恋愛下手の勘違い

 

「お前に大事な話があります」
 ラウンジの閉店後、アズールは片付けをしていたジェイドを呼び止め、そう切り出した。ジェイドは片付けの手を止め、そちらに向き直る。
「話……ですか。心当たりが全くありません。フロイドの仕業ではありませんか?」
「違う。仕事の話ではなくて……その、恋人としてです」
「……ああ」
 首を傾げていたジェイドは、そこで納得の声を上げた。なるほどと頷いたのを見て、アズールは話が伝わったと満足げに息をついた。
「では、就寝前に僕の部屋まで来るように」
「はい、かしこまりました」
 ジェイドは平生の態度を保ち、胸に手をやり会釈し見送る。しかし胸中は落ち着いていなかった。
 これはいわゆる別れ話というやつだ。
 そういう事なら心当たりは死ぬ程ある。クロスで台を拭きながら、普段の可愛くない発言の数々や行動を省みる。唐突でもない気がしてきた。いつもなら待ち遠しい筈の夜が憂鬱だった。

 夜になり、アズールからの指示通りに部屋へと訪ねた。ノックをしている間にも逃げ出したくなる。しかし、直前まで検討していたその行動は開かれた扉から覗いた姿によって消し去られる。
「よく来てくれましたね。どうぞ」
 シャワーを浴びた直後なのか、心無しか肌が赤みを帯びている。思わずどきりと心臓が高鳴った。これから振られると言うのに現金な物だと思う。促されるままベッドに腰掛けた。
「この時間に来るのは久しぶりです」
「え? ああ……そうでしたね。前は確か……」
「部屋にまで仕事を持ち込んでいたあなたに、飲み物を差し入れた時ですね」
「睡眠薬入りのな。しかもフロイドが調合した危険物でしたね」
「危険物ではありませんよ。効くか効かないか、はたまた効きすぎるか……の三択じゃないですか」
「三択目が危険物だと言ってるんですよ」
 話を切り出されるのが嫌で、つい無駄話ばかりしてしまう。どこか緊張した面持ちでいたアズールが、その内に覚悟を決めた顔に変わったのが分かり、しまったと思う。もっとプレッシャーになる話題を選ぶべきであったか。
「ジェイド」
「……はい、何でしょうか」
「その……そろそろ本題に入りましょう」
 椅子から立ち上がったアズールがジェイドの傍へ歩み寄る。目の前まで来たアズールを座ったまま見上げる。この視点はかなり新鮮だ。もう現実逃避に近い思考を回している。
「……ジェイド」
「はい」
 嫌です。別れません。本題が出たら即座に断ろうと頭の中で復唱する。
 別れたくないが別に変わろうとは思わない。自分を曲げるより相手を曲げたい。言葉で捩じ伏せるのは得意分野だ。そこはお互いに、ではあるが。
 舌戦を開始する心構えが出来たところで、アズールの手がジェイドの頬をそうっと撫でる。海の冷たさを思わせる青い目が、どこか熱っぽい。ここに至るまでに想像していた表情とは一つも重ならなかった。
「今夜……お前を抱いても、いいですか」
 ぴしり。全身の筋肉が変な動きをして止まった。口角まで固まる。想定の斜め上だった。いやむしろ百八十度反転していた。そうか、そっちなのか。少しも思い至らなかったのは、単にどうせ相手はアズールなのだし、と陸での交際についての勉強を怠っていたせいだろう。動揺が隠せない。
 しかし、ジェイドにとっては、関係性が進展すること自体は悪くないとも感じていた。傍に置かれ、役に立ち、愛でられる主従の真似事も楽しいが、そういった恋人らしい事も経験してみたい。殊更深く心までも繋げるのなら、喜んでこの身を差し出してやろう。
 そう思い、ジェイドは百点満点の微笑を作り上げて頷いた。
「嫌です」
「なっ」
 あ、間違えた。つい用意していた言葉が口をついてしまう。
 色々と準備万端な様子のアズールが、不可解な現象に遭遇したかのように目を見開いている。少し面白い。
「なぜです? やり方は完璧に調べていますし、きちんと準備だってしています。ですから、今日は最後までする気はありません」
 頬から肩に手を移してがしっと掴まれる。押し倒されるのかと思い身構えたが、説得に力が入っただけらしい。
 流石はアズール、という感想を抱きつつ、ずっと浮かんでいたとある疑問を口にした。
「僕が抱かれる側なのは確定なんですか?」
「ああ、そこが不満でした?」
「いえ、そういうわけではありませんが。気になってしまって。アズールが、僕相手にちゃんと出来るのか、と」
「どういう意味だ? ……ああ、いえ。分かりました。その点は問題ありませんよ」
 ふふ、と妖しく笑うアズールに心音が早まる錯覚がした。
「というか、お前……僕に抱かれてもいいと思っているんですね?」
「まあ、そうですね。僕に対して必死になるあなたを見るのは楽しそうですし」
「じゃあ、何が嫌なんですか?」
 じい、と品定めする様に目の奥を覗き込まれ、苦笑する。諦めてアズールの手に触れ、言う。
「あなたと別れる事です」
「は? それは僕も嫌ですが?」
 深刻にしないべく、なるべく軽い調子で聞こえる様に言ったのに、真顔で即答されてしまった。眉を顰めるアズールは本気で嫌そうだ。
「さてはジェイド……今日の話を別れ話だと勘違いしていたな」
「ふふ、だってアズールが恋人同士の大事な話とだけ言うものですから」
「空気で何となく分かるだろ! そんな唐突に別れろなんて言いません。一生言うつもりも言わせる予定もありませんが」
 鼻を鳴らしながら、自信たっぷりに鷹揚と言ってのける。ジェイドも頷く。
「僕もです。もしアズールが別れたいと仰っても、身も世もなく泣き喚いて引き留めますよ。それはもう、前言撤回したくなるほどに」
「ふふ。フロイドが聞いたら、見たいと言い出しそうですね」
 顔を突き合わせて笑う。色々とどうでも良くなってきた。もう楽しければ何でもいい。

 アズールがジェイドの隣に腰掛ける。そのまま笑顔を形成する唇同士を合わせ、キスの合間にくすくす笑う。競う様に息を奪い合って、舌を絡め取り合って、段々と体勢が崩れる。二人でどさりとベッドに倒れ込んだ。
 至近距離へ近付いた瞳に、じりりと焦がされるようだ。弾む胸のままで、もう一度軽く唇を合わせる。
「いいですよ、アズール。僕を抱いても」
「上から目線だな……。本当にいいんですね? もう前言撤回はさせませんが」
「ええ。代わりに、ちゃんと”お互いにとって”気持ち良くして下さいね」
 肩を掴み、腹に乗り上げてきた腿を撫でる。すると、ふっと熱い息を抜く音がして、両手の指がアズールの指に絡み合う。やんわりとした拘束が、ジェイドの四肢をベッドに縫い付ける。
「もちろん。言われなくても、そのつもりですよ」
 不敵に笑ったその姿に、嗚呼楽しい、と湧き上がるときめきに似た熱い興奮が心臓を支配する。余裕ぶって自らを見下ろした恋人の、ぎゅうと握る汗ばんだ手のひらが堪らなく愛おしい。この感情を伝えられるのなら、端ない行為も厭わしくないはずだ。
 額にキスが落とされる。「いいですか」と最初の緊張感を取り戻したらしいアズールが再度確認する。返事の代わりに、期待か恐怖に震える脚で彼の背中を抱き締めた。

 

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