最初は小さな違和感だった。それを意識し始めたのはつい最近になってからだ。アズールと恋人関係になり、最初の辿々しい雰囲気も薄れてきたと思った矢先に、ふと気付いてしまった。
先ず切っ掛けはある日の錬金術の授業だった。ジェイドとアズールのクラスが合同授業になり、当たり前の様にペアを組んで材料を大釜へ放り込んでいると、途中で隣のペアが誤ってジェイド達の材料を使ってしまった。仕方なくジェイドが先生から余剰分を受け取って運んでいたのだが、その時、さっと横からアズールに奪われたのである。それはもうスマートに。
「僕が運びますから、お前は温度調節を」
涼しい顔でそう言ってのける彼に、少しの違和感と同時にもやもやとした不快な思いを自覚した。
それからだ、アズールのそういった類の言動にいちいち気が付くようになったのは。
例えば二人きりになった時、キスを求められて応えていると、優しく頭を撫でられる。それ自体が不快でもあるのだが、気障な事に、長い髪を掬って「綺麗ですね」と囁いてくるのだ。これもまた同じく不可解な気持ちにさせる。大抵は意趣返しとして同様の事をし返しているが、珍しげに見てくる上に満更でも無さげなので溜飲が下りた試しがない。
中でもとりわけ困るのは、取引の時だ。契約や”お話”の時は良い。だが、戦闘が予期される状況になった時、何故だかアズールがジェイドの前に立ってしまう。庇護を受ける様で心底気に食わないのもそうだが、本当に臨戦態勢を取られた際に対応が遅れるのが困る。押し退ければ諦めてくれるのは救いだが。
そして果てには、これだ。
「ん、ん……あっ」
人間の性行為という物は強い快楽を伴う。海では感じた事のない感覚にお互い戸惑っていたのは最初の話で、慣れてきた今ではそれなりに楽しんでやっている。
しかしながら、どうしても慣れないのが声だった。普段のジェイドであれば律せられる筈の、思わず溢れる声。嬌声と呼称されるらしいが、正直出すのも聞くのも嫌だった。喉も痛いし、何より情け無くて恥ずかしい。聞き心地が良い物でもないのに。
だというのに、自らの耳に入るのを厭って手を噛み息を殺そうとすると、アズールはそれを制して、言う。
「もっと聞かせて下さい」
初めて言われた日には嫌がらせだとしか思えなかったし、今でもそう思っている。低い男声が切羽詰まって裏返っているだけの、奇態な物を聴きたいだなんて、嫌がらせでないなら一体何なのだろう。
毎回行為が進むにつれて、段々と抑えきれなくなっていくので、最終的にはアズールの望み通りになる。そして、双方の余裕が失われてきた頃を見計らって、彼は言うのだ。
「……可愛いな」
はぁ、と吐息まじりにそう呟く。自らより長身で、それとは無縁の吊り上がった目の男に対して。女性でもあるまいに、可愛いとはなんだ。この言葉を聞く度に怒りで頭が沸騰した様になり、声もそれ以外の痴態も考えられず晒してしまう。とにかく不快で仕方が無い。
つまりは、女性扱いに近しいそれらが嫌だった。
「ああ、ジェイド」
図書室で授業資料を集めて運んでいると、またアズールが手を出してくる。特にその手には言及せずに微笑んでやると、相手も無言で手の中の物を掴んできた。少しの攻防の末、腕を高く掲げて荷物を避難させる事でアズールを引き剥がす。達成感で笑顔になった。そんなジェイドを見て、アズールが苦笑する。
「運んでやろうとしただけですよ」
「ええ、よく知っています」
「そうですか。じゃあ、どうしてそう必死に避けたんです? そういう気分でした?」
再度の攻防を警戒して高めの位置に資料を持ちつつ、席に着く。隣に手ぶらのアズールが座り、ジェイドを優しげな微笑みを浮かべてじっと見つめている。その表情に、またもやもやした。
「嫌なんですよ。侮られているようで」
「何がです?」
「確かに僕は、アズールには力負けしてしまうでしょう。しかし、それはあなたの規格外な腕力と比較した場合に限ります。一般的に考えれば充分、標準以上なんです」
どさ、と態と音を立てて資料を机上に乗せる。後ろの席に座っていた生徒がびくりと跳ね上がる。そう、あれが世間一般におけるジェイドへの評価である筈だ。
「それなのに、近頃のあなたは、僕には重たい物が持てないとでも言う様に執拗に荷物を奪おうとしますね。何故です?」
「まさか。侮ってなどいませんよ。お前の能力は僕が一番把握しています。ただ、恋人として気遣っているだけじゃないですか」
「僕はアズールの恋人になったのであって、彼女になった覚えはありません」
普段通りに胡散臭く笑うアズールを横目で睨む。つまりはこういう事が言いたかったのだ。一方的に甘やかされるのは本意ではない。
「すみません、そんなつもりは全く無かったんですが……お前があんまり愛らしいので、つい勘違いをしていたかもしれませんねぇ」
「それもです。可愛いだの、綺麗だのと……女性扱いでなければ愛玩動物扱いでしょうか」
これまで腹の中に溜めていた鬱憤を晴らさんとばかりに言葉が流れる。今日は満足するまで止まらなそうだと残る冷静な部分で思う。少々きつい言い方をしてしまっている自覚があったが、アズールは機嫌よく笑うだけだ。まだむかつきが止まない。
「アズール。僕は真剣にお話ししているんです。それをへらへらと、馬鹿にしているんでしょう?」
