茹だる頭に甘い熱

 

 寝苦しい。そんな考えが浮かんだ時点でアズールは目が覚めていたし、やけに重たい布団にも気が付いていた。億劫ながら瞼を押し上げて状況を確認しようとするが、何やら温い水が落ちてきて儘ならない。鬱陶しい、と手の甲で拭うが、一向に途絶える気配がない。段々苛ついてきた。息まで苦しく感じ始める。というか、というより。
「……あっっっつ!!」
 堪らず足で布団を押し上げ蹴飛ばしてベッドの下に放った。暑い。暑い。口に出せば自覚する。だらだらと汗が滝のように流れている。拭えど止まらないそれを振り払いながら転がる様に部屋を飛び出す。そして絶句した。
「暑い! 助けて!」
「ひ、干からびる……!」
「水を……誰か水を……」
 寮生達が廊下に落ちている。否、倒れている。焦りで声を荒げる者、その元気も失った者。正に死屍累々といった状態だ。
「どうなってるんだ……」
 呆然と立ち尽くし言葉を失っていると、「アズール!」と大声で叫びながら駆け寄ってくる背の高いシルエットが二つ、視界に割り込んできた。アズール同様に滝の汗を垂らしながら、まずフロイドが辿り着く。それを追い掛けるように、へろへろとジェイドが歩いてくる。
「ジェイド、フロイド! これは一体、どういう状況なんですか!?」
「オレらも……はぁ、知らねーけど! 空調が壊れたっぽ……げっほ! 喉焼ける!」
「学園の、空調管理は、学園長が行って……いますから、報告……しなければ……」
 フロイドが大きく噎せて、力尽きたように床に転がる。ジェイドは辛うじて真っ直ぐ立っていたが、話し終わるとぐしゃりと頽れた。もう駄目だ。
「……分かりました、ちょっと休んでいて下さい。僕が行ってきます」
「あ~~……おねがーい……」
 寮の床にべったりと頬をくっつけたままのフロイドに見送られながら、阿鼻叫喚の廊下を早足で歩く。アズール自身も今すぐに倒れて僅かでも熱を逃がしたい。しかし、寮長として、そんな様を見せるわけにはいかなかった。
 談話室を抜け、鏡に触れて……引き下がる。途轍もない熱を感じたからだ。それでも意地だけでまず腕を通して、また引き抜いた。不味い。暑すぎる。鏡舎は寮内より暑い。むしろ熱い。
 逡巡して、あっさり踵を返した。時計を確認しながらマジカルペンを構える。そして談話室に向けて、振り翳した。魔法石を介して冷気が大量に溢れる。冷却魔法だ。一時的に、むしろ一時の効果だが、無いよりは良い。談話室で干からびかけていた寮生達が力なく歓喜の声を上げ、それにつられて廊下から這いながら談話室へ寮生が集まってくる。
「冷却魔法だ……さすが寮長……!」
「俺も掛けます!」
 少し元気になったらしい寮生がマジカルペンを構える。それに続く様に、元気を取り戻した者から部屋を冷却し始めた。正直、思惑通りに動いて笑い出しそうだったが、放置してきた双子を連れて来なければと廊下に戻った。
 二人は先程と同じ位置で、同じ状態で転がっていた。気絶しているのではと危惧しながら近寄れば、フロイドが「あれ?」と声を上げたので安堵する。
「学園長は?」
「よく考えたら夜中なので応対してくれないだろうと言う事でやめておきました。今は寮生達が談話室を冷凍庫のように冷やしてくれています」
「どうせ外の方が暑かっただとか、そういう理由でしょう」
「置いていってもいいんですよ」
 図星を突かれたのもあったが、床に広がっている状態でまで憎まれ口を叩いてくる事に呆れてそう返した。本当に一歩進んでみると、ガッと勢いよく足首が掴まれて体勢を崩しかけた。何とか踏ん張って耐える。
「アズールぅ、今ジェイド死にかけてるから許してあげてー」
「文句を言う元気があるのにか?」
 とりあえず手を引き剝がそうと足を上げると、容易く離れていった。力なく床に落ちたのを見て、確かにフロイドの言葉通りかもしれないと思い直す。
「ジェイド、起きれますか?」
「……」
「無理だってえ」
 初期位置から一ミリも変わっていないのを見ても分かっていた事だが、改めて大変な状況になったと溜息が漏れる。仕方ない、とジェイドの腕を引き上げる。その時点でも体温がかなり上がっていると気付いたが、顔は想像以上に真っ赤になっていた。本当によく文句を言えたな。
 ジェイドの腕を肩に掛けて、支える。陸で酒に酔った人間はこのようにして運ばれるらしい、と何処かで聞いた話を想起しながら、談話室に三人で向かって行った。

 ◇

 翌朝、寮生達のブロットが大変な事になっていたという事件を乗り越えながら、アズールは学園長へようやく報告をした。その後、他寮でも同様の問題が発生している事が発覚し、急遽寮長会議が開かれる事態となった。
 何だかんだで面倒を逃れたアズールは、学園長室がオクタヴィネル寮とは対照的に冷凍庫になっていた事もあり、すっかり元気を取り戻していた。つい先日世話になったスカラビア寮も学園長室と同じ状態になっているという情報を掴み、ジェイドとフロイドを連れてまたお邪魔しようと画策しながら、オーブンのように熱い鏡舎を抜けた。

