は海が広がっている。自分達の故郷とは異なり、温かそうな海だ。
「いいですね。温かそうで」
 思った通りに簡素に告げる。ジェイドも別にアズールの感想を求めていたわけではないのか、「ええ」と返すのみで手を離した。それを癪に感じたアズールはスマホの背面をジェイドへ向けた。カメラを起動する。微笑を浮かべる横顔と海が同時に画面に納まるように調整をしながら動かす。
「あ、そうだ。アズール……」
 途中でジェイドが振り向いて、咄嗟にシャッターを切った。双方の動きが止まる。アズールは保存された画像を視界に入れると、満足感に笑顔を浮かべた。小さな画面の中に、太陽を反射して輝く海面と抜ける青空を背景に、少し驚いた顔のジェイドがいた。
「なかなか良い写真が撮れましたよ。送っておきましょうか?」
「勝手に人の顔を撮るだなんて……感心しませんね。準備も出来ていないのに恥ずかしいです」
「でも普段の動きの無い表情より、よっぽど見応えのある出来栄えですよ」
「そういう問題ではありません。ああ、何を言おうとしていたのか飛んでしまいました」
 写真を確認して、ジェイドと、ついでにフロイドにも送る。真隣でバイブレーションの音がした。ジェイドはそれを無視して、憂欝げに溜息を吐いている。既読はどちらも付かない。適当にフリックして画面を閉じれば、少しずつ列車の速度が落ちてきた。
「そろそろですね。では、本日の視察について確認ですが……」
 森林に囲まれたカフェをプロモーションしているページを開き直して、ジェイドの方へ向く。その瞬間にフラッシュが焚かれて、思わず目を閉じた。すぐさま目をこじ開ければ、スマホを口元に置いて愉し気に笑うジェイドがいた。
「ふふふ……こちらも良い写真が撮れましたよ。ほら、とても見事に目を閉じていらっしゃいます」
「こっちを撮ってどうするんです。通路と向こうの座席が映るだけじゃないですか」
「いえいえ。景色ではなく、アズールを撮ったんですよ」
 画面をアズールへ見せた後、笑顔を保ってスマホを操作していたかと思うと、アズールのスマホが通知を知らせた。すぐに察して無視をする。
「いいですか、そろそろ仕事に戻りますよ」
「ええ、はい。満足しました」
 従順に頷いたジェイドはスマホの画面を落とし、ポケットへ仕舞う。今度はアズールが身を乗り出し、スマホをジェイドの方へ見せる。二人で鮮烈な緑色を切り取った美麗な写真を覗き込む。
「今日の視察はこちらの店舗です。森の中にある小さなカフェ、というのがコンセプトで、最近になり人気が急上昇しているそうです」
「なるほど、良い雰囲気のお店ですね。人気の理由は外観だけではなく、料理の方も?」
「そうでなければ視察になんて行きませんよ。これがメニューなんですが……」
 更に身を乗り出したところで、静かに停車した。慣性を受け、肘掛からも背凭れからも離れていた二人は揃って前へ倒れ、がん、と前方の座席へ頭をぶつけた。「痛っ」と呻きながら横を見ると、痛そうに額を押さえているジェイドと目が合う。ぷ、とどちらからともなく笑った。

