苦い、甘い、辛い

 

 薄っぺらい紙切れに墨を走らせて、ひらりと右手にできた紙の山に投げ乗せる。次の紙切れを左手で取ろうとしたが、其方側は更地と化している。それを確認したアズールは思い切り伸びをして、誰も見ていないのを良い事に欠伸をした。
 ペンを定位置に挿し、山は形を整えて、それからやっと席を立った。そこで静かに腹が鳴る音が聞こえて、思わず摩る。肉体は空腹を訴えている。時計を見れば、普段であれば既に夕食を摂っている時間だった。さてどうするか、と迷いながら、取り敢えず仕事の香りが充満する部屋を抜け出した。

 扉の先は祭りの後になったモストロ・ラウンジがある。最後の客が出て行って、寮生とアルバイト達が雑談を交えながら後片付けに勤しんでいる。
 横を抜けていくアズールに気がつけば、「お疲れ様です、支配人」と声が掛かる。適当に視線を送りつつ、目指す先は更に先、キッチンの方向。ガチャガチャと物同士のぶつかり合う音と水音が遠くまで聞こえている。そちらへ向かえば、強い化学調味料や甘い紅茶の香りが漂ってくる。
 カウンターから奥を覗けば、目当ての背中が見えた。挨拶を送ってくる他の寮生達を掻き分ける様に手でしっしと逃がし、目的地までの経路を作る。
「ご苦労様です、ジェイド」
「ああ、アズール。お疲れ様です。今日は随分と遅かったですね」
「少々集中していましてね」
 クロスで銀のカトラリーを撫でながら、歩み寄るアズールの方へ体を向けた。磨き抜かれた表面が光を反射する。ジェイドはそれをかちりと小さな音を鳴らして棚へ戻した。
「お食事ですよね。どうぞ、こちらへ」
「ありがとうございます。……随分と準備がいいな」
「後程、VIPルームまでお持ちしようかと思っていたので」
 寮生らをキッチンから追い出して、台の上に並べられた三人分の賄いを示す。サラダからメインディッシュ、果てはデザートまでフルコースに用意してある。通常の営業日にしては珍しく余裕があったらしい。ジェイドは恭しく椅子を引く。アズールの所作に合わせて、完璧な位置へ戻す。席に着いたアズールはまずグラスを手に取る。
「お前も食べていないんでしょう。ほら、座って下さい」
「ふふ、ではご一緒します」
 アズールの右手側にジェイドが腰を落ち着ける。彼もまたグラスを取って、アズールの方へ差し出した。そのまま互いのグラスを傾けて、チン、と綺麗な音色を響かせた。
「乾杯」
 短く挨拶を交わせば、薄いガラスに口を付ける。良く冷えた檸檬水は疲れた体に染みる。ほうと吐息を零す。ジェイドはにこりと笑い、フォークを手にした。
「今日の賄いはフロイドが担当しています。こちらがオススメだと聞いていますよ」
 銀色の爪が焼けた帆立貝を刺す。アズールもそれに倣って、大皿のメインに狙いを定めた。ざくりとフォークが焦げ色を貫く。あ、と口を開けて、そいつを運ぶ。くすり、と笑う声がした。

「……まっっっっず!!!!」

 それが噛み砕かれる事も無ければ飲み込まれる事も当然無かった。アズールはすぐさま帆立貝を口外へ吐き出して呻く。不味い。焦げているのもジャリジャリとした妙な食感があるのも不快感を催すが、それ以上に、帆立貝では有り得ない味がする。一体何を食べようとしたのか頭が理解を拒んでいる。
「何だこれは……」
「フロイドの賄いです。シェフのオススメはいかがでしたか?」
「ああ、最高ですね。お望み通りの反応を見せる事が出来ましたよ」
「ふふふ……ええ。フロイドにお伝えしておきます。大変愉快な様子だった、と」
 くすくすと口元を隠して笑うジェイドは、もう一方の手で焦げ付いた帆立貝擬きを弄ぶ。並べられた三人分の食事は、今しがたアズールが口を付けた物以外は一切手を付けられた様子が無い。
「ジェイドが食べていない時点で気付くべきでした。お前は食べられる物であれば、僕を待たずに食べている筈ですからね」
「そうですねぇ。そこはヒントのつもりだったのですが」
 もう舐める気すら起きない、外面だけは完璧なフルコースからカトラリーを遠ざけた。口直しに檸檬水を流し込む。変わらない筈のそれが、やけに美味しく感じる。
 ふわりと美味しそうな香りが鼻腔を擽り、再び腹が音を鳴らす。思わず、ああ、と声が漏れた。
「おやおや。ふふ、健康な事で何よりです」
「笑ってないで、何か用意したらどうです。このままでは、二人揃って栄養不足で倒れる羽目になりますよ」
「それはいけませんね。あなたの沽券に関わりますから」
 フロイドの失敗フルコースを乗せた皿がジェイドに運ばれていく。容赦無くゴミ袋にそれらを詰め込んで、空いた食器はシンクへ積み重ねていく。
 出来損ないのグレイビーソースが溢れて、細長い指を伝い落ちる。汚れひとつなかったそこから赤色の粘い雫がぽたり、ぽたりと垂れていく。腹が鳴り、ごくりと唾液を飲み下す。それに気付いてか、振り返ったジェイドが困り顔を作って、笑う。
「すみません、すぐにお作りしますので。……それとも、リクエストがおありですか?」
 ぺろりと唇を舐めた。あざとい仕草に呆れる反面、どうしようもない本能が疼く。食欲だけでは無くなっている事に、毒されている、と思わずにいられない。
「いいえ? 今日はお前に任せてみましょう。とびきりの物をお願いしますよ、ジェイド?」
 笑顔の奥に、隠しきれない色が混じる。そんなアズールを、細められた二色の瞳が捕らう。
「かしこまりました。では、まずは口直しを致します」
「……ええ。頼みましょう」
 変色したソースを拭い、コツコツと踵を鳴らしてアズールの傍へ寄る。甘い色を湛える双眼を見上げながら、アズールはジェイドの長い一房の黒を指に巻き付ける。くい、と優しく引き寄せ合い、至近距離に額を寄せた。
「そうだ、辛い物なんてどうでしょう? 最近、味を覚える機会がありまして」
「ああ……まぁ、好きにして下さい。お前が作るのなら、不味くはならないでしょうから」
「ふふふ。ご期待に添えるよう、努力します」
 言葉を区切って、互いの唇へ噛みつき合った。最後に飲んだ檸檬水の味がして、ファースキスのようですね、と笑いながら呟いたジェイドの唇に舌先を差し入れて、口蓋へ残されていた帆立貝を押し込んだ。

 

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