 寮に戻ると、やはり暑かった。問題解決の目処は立ったものの、それがいつになるかは分かっていない。スカラビアに寮長・副寮長が不在の今の隙に二人を回復させてやろうと思い、姿を探す。談話室にはいなかった。次に個室を覗く。いない。もしやと思いアズールの個室も覗くがいなかった。一応、と思いながらモストロ・ラウンジに入ると、まず数人の寮生がソファに横たわっていた。その中に二人の姿はなく、しかしある可能性を思いついてキッチンへ向かった。すると、そこにいた。
 冷凍庫に入っていたはずの溶けた食材に囲まれて仰向けに寝転び、陸に上がりたての頃みたいに下手な呼吸をしているジェイドと、ぴったりと閉じた冷凍庫からはみ出した制服の裾。フロイドだろう。普段なら真っ先に食材を無駄にしたことについて叱っていただろうが、状況が状況だ。急いでジェイドと冷凍庫に駆け寄る。
「ジェイド、フロイド。しっかりして下さい。朗報ですよ」
「……アズール……」
 開いたジェイドの目はぼんやりとしていて焦点が合わない。熱中症、という言葉が頭に浮かんだ。早く冷やさなくては、とマジカルペンを振る。しかし、アズール自身も疲れているのか、普段通りの力が出ずに弱い冷気が漂うのみだった。酷い出来だと気落ちする。
「スカラビア寮はここと真逆で、極寒になっているそうですよ。今はカリムさんもジャミルさんも借り出されていて不在ですから、入れて頂き――」
 気を取り直して口にした素晴らしい提案は、最後まで述べられずに消える。唐突にネクタイが引かれて喉が絞まったせいだ。床に伸びていた筈のジェイドが凄い力でアズールを引っ張っていた。驚いて咄嗟に床に手を付き、倒れ込むのは阻止した。ジェイドは尚も引き寄せようとする。しかし無理だと悟ったのか、ネクタイから手を離した。
「うっ。何ですか、ジェイ――んっ!?」
 油断した、と思った。離した手はアズールの首を捕らえ、引き寄せられる。荒い呼吸のままでジェイドは首を擡げ、食らいつく様にキスをした。
「ん、んんっ!」
 思考が一瞬にして途絶える。しかし唇を舌でちらりと舐められた途端に頭が冴えた。半ば衝動的に肩を掴んで引き剥がす。熱に茹だっているジェイドの手はやはり簡単に外れる。
「っ……はぁっ、急に何するんです!」
「ふ、っぅ……」
 頭が揺さぶられたせいか、ジェイドの口から苦しげな息が漏れる。汗で張り付いた髪や濡れた唇が妙に艶っぽく見えて、これはまずい、と本能で感じた。いや何が不味いんだ。
「……熱で頭がいかれてしまっているのは、まぁ理解しましょう。ですが、よく見て下さい。お前の目の前にいるのは僕ですよ」
 ジェイドは暫しぼうっとアズールを見上げていたが、また腕を伸ばして首に絡みつく。またキスされると考えて必死に顔を背けたが、訪れたのは思いきり抱き締められる感触だった。
「え、なっ……さっきから何をしているんですか! おい、ジェイド!?」
「……涼しい」
「は?」
 ぐりぐりと肩口に頭を押し付けられる。聞こえた単語を何度も反芻して、それから理解した。アズールの方が今は体温が低い。きっと体温を吸った床よりも冷たいのだろう。つまり、今アズールは涼を取られているらしい。ふざけるなと脳内で叫んだ。
「はー……はぁ……」
「っ……」
 耳元で荒い呼吸が断続的に注ぎ込まれる上、首に絡む体温が焼ける様に熱い。舐められた唇はちりと疼く。脳がオーバーヒートを起こしてあらぬところにまで熱が集まってきた。本格的にまずい。バレたら色々と終わる。特にフロイド。
「あああ、もう!」
 首を抱きしめる両腕を掴んで、開かせる。それから、強く抵抗されながらもどうにか押さえ込み、手首ごと床に押し付けた。
「う……ぐっ、離して、ください」
「いけません。一旦頭を冷やして下さい」
 僕も含めて。そう胸中で付け加える。もぞもぞと身体の下で藻掻くジェイドを見て、ふぅと息を吐いた。今日は色んな事があって疲れたな、なんて思いながら首を振る。すると、残っていた汗がぽたりと落ちる。それはジェイドの首筋に落ち、ついと撫でるように伝った。
「んっ」
「え」
 聴覚が唐突に甘い声を拾って心臓が跳ねる。声の主を一瞬測りかねて何度も瞬きをした。余りの事に固まっていると、ジェイドが悔しげに唇を噛んだのが見えて、あっと思った時には遅かった。気のせいで済ましたかった熱が本格化してしまう。
 熱を逃がしたくて手首を掴む力を強め、はたと気付く。今の体勢について、陸ではどう思われるのか学ばなかったか。