 ◆

 車掌に切符を渡して列車を降りる。慣れない新鮮な空気を吸い込んで、深呼吸をした。ずっと座っていたせいで体中が痛い。伸びをすれば、バキバキ、と背中が鳴った。続いてホームに降り立ったジェイドもまた深呼吸をしていて、これも揶揄おうかと考えたが、もう仕事中だと思い直してやめる。
 スマホを開いて地図を出す。駅から遠くない立地も人気の秘訣だ。伸びをして背中を鳴らしているジェイドに笑いそうになりながら、どうにか抑えて声を掛ける。
「行きますよ、ジェイド。目的地は駅を出て、少し北方向へ歩いたところです」
「はい。先程見た限りでは、歩いて数分といった良い立地でしたね」
 会話しながら駅を出て、未舗装の開けた道を歩く。等間隔とは言えない街路樹に、小石の転がる土の道。アズールからすれば歩き難い事この上ないが、マジカメ映えなどを狙う若者たちには目新しく面白いのかもしれない。
 時折画面へ目を落としながら歩きつつ、ふと静かな隣を見遣る。すると、ジェイドは真っ直ぐに歩きながらも上を見ていた。斜め下からでは表情が窺えない。
「ジェイド。前を見て歩きなさい。危ないですよ」
「ああ、すみません。つい、良い景色だったので」
「まったく、こんな注意をお前にまでしなければならないとは思いませんでしたよ」
 叱られた彼は気恥ずかしげに笑いつつ、視線を前へ向ける。今度は視線が下へ降りていくので、「ジェイド」と咎めるように名前を呼ぶ。
「すみません。しかし、こういう景色を見るのも視察の一部では?」
「……まあ、それも一理あります。でも、そこまで熱心に見る必要もないでしょう。少し見れば、一体どこが魅力となるのか分かります」
「そうですね……マジカメ映え、という物でしょうか」
「ええ。彼らは物珍しさに惹かれる生き物ですからね」
 遊びから仕事へ、完全に頭を切り替えた二人は、やたら真面目なトーンで話し合い、景色を眺めながら歩く。ちらほらとカップルや友人同士で歩く若者達とすれ違いながら、やはり、と自分達の考察の正しさを確信して頷き合った。段々と液晶越しに見た景色が近付く。木々が増え、緑の匂いが濃くなって、同時に楽し気に笑う人の声も聞こえてくる。
 地図が目的地の到着を告げて、足を止めた。
「着きました。ここですね」
「はい。ふふ、本日も盛況のようです」
 森の中から現れたこじんまりとした木製のコテージ。階段に並んで話を弾ませる若者達に隠れて、カフェの文字が書かれた看板があった。
 アズールは時間を確認する。予定時刻には丁度良い。そう思い、行列の横を抜けていこうとしたアズールの手をジェイドが掴んだ。
「何です?」
「アズール、そう焦らなくても順番は来ます。大人しく並びましょう」
「はい? ……僕が順番を抜かしていると思ったのか? お前、相当疲れてるな」
 アズールの返答に数度瞬きをして首を傾げたジェイドの手を逆に掴む。それから、腕を引っ張りながら行列の横を今度こそ抜けた。
「アズール」
「予約をしています。いつもそうしているだろう」
「……ああ、そういえばそうでしたね。焦っていたのは僕の方でした」
「その通りです」
 入口まで着くと、中から小綺麗な装いの店員らしき人物が出てくる。バインダーを片手に「ご予約ですか?」と問う姿に忙しさが窺い知れた。
「ええ。十一時から予約のアーシェングロットです」
 アズールの言葉にすぐ得心したように頷けば、店内を振り向いて備え付けのメモ用紙に何事かを書き込んだ。客の情報だろう。それが終わると、二人の方へ目を向け、「こちらのお席へどうぞ」と穏やかに案内される。その背中へついて行こうとしたら、またアズールの腕が引かれた。
「だから! 今度は何です!」
「手、繋いだままですよ」
「あ」
 行列の最前列に待っていた女性客が微笑ましそうに笑うのに気付いて、アズールは半ば振り払う様にしながら手を離した。

