鋭い銀の切っ先をインクに浸し、了承を促す文言の下部へするりと滑らせる。随分と書き慣れた自らの名前にふうと息を吹きかける。
インクが乾くまでの時間潰しに次の書類を手に取ったところで、部屋の外から慌ただしい足音が聴こえてきて、アズールは目をぎゅっと閉じ目頭を押さえた。
この足音はフロイドか。今度はどんな面倒を言い渡すのか、と自分の事は棚に上げて顔を顰めて待つ。
足音は扉の前で止まった。そこで変だなと思う。普段のフロイドであれば、そのまま蹴り開けるなりと間髪入れず押し入ってくるのに。
先程まで走っていたであろう相手は扉を前にして息を潜めている。暫し逡巡して、アズールは席を立つ。これはジェイドだ。
なるべく音を殺して、扉に近付く。それから思い切り良くドアノブを捻って引き寄せると、思った通りの奴がいた。ジェイドはやや驚いた表情を作り、「おや」と笑む。
「お出掛けですか?」
「仕事中です。慌ただしく走ってきた癖に、いつまで経っても入ろうとしない変人の顔を見てやろうと思いまして」
「それはすみませんでした」
ふふ、と愉しげに口角を上げる。しかし、長い事時間を共にしているアズールの目には、動きが僅かにぎこちなく映る。
「何です、緊張して。らしくもない」
「おや、伝わってしまいましたか。お恥ずかしい」
「当然でしょう。それで? 一体どんな用件ですか?」
促せば、少しだけ目を泳がせてから、しおらしげな顔を作って口を開いた。
「アズール。何も言わずに、抱き締めて頂けますか?」
「はい?」
一瞬、目の前にいるのはフロイドかと勘違いしかけた。どこからどう見てもジェイドだな、と思い直してまた思考が飛び掛けた。
理解が追いつかず、抱き締めるとは自分の知る意味と別の意味もあるのか、と本気で考える。
「なん、……え? 何ですか?」
「ですから、抱き締めて下さい。ハグですよ」
「ハグ……」
自分の知っている通りの意味だった。思考の順番がちぐはぐになって、取り敢えず扉を閉じて鍵を掛けた。
戸惑うアズールの手をジェイドが控えめに握る。更に驚嘆して思わず握り返すと、何故かジェイドもびくついた。
「……お願いします、アズール」
「……何故なんですか?」
「それは言えません」
思いの外、深刻げな重い口調で返されて、考察の方角が変わる。もしかして、ユニーク魔法の類か。誰かしらとハグすれば治る、とか。どんな魔法だ。
頭の中で馬鹿な事を巡らせつつ、ジェイドの様子を窺う。来た当初からの緊張は相変わらずで、今はそわそわと落ち着かない様子もある。とは言っても、アズールやフロイドを除けば普段通りと騙されるであろう程度だが。
戸惑いやら気恥ずかしさやら、後の事などが頭を過り、唸りながら考える。
「ええと……それは僕でなければ駄目なんですか? フロイドは?」
「いいえ、フロイドでは意味がないんです。あなたでなければ」
僕でなければ。反芻して、自分の魔力か、と思い至る。ハグそのものというよりも接触に意味があるのかもしれない。改めて手を握り直すと、ジェイドが一歩退いた。
「アズール、手ではなくて」
「手だけでは足りませんか」
「…………はい」
たっぷり間をおいて、ジェイドが頷く。その仕草を見て、ようやくアズールは覚悟を決める事にした。
手を離し、一歩ジェイドに近づく。そして両手を広げ、きょとんと丸まった目を見上げた。
「どうぞ」
「……僕から、ですか」
「何です? まさか僕の方から抱き締められたいと?」
理由も聞かず付き合ってやるんだ、これくらい許されるだろう。そう思い揶揄うと、想像とは違う反応が返される。
ジェイドは一度唇を噛んで、それから、ゆるりと首肯した。今度はアズールがきょとんとする。