感情のままに声を出せば、思った以上に圧力が強くなってしまった。どうも話を聞いていたらしい後ろの生徒は、真っ青になり慌てた様子で席を立つと足早に出て行った。
二人になった教室で、静かに見つめ合う。甘い空気など一切ない、つもりだった。
「そんな事はありませんよ」
ふ、とまた優しい表情を作ったアズールが、怒りを呈している筈のジェイドの頭を撫でる。ぽん、とまるで壊れ物でも触る様な手付きで触れられて、遂に何かが切れた。意識して感情を表出させ、バン、と机を殴る。アズールの手が止まる。
「やめて下さい、と言っているんです」
「これもいけませんか。我儘ですね」
「我儘? 不当な扱いに提言するこの行為がですか? それはそれは……随分と横暴な事で」
罵倒を考えるのに撫でる手が心底邪魔で、頭を振り勢い良く腕を叩き落とした。すると、そこで漸くアズールが動揺を見せた。やっと怒りに気が付いたようだ。
「そ、そんなに嫌だったんですか? 困っているのは知っていましたけど、満更でも無い様子だったと」
「知っていた? ああ、そうですか。なるほど。僕の困った顔が見たくて、それで態と侮ったフリをして楽しんでいた、という訳ですね」
今頃焦り始めたアズールに少しだけ愉快な心持ちになった。しかし、募った不快感を上回りはしない。
「良いご趣味で」
そう吐き捨てれば、焦燥に揺れた瞳が見えて、やっと僅かに溜飲が下りた。
「……すみません」
「おや? もう言い訳はなさらないのですか?」
「いえ、お前の言う通りなので」
先程まで楽しげであった様子から打って変わって、憂鬱げに息を吐いている。それでも、ジェイドを見つめる目は改善されない。ぎゅ、と眉間に皺が寄るのが分かった。
「その顔が見たくて」
「……はい?」
「お前のその、どうしたらいいか分からないっていう顔です。最初は無意識にやっていたんですが、途中から目的が変わってしまって」
緩んだ目元がジェイドを射抜く。見られる事すら不快になって目を逸らした。ばくばくと心音が煩い。不快だ。聞こえる様に舌打ちをすると、今度は頬を撫でられる。
「そうやって赤くなるのも、いいですね」
「赤く……? 僕がですか?」
「ああ、やっぱり気付いていなかったんですね。お前にしては繕わない物だと思っていましたよ」
細く綺麗な指先が頬を滑り、首筋を撫でる。ぞくりと何か悪寒に似た、どこか甘美な感覚が走って身を引いた。
「本気で嫌なのであれば、お前がその反応をやめたらいいんです。目的が無くなれば、僕だって無意味な事はしませんから」
鎖骨を這っていた指が離れる。あ、と小さく声が漏れて動揺した。まるで寂しがっているかの様だ。
どんどん弱くさせられていく気がして、雄の矜持を守る本能が本心を認めるのを躊躇っている。本音はきっと、アズールには見抜かれている。不快だと思う度に、否、思い込む度に、彼の目には本心を明け透けに見せた表情が晒されていたのだろうか。
否定も肯定も出来ずに視線を彷徨わせるジェイドを、アズールは愛おしげに見つめている。それに気が付いたら、もう頷く事は出来なかった。
「……分かりました。ですが、”あれ”だけはやめて下さいませんか」
「”あれ”? どの事ですか?」
それでも、どうしても譲れない事が一つだけあった。一番気になっていて、唯一生まれる感情の意味が不明なもの。
「僕に、……性行為の最中に、可愛いと囁くのを」
「…………えっ」
場所を考えて躊躇ったが、誰もいないと確認して結局言い切る。するとアズールはこれ見よがしに動揺を見せた。
「しかも、毎度反論出来ないタイミングで仰いますよね」
「毎度!?」
「確かに組み敷かれているのは僕ですし、揶揄する気持ちも理解は出来ますが、身体を明け渡しているのは僕の意思である事を失念なさらないよう」
「な、何っ……ちょっと待って下さい!」
まだ言い足りないと言葉を紡ぐ口を手のひらで塞がれて、仕方なく黙る。なぜかアズールは焦っている。
「今の言葉は、その……事実ですか?」
「ええ、事実です。あなたの方がよくご存知なのでは?」
思い出してぶり返すもやもやに眉を顰めていると、段々とアズールの様子がおかしくなる。一人で百面相をしていたかと思えば、目が合った途端に、じんわりと顔を赤くした。
「……僕……口に出していたんですか? しかも、毎回?」
「……そうですが」
「嘘だ、そんなはずは……! あんなに気を付けていたのに!?」
突然、アズールが顔を両手で覆い悶え始める。ジェイドは最初こそ冷めた目で見ていただけだったが、ふと一連の言葉を咀嚼して、一際強い不快感に襲われた。
それはつまり、あの言葉だけは揶揄ではなくて。
「…………無意識、だったんですか?」
アズールは答えない。それが返答みたいなものだった。
苦言を呈していただけだったのに。やめさせる筈であったのに。脳内を巡る思考は茹だり始めた。嫌がらせでないなら何なんだ、という問いの答えが目の前に示されている。
「っ……」
顔に熱が回るのを制御出来ない。アズールのそれが感染ったのだと言い訳するも上手くいかず、重力のままに俯く。
まるで不快感に良く似た、頭を沸騰させる怒りのような感情は、今彼の傍に居る限りは収まりそうになかった。
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