 案内されたのは窓際の座席だった。予約席だけあって、そこから見える風景はかなり良い。鮮やかな緑に加え色とりどりの花が彩る中庭が美しく、ジェイドだけでなくアズールも目を奪われた。
 「ご注文が決まりましたら呼んで下さいね」と丁寧に、かつ重苦しくない軽い印象で告げた店員が忙しく引っ込んでいく。次の客の対応へ向かうのだろう、と推察しながら目で追っていると、ジェイドもまたその背を注視していた。振る舞いを観察している様子だ。軽装で身軽に動く姿を見て、少し学ぶところがあったのだろう、ふむとスマホで簡単にメモをした。それを終えれば目線を上げ、微笑を作る。
「メニューを確認しましょう」
 アズールは円い木のテーブルを陣取る、ところどころに綻びのある冊子を開く。ええ、と頷いてジェイドも一緒に目を通す。メニューは手書きで作られているようで、文字に乱雑な部分が目立った。杜撰さに思わず眉を顰めていると、ジェイドが「なるほど」と声を上げる。
「”手作り感”は最近のトレンド、とケイトさんが仰っていました。このお店の自然な雰囲気にも沿っています。こういった要素が人気を呼んでいるのでしょう」
「ふむ……手作り感、ですか。うちに生かせる要素ではありませんが、やはり彼は良い情報源になりますね」
 納得しながら、冊子の写真を一枚撮影する。その流れで、窓の外の写真も撮っておいた。店舗の状況を残す事は、後の分析に非常に役立つ。出来栄えを確認した後、一度画面を落としてからメニューへ視線を戻す。
 ページ上部へでかでかと表示されているのは、”森のスフレパンケーキ”。一般的なスフレパンケーキと見た目はほぼ同じだが、その大きさが目玉である。『人気ナンバーワン!』と吹き出しに描かれたそれを、アズールは指差す。
「看板メニューの”森のスフレパンケーキ”です。これを一つ注文します」
「一つですか。まぁ、相当な大きさだと謳われていましたからね」
「ジェイドは一人で食べきるかもしれませんが、僕はあまり大量に摂取したくないので」
 手を挙げながら言うアズールに、ジェイドが微笑みながら頷いた。すぐに近くの店員が駆け寄り、注文を取る。
「ああ、アズール。あちらを御覧下さい」
「何ですか。今日は随分と忙しないな」
 店員を見送ったかと思えば、ジェイドがまたアズールを呼ぶ。彼は入口付近の席を見ている。同じように目を向けると、丁度テーブルに料理が運ばれてきた場面であった。ことんと音を立ててフライパンが置かれる。それはテーブルいっぱいの、大鍋サイズだ。
「噂通りの大きさですね。楽しみになってきました」
「そうですね……今決まった事があるのですが、聞きたいですか?」
「ええ、是非」
「今日のあなたの昼食はあれです。お腹一杯食べて下さいね」
「……途中で味を変えたいのですが、何か調味料はございますか?」
「ありませんね。残念です、なるべく要望に応えてやりたいとは思うのですが……店の都合ばっかりは仕方がないですからねぇ」
 にこにこと期待感を高めていたジェイドも、アズールの宣言を聞くと段々真顔になった。あれは男二人で食べる代物ではない、と両者共に勘付き始めていた。
 ジェイドが手を挙げて店員を呼ぶ。メニューを開き、キノコパスタとミートパイを注文する。アズールは止めなかった。
「ついでに飲み物を頼んでおいた方がいいんじゃないですか?」
「ああ、そうしましょうか。では、こちらのドリンクなどいかがですか? 二人で飲めるそうですよ」
 そう言ってジェイドが示したのは、大きめのグラスに入った桃色のサイダーだった。しかも、二本のストローが巻き付いて、ハートを作っている浮かれた物。アズールは「真面目に考えろ」と言ったところで、そのドリンクの値段を見た。
「……高っ! ただの色水が千二百円!? たかがストロー一本の装飾で!? 暴利にも程がある!!」
「アズール、アズール」
 飛び上がって声を上げていると唇に指が当てられた。店員の困った顔と、ジェイドの笑顔に、それ以上の言葉は飲み込む。そして今しがた罵った色水が注文されるのも黙って見ていた。