「……え? お前、本当にどうしたんだ?」
とうとう心配になって尋ねてしまう。一体何の魔法なんだ。精神に作用する物であるのなら、早く解除した方が良い。
アズールは目が合わなくなったジェイドの両腕を掴む。身震いしたらしいその腕を引き寄せて、上体が倒れる前に受け止めた。自分より高い背中に腕を回すのは面倒なので、そのまま腰に腕をやる。ジェイドの動きが停止した。
「これでいいですか」
「……」
「ジェイド」
黙り込んでしまった。答えを促そうとして、腰を支えるのとは別の手で後頭部を軽く数回叩く。ふる、と一度頭を振って離させようとしてきたのが気に食わず、髪に指を差し込んでかき回した。
さらさらと流れる髪が楽しくて暫し触れていると、ジェイドがアズールの肩を押した。
「何です」
「もう、充分ですから」
「本当に? まだ数分じゃないですか」
稀有な接触が名残惜しくて軽く引き留めていると、焦れた様にぐっと胸を押され引き離される。文句を言う為に開いた口は、視界に入る見飽きた顔の頬に差す見慣れない朱色にぽかんとする。
「ジェイド、お前」
「全てフロイドのせいなんですよ」
「は? フロイド?」
明らかな変化を指摘する前に、唐突な名前につい鸚鵡返しをした。
「はい。フロイドが僕に”素直にならないとアズールに愛想を尽かされる魔法”を掛けてきたので、致し方なく、こうして恥を忍んで来たんです」
「な……どう……いや……」
また口がぽかんと開いた。それは魔法じゃなくて発破を掛けられたんだろうとか、抱き締められたいのはお前の本心だったのかとか。兎角言いたい事が多すぎてまとまらない。意味のない音節ばかり並び立ててしまう。
しかし、取り敢えず。
「今更、愛想を尽かしはしませんよ。するならとっくのとうに済んでるからな」
「そうでしょうね。ええ、僕もそう思います」
「それに、こういうのは偶にでいいです。色々と我慢が利かなくなってしまうので」
言えば、表情を失くしてアズールを見つめるジェイドから目を逸らす。誤魔化す様に腕を組んで、こほん、と咳払いをした。
「と、フロイドに伝えて下さい」
気が抜けた様な顔でこくんと頷く姿に、げえと面倒そうに歯噛みするフロイドの姿が脳裏に浮かんだ。どうせなら、誰の手も借りずにやってのけたい。これまでだってそうしてきたんだ。
「では、これで失礼します。お時間を取らせてしまい申し訳ありません」
すっかり赤みの抜けた普段通りの顔で、慇懃に告げる。アズールはにこりと笑い、言葉を返す。
「いえ、とんでもない。実は丁度、書類の方に区切りがついた所だったんです」
「……そうでしたか。それでは、ごゆっくりお休み下さい」
「まあ、そう急がなくてもいいじゃありませんか。もう少しゆっくりしていったらどうです?」
じりじりと引き下がるジェイドに大股で近寄って、彼の背後の壁に手を置いた。戸惑いと焦りが混じり始めた表情に気分が良くなる。
「もっと抱き締めてあげますよ」
「結構です。気が済みました」
「そうですか。でも僕の気が済んでいないので」
つ、と腰を撫でると形のいい眉根が寄る。退路を探しているのだろう、じっとアズールの様子を窺っている。
しかし、それは悪手だ。
「今度は僕に付き合ってもらいましょうか」
両腕で腰を引き寄せると、う、と小さく呻いて顔を背けた。
これが自惚れでないと分かったのなら、後は絡め捕るだけだ。どちらが先に意地を捨てる事になるだろうか。何となく決着は見えている気がした。
諦めた様に力を抜いて、こつんと額を合わせた色違いの双眼は、甘い期待に濡れていた。
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