 混乱してきた頭を必死に巡らせている最中、ふと焼かれるような視線を感じて顔を上げる。僅かに冷凍庫の扉が開いていた。
「あ……アズ……」
 そこから、真っ青になったフロイドが、口を押さえながら二人を見ていた。
「まっ……待てフロイド! これは誤解――」
「アズールがジェイドを襲ってる~~~!!」
「違っ、そうじゃない! やめろ大声を出すな!」
 両手を上げて無実を証明せんとするも、余計にフロイドに怯えられる。自分も襲われるとでも思っているのだろうか。とにかく半分以上は誤解である。
 尚も言い募ろうとするフロイドと、身を捩り両手で顔を覆い隠してしまったジェイドに、冷静さの欠片をも打ち砕かれてしまったアズールは涙目でマジカルペンを振りかぶった。魔法石から強い冷気があふれ出す。
 轟轟と吹き荒れ始めた氷の風に、騒いでいたフロイドがすっと真顔になった。
「やべ、揶揄い過ぎ――」

 ◇

 次に気が付いた時には、びしょ濡れになったキッチンの床上に倒れ伏していた。覚醒直後は記憶がすっかり抜け落ちていて、「はぁ?」と思わず疑問符を口にした。しかし体を起こして、空調が平常通りになっていると分かり、事件が起きていた事を思い出した。あれは終わったのだなとほっと息をつく。留年せずに済んだなどと呑気に考えていると、ラウンジの方からフロイドが一瞬顔を出した。声を掛けようと口を開く前に、何故か引っ込んでいく。
「ジェイドー、アズール起きたぁー!」
 遠のいていく声がそんな事を叫んでいる。どうしてジェイドを、とそこまで考えて、突然に記憶が返ってきた。熱い吐息、体温、甘い声。ぶわりと体中に熱が駆け巡り、頭を抱えた。アズールのそんな心情など知らないジェイドが、フロイドと入れ替わる様にキッチンへ顔を出す。
「アズール、体調はどうです?」
「え、あ……ああ、はい……大丈夫です」
「空調、無事に治ったようで。死傷者が出ずに済んで良かったですね」
「はは……そうですね……」
 すっかりいつもの調子に戻っているジェイドの顔がまともに見られない。顔を俯けたまま応対していると、ジェイドが近づいてくる気配がした。それにさえ蘇らされる疚しい気持ちをどうにか払い除けようと目を瞑るがどうしようもない。
「すみません、アズール」
「……何がですか? 倒れていたお前を運んであげた件ですか? それとも、別の?」
「両方です」
 しおらしい態度で謝ってみせるジェイドの声色に気を許し、顔を上げる。まあいつも通りの困り顔がそこにあった。本気か揶揄いなのか分からない表情に顔を顰める。
「ご迷惑をお掛けしたようで……色々とすみませんでした、アズール」
「いえ……構いません。僕だって以前……」
 少し前の自らの失態を想起して苦々しい顔をする。気付いて苦笑したジェイドに、疲れていたのもあってついむっとした。それが良くなかった。
「それに、お前の珍しい姿も見れましたからね」
「……何のお話でしょう?」
「おや? 覚えていないんですか? 残念です、あんなにも僕にしがみ付いてキスを――痛っ!?」
 そこまで言って、続きはまた奪われる。足を思いきり踏まれたのだ。長い脚が振りかぶるのも見えたが避けられなかった。激しい痛みに蹲り悶える。
「おやおやすみませんねぇ、床が濡れていたものですから、うっかり」
「お、お前、僕がどれだけ頑張ったと思って……っ!」
「……頑張ったとは?あなたは今回の事件解決には関わっていないとお聞きしましたが?」
 しまった、墓穴を掘った。アズールは回らない頭をようやく理解して口を噤むことにした。しかしジェイドはまだ気が済んでいないらしく、しゃがみこんでまでアズールの顔を覗き込んでくる。目が合ってしまった。
「一体、何を頑張って下さったのですか?」
「うるさい、言葉の綾です。何でもありません」
「何でもないなんて……ひどいです。僕のあんな姿を見ておいて逃げる気ですか?」
「っ!?」
 脳裏にジェイドの潤んだ瞳と赤い首筋が浮かんで、思いきり動揺した。勢いで顔を上げてしまって、後悔する。にや、と細められた金色に冷静さを欠いたアズールが映し出される。
「責任、取って下さいますよね?」
 こういう時、動揺を見せた方が負けだ。経験上、重々承知している。十分過ぎるほどに理解している。だから、今更だと思いながらも、笑顔を作って見せた。
「もちろん。一生、面倒を見てあげますよ」
「……重い人ですね」
 はぁ、と眉を下げて目を逸らしたジェイドに、内心で喜色を浮かべた。暑くもない部屋の中で紅潮したのなら、これは引き分けだ。そう思いながら、ジェイドの口元を覆っていた手を握ってやる。

「……あっ」
 それがどちらの声だったかは分からない。ただ、嬉しそうににやけたジェイドの唇を見たアズールは、隠し切れない感情をどうにかしようという試みをやめる事を決意したのだった。

 

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