「それでは、ごゆっくりどうぞー」
 テーブルの上に置かれた、テーブルいっぱいのフライパンに乗った甘ったるいスフレ。その横にサイドテーブルごと置いて行かれた浮かれたドリンク。改めて目前に置かれると、遠目では分からなかった部分が見える。お洒落なミントだとか案外ドリンク自体に手間が掛かっていそうだとか、摯実な評論的観点の話ではない。
 ふんわりと可愛らしさを強調するパンケーキに、これまた可憐さを演出する桃色のサイダーとハートのストロー。その正面に座るお互いの姿に、引き攣った笑いを浮かべた。
 まず動いたのはジェイドだった。サイドテーブルからフォークと小皿を取り出し、アズールの手元へセッティングする。あまりに普段通りだったせいでアズールは反応が遅れる。その隙にナイフで丁寧に切り分けられたスフレが小皿へ乗せられる。
「お先にどうぞ、支配人」
 思わずスフレの方を見てしまった。しまった、と思った時にはもう遅く、カシャ、とシャッター音とジェイドの小さく笑う声が聞こえた。
「消せ」
「すみません、フロイドに送ってしまいました」
 悪びれもせず、メッセージアプリの画面を見せてくる。
「お前、列車の時のも送ってるじゃないか!」
「フロイドを一人にしてしまって、寂しがらせているかと思いまして」
「どうせ寝てるか一人でどこかへ行っているだけですよ」
 自分の事は棚に上げつつ、やれやれと顳顬を押さえた。少しだけ視線をずらして、密かにジェイドの様子を窺う。満足気にスマホを片付けている。隙を突いて、ケーキの盛られた皿を彼の前に素早くサーブした。ジェイドも反応が遅れる。すぐさまスマホを手に取り、カメラを起動した。そして見事ファインダーへケーキと映るジェイドを収めた。ケーキの小皿を片手に、フォークを顔の横に持ち完璧に笑うジェイドの姿を。
「あざとっ……マジカメに載せますよ」
「それはご勘弁を」
 完璧な表情から眉を下げて、ついでにフォークも小皿まで下ろしてケーキを突き刺す。流れるように一口食べて、「美味しいです」と目を輝かせた。それを見て、アズールも興味が湧き、フォークを手に取って一口分だけ切り取り突き刺した。そして口の中へ放り込む。確かに美味しい。美味しいが。
「あっま……!」
 先程の反省を生かし、文句は小声で告げる。慌ててグラスを手に取ってストローを口に含む。はた、と気が付いた。水にストローなんて挿すものだったか。しかし吸い込む方が早かった。
「……! ……!」
 口の中にとんでもない甘味が広がった。脳にまで回りそうな砂糖に身悶える。ジェイドが視界に入って、紅茶を、とつい言いそうになる。あの丁度良い甘さの紅茶が飲みたい。そう思いながらジェイドの方を見ていると、彼は首を傾げながらグラスに手を伸ばした。
「これ、そんなに美味しくありませんか? 見たところ、普通のサイダーのようですが……」
 そして、そのままストローを咥えて一口飲んだ。動きが停止する。ゆっくりと口を離したジェイドは、全てを理解した目をしていた。
「アズール、分担いたしましょう。スフレとサイダー、どちらも完食をした暁には、僕達の脳が壊死します」
「乗りましょう。では、僕がサイダーを担当します。ジェイドはスフレの方を」
「待って下さい。ここは公平に勝負をして決めませんか?」
「いいですよ。腕相撲でいいですか?」
「駄目に決まっているじゃないですか」
「そうですか。では、じゃんけんで行きましょう」
 言い合いの最中、パスタとパイがサイドテーブルに添えられた。甘い香りが漂うオシャレなカフェの中で高らかにじゃんけんのコールが響く席は、少し注目を浴びていた。

 ◆

 正午も過ぎ去った頃、漸くカフェを後にした。ジェイドは少し青い顔で、片手は口を押さえ、もう一方の手はアズールの肩を鷲掴みながら歩いている。
 何だかんだでスフレもサイダーも任せてしまった負い目があり、最初こそはジェイドの好きにさせていたが、どんどん強くなる握力に許容出来なくなってきた。振り払わんとして行きの倍の速度で進む。しかし、吐き気を催しながら時折呻いている筈のジェイドは調子を保ったままアズールにぴったり付いてくる。そして先にアズールの体力が底を尽きた。
「休憩、しましょうか……丁度、ベンチがあります……」
「はい……」
 アズールは息を切らせて、道沿いにあった木製のベンチに腰掛ける。その隣にジェイドもゆっくりと腰を下ろした。その口から、うぷ、と変な声が出る。アズールはそちらを見て、それから周囲を見回し、一度深く呼吸をしてから立ち上がった。
 遂に口を押さえる手が二つになったジェイドが、その行動を目で追う。視線を感じつつ、シャッターの閉じた商店の前に設置されている自動販売機へ向かった。適当に硬貨を入れ、ボタンを押す。取り出し口に手を突っ込んで、一本のペットボトルを手に取る。続けて同じボタンを押してもう一本を取り出すと、すぐに引き返した。
 はぁ、ともう一度乱れた呼吸を整えながら、ジェイドの隣に座った。良く冷えたペットボトルの片方を前傾になったジェイドの方へ差し出したが、ふと思い立って、受け取るべく伸ばされた手を避け、陽に晒されている首元へ当てた。びくっ、と大袈裟に体が跳ねる。
「……アズール?」
 体調不良ゆえか少々分かりやすい表情で、アズールの方を恨めしげに見た。
「いえ、すみません。何だか暑そうに見えてしまって。余計なお世話でしたねぇ」
 調子を崩せたのが楽しくて笑う。買ってきた紅茶のペットボトルを開けて飲むと、口内の甘ったるい後味がすっきりとした清涼感に変わる。やはり紅茶は美味しい。しかし、ジェイドの淹れた物には到底叶わない。
「はあ……僕はこんなに頑張ったというのに、この仕打ち。ひどすぎます。本当に家出してしまいそうです」
「いいですよ、やれるものならね」
「……はあ」
 重たい腹部を撫で擦りながら溜息を吐く。その仕草がまるで妊婦のようで、アズールはそううっかり口に出して笑いそうになるが、流石に本気で怒りそうだと考え思考を律する。改めてペットボトルを差し出せば、強引に手の中からもぎ取られた。
「紅茶、ありがとうございます。列車の時刻までに治らなかったら、非常に不本意ですが、あなたの膝で戻しますね」
「胃薬を買ってきます」
「おや? よろしいのですか? ではお願いします」
 まるで機嫌が戻ったかのような笑顔を浮かべて手を振る。しかしアズールにはそうではないと分かっていて、だからこそ特に言い返さずにベンチを立つと、薬局を探し始めた。

 小さな薬局を見つけて胃薬を購入したアズールは、今度は素直にジェイドへ薬を渡した。ジェイドはそれを紅茶で飲み下し、しばらくの休憩を挟んだ後、席を立ったかと思えば元気になって戻ってきた。その顔はすっきりしている。
「どうにか間に合いました。アズールの服を汚す羽目にならずに済みました」
「そうですか。次からは、こういった案件にはフロイドも連れてくるようにします」
「ええ、賢明な判断かと」
 口元を隠していても虎鋏じみた歯が見える。含みのある笑みを見ていると、どこまでが計画通りであるのか偶に迷うが、今回は先程の舌戦がせいぜいであろうと思う。
 この話はここでお終いにして、時刻を確認する。もうすぐ十五時を回る。意外とすぐに帰途につくことになりそうだった。

 ◆

 帰りの切符を手に、再び駅構内へ入る。想定以上の人混みで驚きつつ、アズールは背後のジェイドを何度も確認しながら列に並んだ。
 幾度も振り返っていると、その内にジェイドが困った顔で首を振る。
「そう確認しなくても、ちゃんと居ますよ。僕、そんなにはぐれそうに見えますか?」
「今日一日の自分の動きを思い返してみれば分かるんじゃないですか?」
「うーん、そうですね……あまり思い当たる節はないかと……」
「ああ、それはそうですよね。一日中調子が悪かったのに、まともに覚えている訳がありませんでした」
 これはうっかり、とわざとらしさにはわざとらしさで返した。ジェイドは無言で微笑む。
 列が前へ進んだので、ジェイドの様子を窺いつつ倣う。背筋を伸ばして歩く姿は、目視だけではどうも体調不良など無さそうに見える。それでもアズールは立ち止まって、微かに動きの鈍い腕を引っ張り自らの肩へ導いた。背後から疑問の声が小さく上がるが、流れる人混みに掻き消えていった。
 肩へ置かせた片手を上から押さえつけながら、再度列車に足を踏み入れる。切符の表記で座席を確認し、のろのろ進むカップルの後ろを歩く。彼らは肩を寄せ合って、人目も憚らずに頬をくっつけている。数度足踏みをしたら、押さえていた手が逃れようと動いた。ちらりとジェイドの方へ目を遣る。真顔で口を噤む顔を見て、そこへ潜む不調を気取り小さく舌打ちをした。すると、それがどうにも聞こえてしまったらしく、前方のカップルは冷めた様にいちゃつくのを止めて歩き出す。これ幸いとアズールもさっさと座席へ進む。
 目当ての番号を見つけると、肩にあった手を掴んだまま持ち上げて、座席の手摺に置いた。
「ほら、どうぞ。窓際は譲りましょう」
「あなたが良いのでしたら、そういたしますが……ここまで気を遣われては、あなた、僕に借りを返すどころか恩を売っていますよ?」
「え?」
 手摺を伝って席に座るジェイドが、やや真実味のある困り顔で言う。その言葉にアズールもまた、本当に虚を突かれた顔をした。
「……ふん。そう思うなら、今後もきっちり働いて僕に貢献すればいいんですよ」
 自然と背凭れに身体を預けているジェイドの隣に、どっかりと腕を組んで腰掛ける。鞄は足元へ投げ置いた。すると、しばらく様子を見ていただけのジェイドが体を震わせて、くす、と笑った。視線を寄越せば、ぱちりと目が合う。
「……何です?」
「ふふふっ。あなた、そうやってふんぞり返っているのが随分と似合……様になっていますね、ふふ」
「そうですか? そういうお前も、重たい腹を抱えて歩く姿が随分と様に――」
 売り言葉に買い言葉で、一度は取りやめた揶揄を持ち出したアズールは最後まで言い切らなかった。ぐりんと向いた橄欖色が余りにも剣呑で、不味いと口を噤んだせいだ。誤魔化すように咳払いをする。
「学園への到着時刻は、午前三時頃になります。今度は間違いありません」
「深夜ですねえ。では、今の内に寝ておくとしましょう」
 険が取れた表情に密かに息をついた。ジェイドはそのまま座席へ沈み込む。
「夕食は……」
「ふふ、アズールは壊れた胃腸を無理に働かせるご趣味がおありで?」
「はいはい、要らないんですね。水だけ買っておきますよ」
 ふうと深呼吸して、アズールも目を閉じた。がたん、と少し車体が揺れて動き出す。深く座り体重を預けている体は慣性でも動かされない。

 うつらうつらと舟を漕いでいると、もぞもぞと身動ぎをする気配がして、薄く目を開ける。隣でジェイドが寝苦しげに寝返りを打っていた。半ば寝惚けた状態で、アズールはまた上着を脱いでジェイドに掛ける。すると眠たげにしていたジェイドの目も開いた。
「何ですか、これは?」
「布団に決まってるだろう。早く寝ろ」
「布団……」
 鸚鵡返しに呟いて、少し思考をしている様子だったが、眠気に負けたのか色々と投げ出した顔で目を閉じ、掛けられた上着を肩まで引き上げた。それからしばらくもぞもぞと寝床を探して、ふと静かになった。収まりの良い場所が見つかったのだろう。やっと息をつく声が聞こえて、アズールはなんとなく口を開いた。
「そういえば、陸には寝台列車というのもあるそうです」
「寝台列車……ですか?」
「その名の通り、眠れる列車だそうですよ。座席がベッドルームになっていて、快適に過ごせそうでした」
「なるほど。では、次回はそちらを利用してみましょうか」
「ああ……次も付いてきてくれる予定なんですか?」
 お互いに脳味噌がほぼ空の状態で口を開いている。特に深く考えずに話すので、含みの無い言葉が交わされていた。だから、何の気なしに問いかけて、何の気なしに目を開けた。窓の外は、まだ明るい。学園を出発した時刻に近く、周囲でも会話のやり取りが飛び交っている。
 正面を向いて眠っていたジェイドが窓の方へ身体を向けた。
「次は最後まで美味しく食べられる物がいいです」
 あんまり素直な言葉が聞こえたものだから、アズールの眠っていた意識が頭を擡げる。興味の赴くままに横を向いたら、窓越しに目が合った。二色の瞳を隠すように目を細める。その表情の意味する所をすぐに解して、アズールもつい普通に微笑んでしまった。
「では、またお前の好きそうな店を探しておきますよ」
「アズールも食べられる所にして下さいね」
「はは。当たり前ですよ」
 また段々と日が落ちてくる。傾いてきた太陽に再び瞼を下す。足元の鞄がバイブレーションを鳴らした。そういえば写真を送ったな、と微睡む意識の中で思い返す。
 少しだけ列車が揺れて、またうっかりぶつけないようにとジェイドの手を握る。ん、と眠たげな声がして、軽く握り返された所で、疲弊した脳はすっかり深い眠りへと落ちていった。

 

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